■マルセル・パニョール論。――

いについて」の

ジョン・カリュー・エックルス。

 

きょうは、12月29日だって? 

「ウソだろう?」という男がいた。きのうから飲んだくれていて、ついさっき目覚めた男である。

襖を開けると雪国であったっていう話さ。――

「田中さんは元気ですなあ、御年78で」という。

「宇宙が崩壊しないかぎり、元気でいられますよ」とぼくがいうと、Sさんは「は?」という顔をした。

「宇宙? ……」

「いや、なに、……」

先年のある人の講演会ではないが、ジョン・カリュー・エックルス博士は、人が死ぬと、彼の持っていた全宇宙は崩壊するといっている。その人の持っている宇宙、――そんなものがもしもあるとしての話だけれど、全宇宙は崩壊するのだといっている。自分の脳は、だれにも束縛されず、まったくの自由であることを知るのだといっている。

その自由を、人は忘れてしまうらしい。たとえ身を拘束されていても、脳は自由であることを。彼の著書「自我と脳」という本には、そう書かれている。

 マルセル・パニョール。

 

ヨーコから新聞の切抜きを渡された。

それを読んだ。

「記事の感想を聞きたい」というので、書いてみた。

市川海老蔵さんの記事が目にとまったというのだ。彼の歌舞伎にたいする古典観を述べていたが、よく分からない。ただ「古典は作るもの」といっている。歌舞伎が誕生したのは、天正時代であるという。そのころは、電気というものがなかったから、ロウソクの灯りで舞台を演出していたことになる。「古典歌舞伎」ということばがあるらしい。

歌舞伎といっても、能の幕間(まくあい)狂言から生まれた当時は、肩のこらない寸劇だったはずである。寸劇にはエスプリが必要だ。なぜなら、能に対して、歌舞伎は傾(かぶ)いているからだろう。

劇作家マルセル・パニョールによれば、笑いは、笑う本人のなかにあるといっている。50年ほどまえに読んだマルセル・パニョールの「笑いについて」(岩波新書)という本は、そういう笑いの本質に触れている。この記事では、そういうことは書いていない。ただ、古典は作るものだと書かれている。リニューアルするもの、そういえるかも知れない。

「~どこまで行ったやらという例の句、……どうも気になりましてね。考えはじめると眠れなくなりましたよ」とSさんがいう。

その話は、たしか去年だったか、Sさんとすでにおしゃべりしたことがあるよという話をした。

「そうでしたっけ?」という。

「あれは、だれの句だったか、おもい出しませんな」というので、

「《蜻蛉(とんぼ)釣り今日はどこまで行ったやら》でしょう?」

「それそれ」

「……加賀千代女の作らしいですよ」というと、

「加賀千代女。ははあ、……おもい出しましたよ」といって、Sさんは、たばこの煙をぷーっと吐き出した。

「でも、だれかが勝手につくった贋作であるという説もあるそうですよ」

「贋作ですか!」

「そうじゃなかったですか? たしかなことは、わかりませんけどね、……」

「いつだったか、ミヤコワスレの花をじーっとながめていますとねぇ、トンボ釣りの句が思い浮かんできましてね、……」といっている。

ああ、あのとき、鉢に植えた「ミヤコワスレ」が玄関先においてあったことがあった。後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げて敗れた。佐渡に流された順徳天皇が、この花を見ると、都への思いを忘れられると話されたことに由来するらしい。

「加賀千代女ねぇ、……」

この人は加賀藩の表具屋の娘だったらしい。

おそらく江戸の加賀藩邸に関係する仕事をしていたのではないかとおもわれる。父親は表具職人。

先日、図書館の帰りに喫茶店で偶然出会った青年とおしゃべりをしたという話をした。偶然といえば偶然なのだが、おなじ喫茶店でよくお目にかかっている青年で、彼は獨協大学の学生さんだ。彼はノートパソコンを持っていて、隣り席になってぼくが本を読んでいたら、声をかけてきた。

「ちょっといいですか? スカイラークのスペルは、lark、それともlerkでしたか?」というのだ。そんなこと、パソコンで勝手に調べれば! とおもったが、それじゃおもしろくないとおもってか、話をこっちに持ちかけてきた?

「スカイラーク? ……ほう、ぼくの好きなことばですね」とぼくはいい、「skylarkですよ」といった。

「北海道の片田舎には、いっぱい飛んでいましたよ」というと、

「北海道ご出身ですか? ぼくは岡山です」と彼はいった。

「北海道の北竜町の出身です。ご存じですか? いまじゃ、ひまわりの町ですよ」

「いいえ、知りませんけど、……」

「そうですか。……でも、skylarkって無造作にいっちまうと、誤解されますよ」といった。

「え? なぜですか?」

「ほら、skylarkって叫ぶと、ふざけるな! って聴こえちゃいますから」

「そうですか?」

「アメリカではそうです」

「ぼく、アメリカには行ったことがありません」

「やがて行くでしょう。ぜひそのときは、ニューヨークに行ってください。マンハッタンの、高級レストラン《21》があるはずです。その店には、いまもヘミングウェイの写真が並んでいたら、写真に撮ってきてほしいな」

「《21》ですか、おぼえておきます」

「でね、大きな声で、ボーイにskylarkなんていわないでね」といった。

ひばりは「スカイラーク」という。

英語ではskylarkと書く。「skylark」といって叫んだら、「ふざけるな」「バカ騒ぎする」という意味にもなる。レストランに「すかいらーく」という店があった。ほとんど行ったことがない。

日本語ではひばりのことを「雲雀」と書く。雲という字があるのは、雲間からその鳴き声が聞こえることから名づけられたようだ。これには「告天子(こくてんし)」という別名がある。むかしの書物では「日晴(ひばり)」と書いた。

脱線した。――マルセル・パニョールは、ふたりとも、耳が聞こえない男を登場させ、ふたりが、さも耳が聴こえるかのように会話するという劇を創作した。これは笑えるのだ。街行く人たちには、彼らは耳が聞こえないやつだとは知らない。

「釣りに行くのか?」ときくと、相棒は、

「いや、釣りに行くんだ。おまえはどこに?」

「おれはてっきり、おまえは釣りに行くのかとおもったよ」

まあ、こんな他愛もない会話がえんえんとつづくドラマだ。笑いは、それを見た人にあって、当人にはないという話である。

アイルランドの作家、劇作家のサミュエル・ベケットに、戯曲に「ゴドーを待ちながら」という名作がある。副題に「二幕からなる喜悲劇」と書かれている。これは1940年代の終わりにベケットの第2言語であるフランス語で書かれたという。初出版は1952年で、その翌年パリで初演されたという。

また、不条理演劇の代表作として「マーフィー」という作品がある。

「ゴドーを待ちながら」では、ゴドーを待つふたりの男の会話だけでドラマが進行する。けっきょくゴドーはあらわれないというのが、物語の本筋。人間は、いつもだれかを待っているのだ。待ちながら、人は成長し、生き、年老いる。これで彼はノーベル文学賞を受賞した。

「ああ、そこから《マーフィーの法則》ってやつが生まれたんですかね?」と、Sさんがきく。

「マーフィー。……まさか!」

マーフィーの法則とは、――

「失敗する余地があるなら、失敗する」し、「落としたトーストがバターを塗った面を下にして着地する確率は、カーペットの値段に比例する」というような話だったとおもう。

つまり、先達の経験から生じた数々のユーモラスで、しかも哀愁に富む経験則をまとめた本。さっきのマルセル・パニョールの劇を理論化したような考えだろうか。たしかにユーモアの類で、単純に笑えるものだけれど、なかには悲しいほど重要な教訓を含んでいるものがある。

加瀬英明氏。

 

――では、ここにじっさいに起こった、笑うに笑えない歴史的な出来事をあげてみよう。

アメリカの航空母艦がカナダ沖を走行していたら、前方に灯りが見えた。そのまま進めば衝突する。艦長は無線でこういった。

「貴艦は当艦の進路上にあり、ただちに進路を変更されたし」

ところが、相手からは「そちらが進路を変更するを妥当と認む」という回答がきた。ナマイキなやつというので、ふたたび打電。

「貴艦の進路変更を重ねて要求する。こちらはアメリカ海軍の航空母艦インディペンデンスである」

ふたたび回答。

「貴艦が進路を変えるほうが賢明かと推察する。こちらはニューファウンドラン島の灯台である」

ナイジェリアの某将軍が国賓としてロンドンを訪れ、ヴィクトリア駅までエリザベス女王が馬車で出迎えた。いっしょに宮殿へ向かう途中の出来事だった。

ふたりが馬車に乗っていると、2頭のうち、1頭の馬が尾っぽを高くあげ、国賓目がけて大きなおならをぶっ放した。女王は、将軍のほうに向かってこういった。

「まあ、ほんとに、申しわけありません。いらして早々、こんな粗相をいたしまして、……」

「いや、どうも。……お気になさらないでください」といい、

「――わたしは、てっきり馬がしたのだと思っていましたから、……」と。

女王陛下は、これには何も弁解されなかったらしい。にがにがしい顔をなさって、「わたしじゃなく、馬が、……」といわなかった理由を知りたいとおもった。それはいいのだが、それから嗅いだこともない、強烈な臭いが充満したそうだ。

こんな話、ニュースにもならないけれど、だれかが、かげ口でささやき、ひろまったのかもしれない。やがて、外交評論家の加瀬英明さんの耳にも達したのだとしたら、なかば、公然たる話といえる。

彼の父は、外交官の加瀬俊一で、母・寿満子さんは、元日本興業銀行総裁小野英二郎の娘で、加瀬英明さんは、どのようないきさつでこのエピソードを聴くことになったか、それはわからない。日本外交史のれっきとした本のなかに、この加瀬英明さんの話が飛び出してくるのである。

だからマルセル・パニョールの劇よりおもしろいのだ。

 

――「顔から火が出た」もご覧ください。

https://ameblo.jp/tta33cc/entry-12348285446.html

 

「事実は小説より奇なり」である。――最初にそのように書いた文献は、イギリスの詩人バイロンだったはず。彼の「ドン・ジュアン」という本のなかに「奇妙なことだが、しかし真実である。なぜなら、真実はつねに奇妙なるもの、まさに小説よりも奇なのである。But true; for truth is always strange: Stranger than Fiction.」とOEDには書かれおり、これが出典のもとになっているらしい。こういうことが、ぼくにはおもしろいのである。