■D・H・ロレンス文学を読む。――

D・H・ロレンス。――その論。6

 オルダス・ハクスリー。1894-1963年。

 

あらためてD・H・ロレンスの44年の生涯を追ってみた。旅から旅への連続だったが、彼の残した著作の多さに驚いている。小説、詩、戯曲はいうにおよばず、紀行文、評論、手紙、――じつにケンブリッジ版「ロレンス全集」にして、全50巻というボリュームは、圧倒的なボリュームである。

だが、ふしぎなことに、彼はアンドレ・ジッドと違って日記は一行も書いていない。あの「書き魔」が、どうしたことだろうとおもう。

ぼくは1962年、明治大学文学部に入学し、西村孝次教授からさまざまなことを学んだ。最初に触れたのは、オスカー・ワイルドの唯一の長編小説「ドリアン・グレイの肖像(The Picture of Dorian Gray、1890年)」だった。そして、ロレンスの「恋する女たち」。

じぶんには「チャタレー夫人の恋人」はよくわかったつもりだったが、「恋する女たち」はよくわからなかった。

だが、フリーダとの生涯にわたる交渉の数々をつぶさに読み知るにおよんで、ロレンスのいおうとした「生と性」の真実の開眼、――ひと口でいえば、人間的「やさしさ(tendernss)」の問題だったのだ、ということにおもいいたった。

突然だが、100年まえの1915年の話をしてみたい。――ぼくは生まれてもいない時代の、南イングランドに生まれたオルダス・ハクスリー(Aldous Huxley, 1894-1963年)の21歳のときのことをぼんやりと想像してしまう。そして、手紙にはハクスリーのことを書きはじめる。それを書きはじめると、またとまらなくなる。こんなふうにして、ぼくの手紙は、いっこうに完成しないことが多い。そのうちに季節も変わり、投函されないままになってしまう。

――1915年、この年、ハクスリーはオクスフォード大学を卒業している。彼は、医師になりたかったが、角膜炎をわずらっていたので医学への志を捨て、英文学と言語学をえらんだ。

ハクスリー家は知られているように、祖父のトーマス・ハクスリーはダーウィンの進化論を支持したことで知られる著名な生物学者である。父は文芸雑誌を担当するジャーナリスト兼文人。兄のジュリアン・ハクスリーは進化論で有名な生物学者であり、評論家でもある。ジュリアンは1946年から1948年までユネスコ事務局長をしていた。

オルダス・ハクスリーは、ヨーロッパでも著名な科学者を多数輩出したハクスリー家の一員である。彼は小説、エッセイ、詩、旅行記など多数発表しているが、ぼくには批評家としてのイメージが強い。

「私たちは自分たちが知るものしか愛せない、そして自分たちが愛さないものをけっして理解しない。愛とは知識の様相である(“We can only love what we know, and we can never know completely what we do not love. Love is a mode of knowledge...”)」と、まあそんなことをいっている。

ハクスリーのことを知らない人でも、このことばはけっこう知られているかもしれない。

ここで彼は、「様相(mode)」という語を使っている。詩人ワーズワスもまた、「存在の知られざる様相(unknown modes of being)」といっている。

そのことについて、ハクスリーは「D・H・ロレンス論」(D.H.Lawrence, 1932年)のなかでも触れている。ロレンスの特長的な才能は、ワーズワスのそのことばにたいする異様な敏感さであったと書いている。

 福田恒存。1912-1994年。

 

ぼくがD・H・ロレンスを読むようになって、オルダス・ハクスリーの活躍を知るようになった――というのも、ロレンスの膨大な手紙は、彼の作品と同等の価値があり、恩師西村孝次教授の訳と解説で、そのいくつかを読むことができたからである。ことに「D・H・ロレンス書簡集(The Letters of D. H. Lawrence, Cambridge Uni. Press, Vol1-8)」は、以前にも書いたが、全50巻にもおよぶ「ケンブリッジ版・D. H. ロレンス全集(The Cambridge edition of the Works of D. H. Lawrence)」として、最も価値多いものである。

このロレンスの手紙に注目し、ロレンスの死後,刊行された数々の「ロレンス書簡集」のなかでも,その先駆的業績を認め,ロレンス文学を高く評価した同時代作家オルダス・ハックスリー(Aldous Huxley)編纂による「D・H・ロレンス書簡集(The Letters ofD. H. Lawrence, 1932年)」は、ロレンス研究の圧倒的な先見性をもち、その書簡集の序文として書いた「D・H・ロレンス論」は,ロレンス嫌いの詩人T・S・エリオットも認めざるをえないものだった。

現在、D・H・ロレンスの文学は、どういう位置づけになっているのだろうか。

ぼくはよく知らないけれど、昭和初期ごろ、ロレンスを卒業論文に取り上げる例がけっこう見られたらしい。

いま、おもい出すものをあげると、福田恒存の東京帝大英文科の卒業論文は、「Moral Problems in D.H.Lawrence(D・H・ロレンスにおける倫理的問題)」というものだったらしい。論文の提出日は昭和10年12月。A4判サイズのタイプライター用紙に英文で58ページだった(川久保剛「福田恒存」ミネルヴァ書房、2012年)といわれている。

その後、この論文は、当時磯田光一が東京大学の助手をしていたころ、磯田の手にいったんわたり、その後紛失しているというのである。磯田の記憶によれば、「現代人にとって愛は可能か」というテーマだったと書かれている。

福田恒存が大学を卒業したときの英文科の卒業論文36点のうち、4点までがD・H・ロレンスをあつかっているという。おなじころ、早稲田大学の英文科の卒業論文73点のうち、14点がD・H・ロレンスにかんする論文だったといわれている。それほどD・H・ロレンスは早くから日本に紹介され、ちょうどロレンス・ブームを巻き起こしている最中だった。

ところが、大学で卒業論文を指導したのは、英和辞典の世界で名をなした市河三喜(「ハムレット」(岩波文庫)を翻訳)と、英文学界の長老・斎藤勇だった。――斎藤勇は、のちに「チャタレー裁判」では検察側証人に列した。

のちに福田は、ロレンスの「アポカリプス論(Apocalypse)」を翻訳し、「現代人は愛しうるか」(白水社、昭和26年)というタイトルで出版している。個人と愛のレジンマの探求は、彼の卒業論文からスタートした。

ぼくが学生のころは、仲間のうちでロレンスを読んでいる者はいたが、卒業論文のテーマにしたとはおもえない。ロレンスよりもカミュかサルトルだった。英米文学ではТ・S・エリオットかヘミングウェイだった。

ぼくは西村孝次教授からロレンスの話をうかがった程度で、そのころはシェイクスピアのソネットと格闘していて、シェイクスピアの講演会で、福田恒存氏に出会ったのが印象に残り、たちまち福田恒存先生のファンになった。福田恒存氏のロレンスはずっと知らずにいたが、「英語青年」にたびたびロレンスにかんする論文が載り、大学2年のとき、彼の「息子と恋人」を読んだにすぎない。

福田恒存先生との関係で、現代文化会議には10年以上出席している。

 

バートランド・ラッセル。1872-1970年。

ハクスリーの「D・H・ロレンス論」を読んだのは、かなり早い。1962年か63年ごろである。

ロレンスと彼の手紙についての考察は、その後いろいろ出ているが、この「D・H・ロレンス論」が基調をなしていることはいうまでもない。イギリスに書簡文学というものがあることは知っているが、それは代書屋リチャードソンによる代筆書きの書簡体文学といわれるものにすぎない。ところが、ロレンスの手紙は、手紙を鑑賞して楽しむほど、彼の小説や詩とおなじくらい文学的な価値をもっている。これは驚くべきことといえる。

ハクスリーの「D・H・ロレンス論」には、どんなことが書かれているのだろう。わが国の大学で英文科に籍をおく学生たちは、いちどはD・H・ロレンスの小説を手にしたことがあるだろうとおもう。

 D・H・ロレンス(1885-1930年)、

 Т・S・エリオット(1888-1965年)、

 オルダス・ハクスリー(1894-1963年)、

この3人はまったく同時代の人である。

 

オルダス・ハクスリーは、1932年――つまり、D・H・ロレンスが亡くなった2年後に「D・H・ロレンス論」を書いている。それはたいした問題ではないかもしれないが、読んでみると、序文というものではなく、ちゃんとした「D・H・ロレンス論」になっていることに驚かされる。

そればかりか、ロレンスが世間の反感を買ったのは、彼が労働者階級の作家だったこと。アメリカにおけるロレンスの崇拝にも近いブームを巻き起こしたことにたいする批評家たちの猛烈な反駁。そうしたことが原因となり、わが国でも、ロレンスを毛嫌いする批評家がいたことは否めない事実である。時代がくだったいまでも、ロレンスを毛嫌いするか無視する人びとのいることもまた事実である。しかし、ハクスリーはいう。

 

たとえば、――

Beautiful and absorbingly interesting in themselves, his letters are also of the highest importance as biographical documents. In them, Lawrence has written his life and painted his own portrait. Few men have given more of themselves in their letters. Lawrence is there almost in the entirety. Almost, for he obeyed both of  Robert Burn's injunctions:

 

 Aye free, aff han' your story tell,

 When wi' a bosom crony;

 But still keep something to yourself'

 Ye scarcely tell to only. 

ロレンスの手紙は、それ自体が美しく、すばらしくておもしろいものだが、伝記的な記録としてもきわめて重要なものである。手紙のなかでロレンスは、彼の生活を描き、自分自身の肖像画を描いているのである。彼ほど手紙のなかで、自己を表現した人もめずらしいが、ロレンスのほとんどすべては、彼の書いた手紙のなかにある。わたしが「ほとんど」ということばを使うのは、彼がロバート・バーンズのふたつの命令の双方にしたがったからである。

 

 いつも腹蔵なく、無造作に話すがよい

 親しい友とともにいるときは

 何かを、こころのなかにそっとしまっておけ

 これだけは、だれにも他言しないということを。

 

After a time, the steam begins again. But the later letters, though plentiful and good, are neither so numerous nor so richly and variously delightful as the earlier. One feels that Lawrence no longer wanted to give of himself so fully to his correspondents as in the past.

しばらくして、また手紙の流れが動きだす。しかし後期の手紙はたくさんあり、りっぱなものだが、初期のものとくらべると、それほど多くはなく、またそれほど豊かで変化にとみ、気持ちのよいものでもない。ロレンスは以前ほど自分の心のなかを相手にじゅうぶんに打ち明けようとはおもっていないのだというふうに感じさせる。――と書かれている。

ロレンス解釈の第一人者としてのハクスリーの文章は、見過ごすことはできない。ロレンスの愛弟子、――Т・S・エリオットにいわせれば、――なのだが、それはミドルトン・マリー(John Middleton Murry)と、このハクスリーであったといわれているが、それにしても、前者は、「ロレンスの芸術としての作品は失敗作だった」ときめつけ、後者は「ロレンスは芸術家であり、小説家であった」と反論した。ふたりの見方がこのように違って見えるのである。

この双方の見方は、ロレンス像をより複雑にしてきた。

しかし、ひとたび彼の手紙に目を転じると、小説や詩では得られなかった像が浮かびあがってくる。ハクスリーのいうように、この「D・H・ロレンス論」では、「真摯かつ最良のロレンス入門書」であるとうたい、いまもその評価は高い。D・H・ロレンスにかんするかぎり、書簡を読まずにほんとうの姿は見えてこないのでは、という気にさせる。ロレンスの手紙は、彼の表面化された性の芸術を、ただしく教えてくれそうだ、とさいきんおもっている。

 

D・H・ロレンスの絵画作品集。膨大な絵を残している。

その多くは、ぼくはD・H・ロレンスの作品を通して知ったのではなく、ロレンス自身の涙ぐましいtendernssの、そして矛盾多い生涯を知って、はじめて気づいたのである。ロレンスの思想が端的にのべられているという点では、最晩年の著作「アポカリプス論(Apocalypse 1931年)」――多くは「黙示録」と訳されている、――この本だろうとおもわれる。これは、ロレンスの最晩年の最後の本で、フィレンツェでイタリア語で出版された。

「まだ死んではならない」というこころの叫びが聴こえてくる本である。

プッチーニのオペラのアリアを連想してしまいそうだ。ロレンスは、スタンダールとは違った形で、イタリアを愛した。

彼によれば、多くの人びと――多くの弱者が獲得できなかった社会的優越性が、時代と社会に押し流されて、やむなく引き起こされたインフォリオリティ・コンプレックス(inferiority complex)のあらわれとして描いた。彼自身、バートランド・ラッセル卿と意見が合わなかったのは、彼の哲学を嫌ったのではなく、彼の誇り高きイギリス国民としてのプライドに、鼻持ちならない胡散臭さを見ぬいたからだったとおもわれる。

1920年代、ロレンスのような作家は、イギリスにはあらわれなかった。

彼は大学を出ているが、じぶんは血筋のちがう炭鉱夫の息子であるという意識がある反面、じぶんは無階級の人間であるという自覚を根づかせ、「チャタレー夫人の恋人」では、森番の無階級のメラーズと、チャタレー夫人であるコニーとの結婚を描き、あり得ないような結末を用意した。

人間には階級はない、そういっているのだ。

そもそものイギリス国民を二分する階級闘争の歴史は、「聖書」に由来していると彼は考えた。

この本には、唾棄すべき憐れむべき現実が描かれ、同時に、将来の人間的にも壮大なコスモス的の観念を暗示させ、流動する世界のなかで生きる、人間の燃えあがるような憎悪と、終末へとすすむ生ある欲情とが示され、あたかも「黙示録」の相を奏でているのである。

聖書成立に端を発し、この古代から連なる連綿としてつづけられる宇宙観、時間の収束と継続のあり方に賛意をしめしながらも、聖書のなかに閉じ込められて、カムフラージュされた異教的要素を指摘し、「黙示録」の変貌の歴史をのべている。

それは、ロレンスの近代文明、キリスト教文明への痛烈な批判となって展開された。ロレンスが晩年のこの機におよんで、どうしても書きたかった考えが、ここに集約されたとぼくは見ている。

 

 

 

 ヘンリー・ミラーとアナイス・ニン。

1927年3月ごろ、ロレンス夫妻は、フィレンツェ近くのスカンディッチにあるヴィラ・ミランダに移り住んで、ここで「チャタレー夫人の恋人」の執筆と格闘し、完成させた。そこに、23歳になったばかりのフリーダの末娘、イタリアで画家を目指そういう画家志望のバーバラがやってきた。そのころ、ロレンスも絵を描いていた。

それを見たフリーダもいっしょに絵を描いた。

バーバラがロンドンに帰ると、母フリーダの絵を家の暖炉の上に飾った。

すると、父ウィクリーがやってきて、「この絵はだれが描いたのかね?」と尋ねた。

「……知らないわ、だれだったかしら?」ととぼけた。

父の元妻の絵とはいえなかった。

ロンドン郊外のパトニーにある、瀟洒な家の前をとおりがかったとき、母フリーダは「わたし、彼と話がしたい」といった。

すると、娘婿は首を横に振って、

「いや、それはおすすめできませんね」といった。

元夫のウィクリーの書斎の部屋の窓から、明かりが見えたのだった。73歳になる元夫は、いつも本の虫になり、読書に励んでいる姿が想像できた。

いっぽう、イタリアにいたロレンスは、呼吸器系のドクターが診断すると、「両方の肺があんな具合なら、ふつうの患者なら、とうに死んでいるはず」といい、彼なら、あと、2、3年は生きられるだろうといった。

ロレンスの病いはいよいよ重くなり、南フランスのニースを見降ろす山のなかにある療養書に移された。この「不死鳥」は、みずからの生命を最後まで燃やしつづけていた。ある夜、……ロレンスがいっしょに寝て欲しいと、フリーダにいった。フリーダはいっしょに寝た。

「……わたしは寝た。ひと晩じゅう、彼の痛むこわばった胸のことを思った。ひと晩じゅう、彼がかたわらに横たわり、わたしの健康な肉体のことを悲しく思っているにちがいないと思った。……彼のそばに寝れば、以前ならいつもなぐさめられていたし、安らぎを与えることができたのに。……いまは、もうそれもできなかった」(「わたしではない、風が……」)。

彼女は生まれてはじめて号泣した。わーわー泣いた。

「泣くな」と、ロレンスはいった。

そして、最後の日。

「――つかまえてくれ! つかまえてくれ! どこにいるのかわからない。自分の手が、どこにあるのかわからないんだ。おれは、どこにいるんだ?」

フリーダは、ロレンスの左の足首をつかんで放さなかった。

「それは生命に満ちている感じだった。一生、わたしはこの手に彼の足首をつかんで放さないだろう」と書いている。

ロレンスは、1930年3月2日午前10時に死んだ。

遺体は、ロレンスが愛した地中海の海を見下すヴァンスの丘の墓地に葬られた。ハクスレー夫妻とともに、フリーダは花束を投げながら、告別のあいさつを送った。

「さようなら、ロレンゾー!」と。

ロレンスの死後、26年間もフリーダは、タオスの「ラナニム」で、アンジェロ・ラヴァリーと幸せに暮らした。

それから1942年、ロサンジェルスのビヴァリ・グレンに移り、そこでフリーダは、隣人のヘンリー・ミラーやアナイス・ニンを知るようになる。文学史的にも、よりによって、この二人とつき合うようになるとは。

ミラーは書いている。「ますますフリーダが好きになってきた。――ロレンスの小説から受けたときの彼女の印象を、完全に塗り替えた」と、ニン(アナイス・ニン)あての手紙に書いている。

1956年の8月のある日、フリーダはきらめく星が見えるガラス張りのベランダ、そこのベッドに寝ていた。アンジェロは部屋で小説を読んでいた。10時を過ぎると、フリーダが怒鳴った。

「もう遅いわ、いい加減寝なさい、ぐすぐすしないで!」

これが、アンジェロが聞いたフリーダの最後のことばだった。

8月11日、日曜日、午前7時にフリーダは死んだ。

ちょうど77歳の誕生日だった。彼女の葬式に、「わたしではない、風が……」の一節が朗読された。あのロレンスの遺灰が混じる記念礼拝堂から少し離れた距離にある墓に葬られた。

ロレンスの遺灰をめぐって、女たちの分捕り合いの修羅場を演じてきたフリーダは、ようやく静かに眠った。ロレンスが死んで26年後のことである。