明とは、の総体である。

ある日、ぼくはこんな文章を読んだ。

「私は推理小説のファンではないし、これからもそうだろう。その私が推理小説を書くことになった。探偵失格の作者が書く小説は自ずと事件外の人生に興味がある」と、昭和35年7月に作者は書いている。

「週刊文春」、昭和35年7月18日~8月22日号に連載。

推理小説「豚と薔薇」の作者の、自分で書いた連載予告を発表している。その作者とは、いったいだれだとおもう? 司馬遼太郎である。

これからも推理小説は書かないつもりでいることを明言し、「司馬遼太郎全集」(文藝春秋)にも司馬遼太郎さん本人の反対で未収録となり、文庫化もされなかったため、現在、読むことはできない。

 

司馬遼太郎。

司馬遼太郎さんの長編小説第1作は、同年2月に仏教系の「中外日報」に発表され、4月に直木賞を受賞した名作「梟の城」だが、その5ヵ月後に発表されたという「豚と薔薇」は第2作目にあたる。「中外日報」は、作家・今東光が社長の会社から出ていた。

これはたぶん、書き溜めていた小説かもしれない。――

直木賞のほうは、司馬遼太郎と戸板康二の同時受賞となった。

1月21日夜開催の選考委員会に出席したのは源氏鶏太、木々高太郎、中山義秀、小島政二郎、村上元三、吉川英治、海音寺潮五郎、川口松太郎、(大佛次郎は欠席)。

このとき司馬遼太郎さんは36歳だった。

「新聞記者で小説を書くのは邪道だと思っている。しかし記者は好きだから止めない。地下にもぐっていた虫が地上にはい出してきた感じで、まぶしくてしかたない」と挨拶した。

ぼくは高校2年生で、文芸春秋や小説新潮などを読んでいた。司馬遼太郎さんの顔写真を見て、ずいぶん若いのに頭のほうは真っ白で、分厚い黒縁メガネをかけ、それが知的に見えた。

選考委員の源氏鶏太、木々高太郎、村上元三の諸作は少しだが読んでいた。いちばん軽妙洒脱なのは、サラリーマン小説の源氏鶏太の諸作だった。

源氏鶏太は、司馬遼太郎さんとおなじナニワの先輩作家である。

それも新聞記者あがりではなく、本名田中富雄は住友本家の住友不動産総務部次長という準重役ともいうべき地位で、40そこそこでこの地位についたことは、「その人の誠実さと有能さを十分に証拠だてるものであった」と、司馬遼太郎さんはのちに述懐している。

住友本社に入るべく大阪にやってきた源氏鶏太は、そのときは、関東派により近かったとおもわれると司馬遼太郎さんは書いている。勇気を愛し、節度を重んじ、どのような不利な場に立っても対面美をまもるための姿勢をとる精神は、ふるくは江戸文化のなかにはぐくまれたものであろう。

そういう源氏鶏太が、大阪が好きになれるはずもなく、19歳の入社時は、ことに大阪人の人間くささや、その対面に嫌気がさしたことだろう。

入社をしてみると、新入社員を全員あつめて、細い目をした痩身の男があらわれて訓示をする。

「サラリーマンたるものは、一芸の専門家になるべきである」という話をしたのである。傲岸とさえいえる自信に満ちた重役の態度は、若い者たちのこころに、傷つきやすいほど小さな反発心を芽生えさせたかもしれない。

……この重役は、この会社ではえらいかもしれない。

しかし、詩では、おれのほうが上だぞ! 

源氏鶏太はそうおもっていた。

だが、訓示を垂れた重役の名が歌人の川田順と聴いて、小さな自信までぺしゃんこにされてしまったのである。

サムライとは何か? ――その話を書いてみたい。

先日、都内である先輩とコーヒーを飲んでおしゃべりした。Тさんはすでにテレビ局を退職され、子会社の非常勤社員となって久しいという。77歳。

Тさんは、ぼくが虎の門に会社をつくったときにたいへんお世話になった方で、ここ15、6年ほど会っていなかったが、快く会っていただいた。

彼はお酒が飲める人だが、さいきん糖尿病をわずらっていて、「もういけませんよ」といっている。20数年まえ、奥さんを亡くされた。

「でしたら、どうですか? コーヒーでも」と電話で誘うと、銀座で会いましょうか、ということになり、銀座2丁目のルノワールで会った。そこで、ぼくはひまわりの里・北海道の北竜町の話をした。

「そういえば、いつか読みましたよ」という。ぼくの小説「ひまわり」の話である。この小説は、たぶんブログには載せていない。

Тさんにはじめて創作原稿をお見せして、批評を乞うはずだったが、直接的な評言はいただけなかった。Тさんは立命館大学大学院を出られ、ずーっと営業畑を歩いてこられた。剣道5段。むしろ剣道で趣味が合うのでお付き合いがはじまったわけだった。

「ぼくは、田中さんには、仏教の本を書いてもらいたいと思っていましたよ。いつか、見せてもらった原稿のことを思い出しますよ」という。「ゴータマ・ブッダへの旅」はもう20年もまえに書いたものである。300枚ぐらいの原稿を製本したものを、お見せしたことがある。

ぼくはちょうど阿含経を勉強していたころで、Тさんは、阿含宗官長の桐山靖雄氏を紹介してくれた。桐山靖雄氏の書かれた本をたくさん持っておられ、それをぜんぶ寄贈してくださった。ぼくはそれ以来、桐山靖雄氏のお話をたびたび拝聴する機会を得た。

本山は京都市山科区にあり、立宗は意外に遅く、昭和53年である。

釈迦の唱えられたお経を勉強するには、初期仏教の阿含経がいちばんだろうと思い、桐山靖雄氏の本をたよりに、ひとり勉強していた。それでもわからなかった。

釈迦仏教は奥が深くて、いくら勉強しても、ほんとうのことはわからない。釈迦仏教から大乗仏教へとさま変わりしていく時代の変遷史をたどり、専門的な本をたくさん読んだが、いまもってよくわかっていない。

「でも、さいきんぼくは明治維新その他、そのころの歴史をもっと知りたくなりましてね、武士道などを読んだりしています」というと、

「司馬遼太郎さんの本を読むといいですよ」と彼はいった。

「司馬遼太郎さんの本は、ほとんど読んでいます。《この国のかたち》、《明治という国家》、《坂の上の雲》、《殉死》、など、……」

「ほう。……代々の武士よりも武士らしく生きようとする近藤と土方の星雲の志をえがいた《燃えよ剣》とかも、けっこうおもしろいですね。篠原泰之進の爽快な生き方をえがいた《新選組血風録》とか、《幕末》とか、吉田松陰の先生だった玉木文之進の生涯なんかもえがいた《世に棲む日日》、あれはいい小説でしたね」という。

「Тさんも、司馬遼太郎さんの本を、けっこう読んでいるほうですね?」

「ええ、読みましたね。《坂の上の雲》は2回も読みましたよ。――で、いまごろになって、明治維新に興味を持ったというのは、どうしてですか?」

「いや、よくわからないんです。明治という時代は、はたしてどういう時代だったのかと思って、……」

「ぼくにも、わかりませんよ。司馬さんの本を読んで、わかったような気分になるだけですかね。サムライってさ、生まれるもんじゃないですね。司馬さんの本を読んでいると、サムライは、つくられるものだと書いてあります」

「そういえば、吉田松陰は、玉木文之進の塾生として徹底的に鍛えられますね? 松陰のこうした教育は、5歳から20歳まで、受けていますね。たしかに、サムライはつくられる、いわれれば、そのとおりですね」

「そうです。サムライとは何か? この命題を力まかせに幼い松陰たちに教え込むわけですね。うむをいわせないんですな」とТさんは力説した。

司馬遼太郎さんは書いている。

玉木文之進は、天保13年に松下村塾を開き、兵学のほかに歴史、馬術、剣術を教えている。その教えは、ことばの解釈などではなく、武芸のワザでもなく、「サムライとは何か」というものだったといわれている。

司馬遼太郎さんはいう。

「――玉木文之進によれば、侍というものの定義は、公のためにつくすものであるという以外にない」ということ。これこそ兵学の祖、山鹿素行が打ち立てた武士道の真髄であり、文之進は極端に私情を排す。「学問を学ぶことは公のためにつくす自分をつくるためであり、そのため読書中に頬のかゆさを掻くということすら私情である」ということを書いている。この表現が、とてもおもしろいと思う。

「おもしろいですね」

そういえば、司馬遼太郎さんは「風塵抄」のなかで、こんなことを書いている。

「こんにち《公》という概念が、宙空にあって輝いている。その色は清らかでその性質は無私で、ひたすらひとびとの役に立つという存在である」と。

司馬遼太郎さんの膨大な幕末維新小説群は、まさしく現代日本から失われつつあるこの「公」の精神を、いまに蘇らせるために打ち鳴らされた警鐘のように思われてくる。

作品「峠」のあとがきで、司馬遼太郎さんはこう書いている。

「人はどう行動すれば美しいか、ということを考えるのが江戸期の武士道倫理であろう。人はどう思考し、行動すれば公益のためになるかということを考えるのが江戸期の儒教である。この二つが、幕末人をつくりだしている」と。

「公」、「美」、「志」――という語がそろう江戸期の武士の生き方を、そこに要約されていることに気づく。そこには、この3つの理念が失われつつあるという現代日本の危機感が浮き彫りにされている。司馬遼太郎さんがなぜ、あのように長大な物語を、あらゆる角度から微に入り細をうがって克明に描ききったのか、それを考えた。

作品「翔ぶが如く」にはこう書かれている。

「朱子学が江戸期の武士に教えたことは端的にいえば人生の大事は志であるということ以外になかったかもしれない。志とは、経世の志のことである。世のためにのみ自分の生命を用い、たとえ肉体がくだかれても悔いがない、というもので、禅から得た仮宅思想と儒教から得た志の思想が、両要素ともきわめて単純化されて江戸期の武士という像をつくりあげた」。

司馬遼太郎さんの文章には、特長がある。

多くは地の文ではなく、人びとの会話の部分に「公」、「美」、「志」の理念があらわれていると思われる。ひとつ例を出す。

元治元年は、長州藩にとって、まさに激動の年だった。

6月に京都池田屋で多くの志士が斬られ、7月には禁門の変が勃発し、京都に攻め入った長州軍は壊滅した。この変で来嶋又兵衛や久坂玄瑞は自刃し、松陰門下の多くが戦死した。8月、英仏米蘭の4ヵ国艦隊が下関を攻撃し、長州藩にとっては危急存亡のときが訪れる。

しかし長州藩の戦意は、少しも衰えない。

「戦うのだ! 日本武士がどういうものか、世界に見せてやる」これが長州藩士の総意であった。司馬遼太郎さんの「世に棲む日日」の「談判の章」は、4国連合軍の武力を背景にした圧迫をものともせず、貫くべきことを貫き通した高杉晋作の強靭な武士道精神をつづってみごとである。

高杉晋作は旗艦に乗り込むと、司令長官クーパーに媾和書を差し出すが、これには「降伏」の「降」の字も書かれていない。

長州藩は全砲台を破壊され、沿岸は敵の陸戦隊に占領され、長州藩全体が連合艦隊によって逆封鎖されるという最悪の状況にあった。クーパー長官は、高杉晋作の差し出した媾和書を、ちらっと読んで突き返す。

「これでは問題にならない」

そしてクーパーは謝罪書を求める。しかし晋作は、

「それでいいのだ。わが防長国主の文書には、外国艦船の下関海峡通過は以後さしつかえないと書かれている。それが講和という意味なのである。いま通詞は降参々々といわれるが、日本語にあっては降参とは戦(いくさ)に負けたときにつかわれる。考えてもご覧じよ、長州藩はべつに戦に負けておらぬではないか!」

これには、クーパー長官も仰天する。

「あれでも負けていないと貴君はいうのか!」

そこから見える砲台は破壊され、連合国陸戦隊がそこを占拠している。晋作はうなずき、そしていう。

「負けていない」と。

「砲台の5つや6つどころか、もっと欲しいといわれるならいくらでも差しあげる。戦いの勝敗というものは、そういうものではない。貴艦隊の陸戦兵力はわずか2千や3千にすぎぬではないか、わが長州藩はわずか防長2ヵ国であるけれども、20万や30万の兵隊は動員できる。本気で内陸戦をやれば貴国のほうが負けるのだ、われわれは講和する、しかし降伏するのではない」

まことに堂々たる論旨である。そして日をあらためて行なわれた談判でクーパーは重大な問題を提起する。

「彦島を抵当として当方が租借したい」と切り出した。

英国は、この方法で中国から香港を奪ったのである。

おなじ手で長州にたいして使ってきたのだ。

ところが晋作は、この租借という言葉の概念がよくわからない。けれども、晋作は外国租界となった上海を見ている。そこでは、外観内実ともに西洋の港市になりきっており、シナ人は奴僕以下にあつかわれている。クーパーのいう租借とは、彦島が上海になることだと晋作は直感した。

そして晋作は演説する。

「そもそも日本国なるは、高天が原よりはじまる。はじめ国常立命(くにのとこたちのみこと)ましまし……」と、翻訳不可能な言辞を弄する。晋作にとって一か八かの演説だった。この談判の通訳を仰せつかったのが伊藤博文である。司馬遼太郎さんの文章では、そのときのことを語った伊藤博文の述懐をつづっている。

「あのときもし高杉がうやむやにしてしまわなかったなら、この彦島は香港になり、下関は九竜島になっていたであろう。おもえば高杉というのは奇妙な男であった」と。

きょうТさんから、ひとつ学んだ。人は、サムライになるのではなくて、サムライはつくられるのである、ということ。

いまさらながら藩校の大きさを思い知らされる。

司馬遼太郎さんが再三にわたっていっているように、幕末維新期ほど、「公」の理念が高揚した時代はわが国の歴史には、かつてなかったと思われる。「公」の理念や、それに対をなす思考・行動の美意識は、男子一生の志といったものを忘れかけている現代人にとって、教えられるところがまことに大きい。

「この国のかたち」に、「文明とは、躾の総体である」と書かれている。