田美妙が一杯に生きた時代。

 山田美妙。

 

ある人は、「私の人生は楽しくなかった。だから私は自分の人生を創造した」My life didn’t please me, so I created my life.といった。ココ・シャネルのことばである。明治期という時代は、ほんとうに「自分の人生を創造した」という人たちがいっぱいいた。しかも、なんでもありの時代だったなとおもう。

満6歳でアメリカ合衆国に留学した津田梅子のばあいもある。

「満6歳で、留学ですかい? そりゃあ、何ですかな?」というわけである。

杉本鉞子も偉かった。長岡藩の家老の娘がアメリカに渡り、いろいろあって、コロンビア大学の教授に迎えられた。彼女の英語で書いた「A Daughter of the Samurai(武士の娘)」により、アメリカでの日本人初のベストセラー作家となった。

そしてきわめつきは、高橋是清だろう。――この人の人生もすごいのだ!

「わたしはアメリカに売られて、奴隷になったのだよ」といっている。「高橋是清自伝」(上下2巻、上塚司編、中公文庫、1976年)にはそう書かれているのだ。

彼は、横浜のアメリカ人医師ヘボンの私塾、「ヘボン塾(現・明治学院大学)」で学び、1867年(慶応3年)に藩命により、勝海舟の息子・小鹿とアメリカ合衆国へ留学した。しかし、横浜に滞在していたアメリカ人貿易商、ユージン・ヴァン・リードによって学費や渡航費を奪われ、さらにホームステイ先である彼の両親にも騙されて、あろうことか、年季奉公の契約書にサインをし、オークランドのブラウン家に売られたのである。牧童やぶどう園で奴隷として扱われるのだが、本人は奴隷になっているとは気づかず、キツイ勉強だと思っていたらしい。

で、いくつかの家を転々とわたり、時には抵抗してストライキを試みるなど苦労を重ね、この間、英語の会話と読み書き能力を習得した。――こんなことをして、よく勉強ができたものだとおもう。

まるで、フィクションのように聞こえる。

 

「高橋是清自伝」(上下2巻、上塚司編、中公文庫、1976年)。

――さて、話は変わって、去年の夏、漱石ファンを自認している60年配の男が、コーヒーを飲みながらぼくに語った話は、40歳にならなくちゃ、小説なんか書けるもんか、という話だった。それはそうだと、じぶんも相槌を打ちながら、

「それはそうと、数え年19歳で、読売新聞に小説を連載した男がいましたね」と、ぼくはいった。

「だれですか? なんという小説ですか?」

「当時、明治20年とあってみれば、漱石も書けない、いかにもスタイリッシュな文芸の先駆者といえますが、山田美妙の小説は《武蔵野》っていうんですがね、……。冒頭、東京の話が出てくるんですよ。これ、とうきょうとは呼ばすに、とうけいと発音しているんですね。ほんとうは、漢字で書くと、東亰(とうけい)でしょう?」と、ぼくはいった。そして「東京のことを、東亰といったのは、何年間もなかったでしょう?」と、ぼくはいった。

その人は、「何の話?」といわんばかりに、きょとんとしていた。――そういうことがあったなと、1月半ば、電車に揺られて武蔵浦和に行ったときに想いだした。

さて、若干19歳の山田美妙(1868-1910年)が、読売新聞に書いた出世作が「武蔵野」だったという話は、ほんとうだが、のちの明治31年発表の国木田独歩のおなじ「武蔵野」とは雲泥の差だ。前者は、戯作の範疇を超えていない。

むかし、――といっても500年ほどむかしは、東京は「武蔵野の原」と称していた。その山田美妙は、江戸が東京と改められた慶応4年、――9月から明治元年――その7月8日、――つまり新暦では8月25日に生まれている。

父親は山田吉雄。――南部藩士で、武をもって藩中で鳴らしていた男なのだが、維新まえ、ちょっとしたことで、主家を出て浪人になってしまった男だ。そして盛岡より江戸に上って、千葉周作道場に入り、皆伝を受け、近藤勇ともまじわった。

そのころ、千葉周作道場には新島襄がいた。

新島襄といえば、数え年14歳から剣術をやっている。のちに幕府の海軍伝習所に入り、藩の軍艦に乗ってこっそり箱館(函館)にむかい、あろうことか、脱藩して、上海を経てアメリカへわたり、アマースト農科大学、――現在のマサチューセッツ農科大学――の当時のクラーク学長に会ったばかりか、クラークを洗脳し、北海道開拓のためにクラークを日本に連れてくるのである。

その帰国の船上で、新島襄に英語を教えていたアメリカ人が、新島襄の理解の遅いのに腹を立て、彼を殴った。

「何をするか!」といって、腹を立てた新島襄は、船室にもどって隠し持っていた日本刀を手にしてあらわれた。北辰一刀流である。武士の面目を傷つけられた新島襄は、一刀のもとにその乗客を斬り殺そうとした。

日本刀を手にした彼は、

「新時代を生きねばならぬ!」と、こころにつぶやいた。

もしも船上で客を斬り殺せばどうなるか、密航を企てた意味がないではないか! そうおもった。そして新島襄は、抜刀した刀を振り上げると、

「こんなものは、もう用無しだ。えいーっ!」といって、海に投げ捨てたのである。新島襄にはこれができた。

 

 尾崎紅葉。

 

だが、南部藩士の山田吉雄には、これができなかった。

この差は歴然たる事実である。

廃藩置県によって藩を追われた600万人の元サムライたちの約半数は、新時代の波をくぐりそこねたのである。ある者は刀を捨て、鍬をもって北海道にわたり、開拓農に従事した。それが仙台藩に組していた旧南部藩のサムライたちだった。彼らは明治3年から10年間に2700人もの移住を実現し、北海道にわたって二度ともどらぬ覚悟を決め、砂糖工場の経営に成功し、いまの伊達市をつくった。

そしてある者は、ちょんまげを切り、スーツを着て、革靴を履き、カバンをぶら下げる銀行員になった。夏目漱石のように、ロンドン留学を果たした男が小説家になろうなんていうのは、万にひとりもいなかった。

のちに福沢諭吉はいう。

「ペンは剣よりも強し」と。――その時代をくぐりぬけた人びとは、経験したことのない変わりように目を見張った。「ご維新」ということばは、庶民の語りのなかによく聴かれたが、庶民には皆目、何が何だかわからなかった。600年つづいたサムライの時代が終わったとだけしかわからなかった。だが、世界がどんなに変わろうとも、春になれば桜が咲いた。多くの人びとは自然の息吹に、なぐさめられた。

山田美妙、――武太郎が明治8年、8歳になると、新橋の私立の烏森小学校へ通った。

小学校の前を、イギリスから購入したばかりの蒸気機関車が、煙を吐いて走って行くのを、彼は毎日のようにながめていた。運賃は、新橋―横浜間の上等席1円12銭5厘、中等席75銭、下等席37銭5厘だった。ここまでしらべてみたが、美妙が蒸気機関車に乗ったというたしかな話は見当たらない。

その年の12月、武太郎は虎ノ門3丁目の公立西久保巴学校に転校した。芝神明町の家から歩いて20分で行けた。

おなじ町内の長屋に紅葉尾崎徳太郎がいた。徳太郎の母ようは、武太郎の母と同様に町医者の娘だったが、不義の関係で生まれた娘だった。明治2年に若死にしている。つまり、――

紅葉は、母のいない少年だった。

美妙は、父のいない少年だった。

ある日、天下の読売新聞が、美妙に言文一致体の小説を注文してきた。

こんなことがあるのだ! と美妙はおもった。美妙は

「書かねばならぬ」と覚悟した。

ところが、新聞小説はいってみれば戯作の延長であったが、美妙はちがった。小説「武蔵野」は、上中下の3回にわけ、新聞の付録として書いた。明治20年11月20日号が第1回、11月23日号が第2回、12月6日号が第3回というふうに。

この年、――つまり明治20年、美妙武太郎が20歳のときだが、その6月、二葉亭四迷の「浮雲」が坪内雄蔵(逍遥)の名で刊行している。言文一致体は二葉亭四迷のほうが早かったのである。

人力車に乗って、シュークリームを持参して、美妙宅に訪れたのは25歳の徳富蘇峰だった。彼は雑誌「国民之友」を刊行し、3年後には、こんどは「国民新聞」を創刊した男だ。「文体の新しさが問われる」といい、「わしにも、きみとおなじ年の蘆花という弟がいるが、いまは放浪中の身で、どうなるかわからん。――いずれ、わが新聞にもご執筆のほど賜りたい」

そういい残すと、徳富蘇峰は黒塗りの自家用人力車に乗って、帰っていった。

その話をして、だれよりも喜んだのは尾崎紅葉だった。

紅葉は幼いころから、美妙とは竹馬の友だった。紅葉は「話に色気を入れればよくなる」とか、「これからは、女子(おなご)に読まれるようなものが求められる」とかいいながら、美妙に「ちと、相談がある」といった。

「我楽多文庫(がらくたぶんこ)」というのを出そうという話だ。1冊3銭で、初版3000部。月2回発行。紅葉は顔を赤くして「きみはどうおもうか?」ときいた。すると美妙は、

「大学はどうするんだ? 法科に合格したのに」といった。

「大学と両立させてみせるよ。法科は将来、何かと重宝する。法科を出れば食いっぱくれがない」

美妙のほうは、文科予科入学が不許可となっている。天運はみすから開くものだという信念から、大学がだめなら、人脈でいっぱしの文士になってやる! と考えていた。

明治21年5月25日、「我楽多文庫」が発売された。四六倍判、まあ、いまでいえば週刊誌のサイズで、週刊誌のようなものと思えばいいだろう。社幹は尾崎紅葉、石橋思案、山田美妙の3人。発行者は尾崎徳太郎(紅葉)である。小説は3編載り、最初のページに漣小波(巌谷小波)の「五月鯉」が載り、美妙の「武蔵野」が載った。これは、紅葉にいわれて、色っぽく書き直したものだった。

8月の短編小説集「夏木立」もよく売れた。そのなかに、美妙の「武蔵野」も入っているが、紅葉にいわれて「です、ます調」で書いたものである。

それが、「我楽多文庫」第13号から、美妙の名がとつぜん消えたのである。

小学生のころから盟友だった紅葉と美妙は、袂を分かち、ぷっつりと縁が切れた。明治34年は、紅葉が「我楽多文庫」から美妙を追放したのである。紅葉は、「美妙が脱走した」と書いているが、そうさせたのは紅葉であった。この年、尾崎紅葉は「金色夜叉」の成功によって人気作家にのし上がっていた。そして、硯友社は全盛時代を迎えていた。

しかしその2年後、37歳で紅葉は急逝するのだけれど、「美妙の脱走云々」という紅葉の回想は、美妙への評価に大きな打撃を与えた。人気が最高潮に沸騰していた紅葉のことばを、世間は受け入れたのだった。つまり、美妙は、硯友社の裏切り者というレッテルを貼られてしまったのである。

とうぜん美妙が抜けた「我楽多文庫」は、第16号をもって、明治22年2月16日廃刊となった。おかげで、硯友社のめんめんが路頭に迷ったのである。

山田美妙を非難する紅葉の「回想」を読んでも、悪いことはぜんぶ山田にして書かれているように見え、社が負うべき話は少しもなく、問題の本質が書かれていない。

だが、時代はぐーんとすすんだ。

明治22年、大日本帝国憲法が発布され、街のテーラーと酒屋が繁盛した。テーラーでは、スーツの仕立て希望者がつぎつぎに舞い込んだ。

東海道線が開通し、新橋―神戸間を20時間5分で走った。日本初のグラフ雑誌「風俗画報」が日本橋の東陽堂から出た。大槻文彦編の国語辞典「言海」(全4巻)が出て、出版界は盛況だった。

「我楽多文庫」は廃刊となったものの、「文庫」と改題して吉岡書籍店から継続刊行されることになった。そして、山田美妙は、「国民之友」の徳富蘇峰の依頼で、小説「瑚蝶(こちょう)」を書きはじめた。

やがて世界は、1900年を迎える。――フランス革命100年を記念した89年万博から11年、19世紀末の1900年にふたたびパリ万博が行なわれた。過去5回にわたるパリ万博の集大成ともいうべきもので、4800万人もの観覧動員を誇った。

この年、万博を見るために興味深い日本人が訪れている。

ひとりは海軍軍人秋山真之である。

秋山は、1900年5月11日から万博を訪れ、翌12日にエッフェル塔に上っている。

この年の1月、秋山は2年半のワシントンでの日本公使館付留学生としての生活を終え、イギリス駐在武官としてロンドンに着任した。

4年後に、日露戦争が勃発しようとは、さすがの秋山も想像していなかっただろう。当時の欧州情勢は、ロシアとフランスの同盟に対しドイツ、オーストリア、イタリアの三国同盟が対峙し、微妙な緊張をはらんでいた。

日英同盟は1902年1月に成立したが、1899年から南アフリカでのボーア戦争に巻き込まれたイギリスは、アジアでのロシアの南下政策をけん制する余力をほとんど持たなかった。そのため、日本との協調路線を選択する以外に道はなかった。

日露海戦となる主力艦「敷島」「朝日」「初瀬」「三笠」の4大戦艦をはじめ多くの軍艦は、イギリスで建造された。それは、きわめて良好な日英同盟を背景とするものだった。そして、秋山真之は帰国する。そして、彼とすれ違いに欧州へ旅立った男がいた。夏目漱石である。

そして漱石は、パリ万博会場を訪れるのである。そのとき正岡子規に送った句に、「手向くべき 線香もなく 暮の秋」がある。これには少し説明が要るだろう。

もとより、漱石は、1889年(明治22年)、第一高等中学校の同級生として子規を知る。漢詩や俳句の創作をとおして親交を深めた。松山中学の英語教師として松山に赴任したとき、子規が数ヶ月間、漱石の下宿に同居していっしょに俳句を詠んでいる。子規は1902年(明治35年)、病苦のなか、35歳でこの世を去る。

そのことを知った漱石は、悲しみに打たれ、「手向くべき 線香もなくて 暮の秋」と詠み、手紙に添えて子規に送ったのである。それから間もなくして、日本は洋行新時代を迎える。

いっぽう、山田美妙には運命的な出来事が待っていた。

美妙のもとに、稲舟(いなふね)と名乗る女性がおとずれたのは、明治24年の秋のことだった。本名を田沢錦子と名乗った。彼女は山形県鶴岡市の街医者の娘で、共立女子職業学校、――現共立女子大学の図画科の学生だった。

彼女は、親がすすめる縁談をことわり、作家になることを夢見ていた。

稲舟がはじめて読んだ小説は、山田美妙の近作「瑚蝶」という小説だった。これは明治22年に「国民之友」の付録として発表されたもので、稲舟はひそかに美妙の文章に惚れ、美妙に手紙を書き、面会を申し込んだのである。

このとき彼女は18歳だった。

そしていろいろあって、明治28年、美妙は田沢稲舟と結婚するが、1年もたたないうちに離婚。そして彼女は間もなく死んだ。そのことを世間は、美妙が悪いといって激しく非難した。

小説はいぜんとして決定的な大作はできず、人が「やめておけ!」というのも聴かず、辞典編纂の仕事に毎日精を出す。その後結婚し、晩年の彼を励ましつづけた糟糠の妻だったが、美妙は精一杯に生き、明治43年とうとう力尽きて、43歳で世を去った。尾崎紅葉の37歳よりも、少しだけ長生きをした。