A・ハクスリーと福田恒存。

D・H・レンスをめぐる

福田恒存。

 

ぼくは、ときたま、何かおもい出して古い友人に手紙を書く。これといって脈絡はない。書いてしまえば満足してしまうためか、かならずしも投函するとは限らない。はじめは、なんとなく書きはじめる。長文になると、途中で、当初予定していた友人宛ではなく、別の友人宛てのものに切り替えることがあって、手紙の前後があやふやになることがある。

たいていは200字詰めの原稿用紙に縦書きで書く。

100枚の用紙が尽きてしまうと、銀座の伊東屋に行き、おなじ原稿用紙を手に入れ、近くの喫茶店に入り、コーヒーを飲みながらつづきを書く。

ところが、伊東屋の店先でめずらしいカードを見つけると、手に取ってながめ、欧文で書いたリード文にそって、何か書きたくなる。そして、100年まえの1915年、――ぼくは生まれてもいない時代の、南イングランドに生まれたオルダス・ハクスリー(Aldous Huxley, 1894-1963年)の21歳のときのことをぼんやりと想像したりする。

そして、手紙にはハクスリーのことを書きはじめる。それを書きはじめると、またとまらなくなる。

まあ、こんなふうにして、ぼくの手紙は、いっこうに完成しないことが多い。そのうちに季節も変わり、投函されないままになる。

そういうわけで、ふたたび格別おもしろくない話をする。

――1915年、この年、ハクスリーはオクスフォード大学を卒業している。

彼は、医師になりたかったが、角膜炎をわずらっていたので医学への志を捨て、英文学と言語学をえらんだ。

ハクスリー家は知られているように、祖父のトーマス・ハクスリーはダーウィンの進化論を支持したことで知られる著名な生物学者である。

父は文芸雑誌を担当するジャーナリスト兼文人。

兄のジュリアン・ハクスリーは進化論で有名な生物学者であり、評論家でもある。ジュリアンは1946年から1948年までユネスコ事務局長をしていた。

オルダス・ハクスリーは、ヨーロッパでも著名な科学者を多数輩出したハクスリー家の一員である。彼は小説、エッセイ、詩、旅行記など多数発表しているが、ぼくには批評家としてのイメージが強い。

「私たちは自分たちが知るものしか愛せない、そして自分たちが愛さないものをけっして理解しない。愛とは知識の様相である(“We can only love what we know, and we can never know completely what we do not love. Love is a mode of knowledge...”)」と、まあこんなことをいっているのである。

ハクスリーのことを知らない人でも、このことばはけっこう知られているかもしれない。ここで彼は、「様相(mode)」という語を使っている。詩人ワーズワスもまた、「存在の知られざる様相(unknown modes of being)」といっている。

そのことについて、ハクスリーは「D・H・ロレンス論」(D.H.Lawrence, 1932年)のなかでも触れている。ロレンスの特長的な才能は、ワーズワスのそのことばにたいする異様な敏感さであったと書いている。

ぼくがD・H・ロレンスを読むようになって、オルダス・ハクスリーの活躍を知るようになった。――というのも、ロレンスの膨大な手紙は、彼の作品と同等の価値があり、恩師西村孝次教授の訳でそのいくつかを読むことができた。ことに「D・H・ロレンス書簡集(The Letters of D. H. Lawrence, Cambridge Uni. Press, Vol1-8)」は、以前にも書いたが、全50巻にもおよぶ「ケンブリッジ版・D. H. ロレンス全集(The Cambridge edition of the Works of D. H. Lawrence)」として、最も価値多いものである。

このロレンスの手紙に注目し、ロレンスの死後,刊行された数々の「ロレンス書簡集」のなかでも,その先駆的業績を認め,ロレンス文学を高く評価した同時代作家オルダス・ハックスリー(Aldous Huxley)編纂による「D・H・ロレンス書簡集(The Letters ofD. H. Lawrence, 1932年)」は、ロレンス研究の圧倒的な先見性をもち、その書簡集の序文として書いた「D・H・ロレンス論」は,ロレンス嫌いの詩人T・S・エリオットも認めざるをえないものだった。

現在、D・H・ロレンスの文学は、どういう位置づけになっているのだろうか。

ぼくはよく知らないけれど、昭和初期ごろ、ロレンスを卒業論文に取り上げる例がけっこう見られたらしい。

いま、おもい出すものをすこしあげると、福田恒存の東京帝大英文科の卒業論文は、「Moral Problems in D.H.Lawrence(D・H・ロレンスにおける倫理的問題)」というものだったらしい。論文の提出日は昭和10年12月。A4判サイズのタイプライター用紙に英文で58ページだった(川久保剛「福田恒存」ミネルヴァ書房、2012年)といわれている。その後、この論文は、当時磯田光一が東京大学の助手をしていたころ、磯田の手にいったんわたり、その後紛失しているというのである。磯田の記憶によれば、「現代人にとって愛は可能か」というテーマだったと書かれている。

福田恒存が大学を卒業したときの英文科の卒業論文36点のうち、4点までがD・H・ロレンスをあつかっているという。おなじころ、早稲田大学の英文科の卒業論文73点のうち、14点がD・H・ロレンスにかんする論文だったといわれている。それほどD・H・ロレンスは早くから日本に紹介され、ちょうどロレンス・ブームを巻き起こしている最中だったらしい。

ところが、大学で卒業論文を指導したのは、英和辞典の世界で名をなした市河三喜(「ハムレット」(岩波文庫)を翻訳)と、英文学界の長老斎藤勇だった。――斎藤勇は、のちに「チャタレー裁判」では検察側証人に列した。

のちに福田は、ロレンスの「アポカリプス論(Apocalypse)」を翻訳し、「現代人は愛しうるか」(白水社、昭和26年)というタイトルで出版している。個人と愛のレジンマの探求は、彼の卒業論文からスタートしたのである。

ぼくが学生のころは、仲間のうちでロレンスを読んでいる者はいたが、卒業論文のテーマにしたとはおもえない。ロレンスよりもカミュかサルトルだった。英米文学ではТ・S・エリオットかヘミングウェイだった。

ぼくは西村孝次教授からロレンスの話をうかがった程度で、そのころはシェイクスピアのソネットと格闘していて、シェイクスピアの講演会で、福田恒存に出会ったのが印象に残り、たちまち福田恒存のファンになった。福田恒存のロレンスはずっと知らずにいたが、「英語青年」にたびたびロレンスにかんする論文が載り、大学2年のとき、彼の「息子と恋人」を読んだにすぎない。

D・H・ロレンス。

 

ハクスリーの「D・H・ロレンス論」を読んだのは、そのころとおもわれる。

ロレンスと彼の手紙についての考察は、その後いろいろ出ているが、この「D・H・ロレンス論」が基調をなしていることはいうまでもない。イギリスに書簡文学というものがあることは知っているが、それは代書屋リチャードソンによる代筆書きの書簡体文学といわれるものにすぎない。

ところが、ロレンスの手紙は、手紙を鑑賞して楽しむほど、彼の小説や詩とおなじくらい文学的な価値をもっている。これは驚くべきことである。

ハクスリーの「D・H・ロレンス論」には、どんなことが書かれているのだろう。わが国の大学で英文科に籍をおく学生たちは、いちどはD・H・ロレンスの小説を手にしたことがあるだろうとおもう。

 

 D・H・ロレンス(1885-1930年)、

 Т・S・エリオット(1888-1965年)、

 オルダス・ハクスリー(1894-1963年)、

 

この3人はまったく同時代の人である。

オルダス・ハクスリーは、1932年――つまり、D・H・ロレンスが亡くなった2年後に「D・H・ロレンス論」を書いている。それはたいした問題ではないかもしれないが、読んでみると、序文というものではなく、ちゃんとした「D・H・ロレンス論」になっていることに驚かされる。

そればかりか、ロレンスが世間の反感を買ったのは、彼が労働者階級の作家だったこと。アメリカにおけるロレンスの崇拝にも近いブームを巻き起こったことにたいする批評家たちの猛烈な反駁。そうしたことが原因となり、わが国でも、ロレンスを毛嫌いする批評家がいたことは否めない事実である。時代がくだったいまでも、ロレンスを毛嫌いするか無視する人びとのいることもまた事実である。しかし、ハクスリーはいう。

たとえば、――

 

Beautiful and absorbingly interesting in themselves, his letters are also of the highest importance as biographical documents. In them, Lawrence has written his life and painted his own portrait. Few men have given more of themselves in their letters. Lawrence is there almost in the entirety. Almost, for he obeyed both of  Robert Burn's injunctions:

 

Aye free, aff han' your story tell,

When wi' a bosom crony;

But still keep something to yourself'

Ye scarcely tell to only. 

ロレンスの手紙は、それ自体が美しく、すばらしくておもしろいものだが、伝記的な記録としてもきわめて重要なものである。手紙のなかでロレンスは、彼の生活を描き、自分自身の肖像画を描いているのである。彼ほど手紙のなかで、自己を表現した人もめずらしいが、ロレンスのほとんどすべては、彼の書いた手紙のなかにある。わたしが「ほとんど」ということばを使うのは、彼がロバート・バーンズのふたつの命令の双方にしたがったからである。

 

いつも腹蔵なく、無造作に話すがよい

親しい友とともにいるときは

何かを、こころのなかにそっとしまっておけ

これたげは、だれにも他言しないということを。

 

After a time, the steam begins again. But the later letters, though plentiful and good, are neither so numerous nor so richly and variously delightful as the earlier. One feels that Lawrence no longer wanted to give of himself so fully to his correspondents as in the past.

しばらくして、また手紙の流れが動きだす。しかし後期の手紙はたくさんあり、りっぱなものだが、初期のものとくらべると、それほど多くはなく、またそれほど豊かで変化にとみ、気持ちのよいものでもない。ロレンスは以前ほど自分の心のなかを相手にじゅうぶんに打ち明けようとはおもっていないのだというふうに感じさせる。

ロレンス解釈の第一人者としてのハクスリーの文章は、見過ごすことはできない。ロレンスの愛弟子、――Т・S・エリオットにいわせれば、――なのだが、それはミドルトン・マリー(John Middleton Murry)と、このハクスリーであったといわれているが、それにしても、前者は、「ロレンスの芸術としての作品は失敗作だった」ときめつけ、後者は「ロレンスは芸術家であり、小説家であった」と反論した。ふたりの見方がこのように違って見えるのである。

この双方の見方は、ロレンス像をより複雑にしてきた。

しかし、ひとたび彼の手紙に目を転じると、小説や詩では得られなかった像が浮かびあがってくる。

ハクスリーのいうように、この「D・H・ロレンス論」では、「真摯かつ最良のロレンス入門書」であるとうたい、いまもその評価は高い。

D・H・ロレンスにかんするかぎり、書簡を読まずにほんとうの姿は見えてこないだろう。ロレンスの手紙は、彼の表面化された性の芸術を、ただしく教えてくれそうだ、とさいきん、静かにひとりおもっている。