ザベラ・バード、その々たる名声。

 イザベラ・バード。

 

そのころ、1869年(明治2年)8月は、まだ近代日本がはじまったばかりです。

イギリス帝国は、ヴィクトリア女王の名代として、バーティ王子のすぐ下の弟アルフレッド王子――エジンバラ公爵に叙された、――を日本に派遣したときは、日本も若かったのです。そしてアルフレッドより8歳若い明治天皇を謁見したのです。明治日本がヨーロッパの大国から迎えた最初の王族でした。

それ以来、1870年代は、ヴィクトリア女王も、積極的な王室外交を展開しようとしていた矢先でした。

女王が公の場に復活して最初の会見をおこなったのは、なんと日本の使節団でした。岩倉使節団です。使節団は、マンチェスター、シェフィールド、バーミンガムなどイギリス各地の工業都市をおとずれ、《世界の工場》たる、イギリスの経済力、技術水準の高さに圧倒されていました。

これに隋行した久米邦武は、のちに「米欧回覧実記」でつぎのように書いています。

「この連邦王国は……形勢、位置、広狭および人口はほとんどわが邦とあい比較す。ゆえにこの那の人は、つねに日本を東洋の英国という。しかれども営業力をもって論ずれば、その懸殊もはなはだし。……これに加うるに、この国付属の地は五大洲中にあまねく、およそ環海要衝の地は多くその所管となし、全世界の航路、ほとんどみな自国の支配下に帰し、海路に郵駅を置きたり。……誇りて英国に日没を見ずという」

「営業力」というのは、「経済力」のことです。そのような時代です。

まさにそのときを前後して、日本にひとりの旅好きのイギリス人女性が訪れるわけです。それが、イザベラ・バードです。

イザベラ・バード(1831年-1904年)というイギリス人女性をご存知でしょうか? 

数年前、ぼくはイザベラ・バードについて文章を書きました。それには間違いがあり、ここにあらためて彼女の旅の話を書きます。旅の案内をした通訳の伊藤鶴吉についてです。

というのは、先日ぼくは、中野明氏の書かれた「世界漫遊家が歩いた明治ニッポン」(ちくま文庫、2016年)という本を読んでいて発見したことなのです。

発見というよりは、もとよりぼくの勉強不足によるもので、迂闊にも、この話はよくしられたことのようでした。英語もわからない18歳のあんちゃんが、バードの旅のガイドに連れ添って、北海道まで行くという話に、ぼくはなんとなく胡散臭い話だとおもっていました。伊藤鶴吉という人物と、イザベラ・バードのそもそもの出会いを、ぼくは知らなかったのです。

 

 伊藤鶴吉。

 

伊藤鶴吉(1858-1913年)は、明治時代に活躍した日本の英語通訳者で、彼が亡くなったとき、新聞報道では「通弁の元勲」と評されたようです。

彼は横浜で外国人から英語を学んだそうです。1905年、――ちょうど日露海戦の最中に、アメリカの実業家エドワード・ヘンリー・ハリマンが来日し、「桂・ハリマン協定」が結ばれましたが、伊藤はそのときの通訳をつとめたそうです。その後、マイソール王国王子、バローダ国王、植物学者チャールズ・マリーズなどが来日したときも通訳をつとめたといわれています。

そして、きょうの主人公イザベラ・バードの日本旅行でも、伊藤鶴吉は通訳をつとめ、彼女の書いた「日本奥地紀行」にも伊藤鶴吉の名がちゃんと記載されています。

当初彼は、ヘボン博士の召使いのひとりと知り合いだといってバードに面会しています。バードが伊藤を見て、どうおもったかもちゃんと描かれていて、彼の背丈は、彼女の本によれば「4フィート10インチ」と書かれていて、150センチもなかったようです。

「彼は、年はただの18だったが、これは、私たちの23か24に相当する」とも書いています。

「かれは普通の英語とは違って「りっぱな」英語を話したがっており、新語をおぼえようとしているが、正しい発音と綴りも身につけることを切望している。毎日彼は、私が用いることばに良く分からない単語を発見しては、全部ノートに書きつけて、晩になると私のところへもってきて、その意味と綴りを習い、日本語の訳をつける」と書かれていて、ひじょうに向学心のある青年であったようです。

こういう文章を読んで、ぼくは伊藤鶴吉なる人物にたいへん興味を持ちました。

 中野明「世界漫遊家が歩いた明治ニッポン」(ちくま文庫、2016年)

 

で、伊藤は、イザベラとの旅行を終えたのち、つまり明治11年9月14日、函館で別れますが、そのときのバードの手紙にはこう書かれています。

「とうとう今日は伊藤と別れたが、たいへん残念であった。彼は私に忠実に仕えてくれた。彼を通して私は、たいていの話題なら、他のいかなる外国人よりもずっと多くの情報を得ることができた。彼は、いつものように私の荷物をつめる、といってどうしてもきかず、私の身の回りの品物をすべてきちんと片付けてくれたのだが、彼がいないと、もうすでに私は困ってしまっている。彼の利口さには驚くべきものがある。彼は男らしい立派な主人のところに行く。あの人ならきっと彼に良き模範を示し、彼を立派な人間にするのに役立つであろう。それは私にとっても満足なことである。伊藤は去るまえに、私に代わって室蘭の長官宛に一通の手紙を書いてくれた。人力車の使用その他の私に親切にしてくれたことにたいする礼状である」と書かれています。

これが伊藤鶴吉について書かれたバードの最後の記述です。

バードはみずからを「女のひとり旅(a lady travelling alone)」といっていますが、そういうわけで、彼女はけっしてひとり旅ではなかったのです。伊藤との二人三脚の旅であったといえます。伊藤がいなければ、オートミールもつくれない彼女でしたから。

 1889年刊行の、イギリスの別の本で描かれたアイヌ民族の男性。

 

イザベラ・バードは、彼女自身が書いた「日本奥地紀行(Unbeaten Tracks in Japan)」(平凡社・高梨健吉訳、東洋文庫、1973年)という本で、その名が知られている女性ですが、あらためて、その本を手に取って読んでみました。

1878年(明治11年)、イザベラ・バードというイギリス婦人が日本にやってきました。彼女はイギリスのヨークシャーの牧師の娘として生まれていますが、幼いころから脊椎の病をもっていて、病弱だったそうです。

ところが、イザべラは持病の発作による肉体的な苦痛にもうち勝つほど旺盛な好奇心をもっていて、彼女の旅行好きは、やがて日本に向けられ、東京をでて日光にいき、そこから鬼怒川ルートを北にすすんで、彼女の日本奥地旅行がはじまります。

山形、新圧、横手、秋田を経て青森にで、津軽海峡をわたって函館から室蘭、それから白老や平取(ひらとり)のアイヌ部落をおとずれています。

とくにアイヌ民族の暮らしを詳細に記しています。

イザべラ・バードの「日本奥地紀行」(Unbeaten Tracks in Japan)の初版が1880年(明治13年)に2巻本として刊行されました。――この本はおもいのほか、海外で評判になったそうです。そのころの日本の東北・北海道をつぶさに歩いて見聞したことをくわしく書かれているからです。

そこに書かれているのは、はたしてほんとうの話なのか、イザベラ・バードの伝記を書いたパット・バーさんは、都合4度、ご主人とともに日本を訪れ、3年間、日本に滞在し、各地を見聞し検証をこころみました。そして、彼女の手によってバードの伝記「A Curious Life for a Lady」が出版されたわけです。その伝記は、ぼくは読んでいないのですが、日本で調べてみても、イザベラ・バードというイギリス人女性の情報がほとんどなかったとのべています。

バードは、旅先でさまざまな危険に遭っていることがわかります。

中国では泊まっている宿に放火されたり、韓国では戦争に巻き込まれたりして、やがて日本にやってくると、日本は平和で、外国人にはみんな親切で、治安もよく、長旅でも危険に遭うことは一度もなかったとのべています。

イザベラ・バードの目を通して書かれたこの本は、東洋文庫を読めばわかりますが、きょうは、そこには書かれていない話をしてみます。

もともとバードは、あちこちの旅先で、妹のヘニーにあてて書かれた手紙がもととなって、のちに「日本奥地紀行」にまとめられたという経緯があります。はじめから紀行文を書くつもりなど、彼女にはなかったようです。

ヘニーは、同書の出版を目前にして亡くなりました。そのことを悲しんで、バードはつぎのように書いています。

「わたしの愛する唯一人の妹がこの世を去った。本書は、まず最初に、妹に宛てて書かれた手紙集であり、妹の有能で、しかもきわめて細かい批評に負うところが多い。妹がわたしの旅行について、愛情と興味をもってくれたことは、わたしが旅行をつづけ、旅行記録を綴るときの大きな励ましになった。」

こんなふうに書かれています。

この物語には登場しませんが、イザベラ・バードは、ヘニーを見送って間もなく、夫となるジョン・ビショップ博士と結婚しています。このふたりの結婚は、ヘニーの死の翌年でしたが、バードが39歳、ジョン・ビショップ博士が49歳のときでした。

そのわずか5年後、ビショップ博士は亡くなりますが、彼女は終生、「ビショップ夫人」として生きました。

ふたりの夫婦としての絆の強さを証明しています。

青森、北海道の苫小牧の草原に休んで、彼女はしばしばなつかしく、イギリス中部の故郷をおもい出していたことでしょう。バードは馬とは相性がわるかったのか、北海道でもいいおもい出は、何も書いていません。

「わたしは石垣の上から、荷物を積んだ馬の上にとび乗った。……坂をくだるときには、とても我慢できぬほどで、わたしが馬の頸(くび)からすべり落ちて泥の中に飛び込んだとき、実にほっとしたほどである。」

「雀蜂(スズメバチ)と虻(あぶ)に左手を刺されて、ひどい炎症を起こしている……場所によっては、雀蜂は何百となく出てきて、馬を狂暴にさせる。わたしはまた、歩いているときに人を襲う馬蟻(うまあり、大蟻のこと)に咬まれて炎症を起こし苦しんでいる」といった記事が書かれています。

この話は、もうはるか130年もまえの話になります。

130年まえというと、早稲田大学や哲学館(のちの東洋大学)が創設されたり、近代日本の黎明期でした。

宮本常一の「忘れられた日本人」(岩波文庫、1984年)を読んだり、宮本常一の「イザーベラ・バードの《日本奥地紀行》を読む」(平凡社ライブラリー、2002年)を読んだりして、ぼくは、明治11年に北海道へ渡り、バードの見た海の光景を想像してみるのですが、それはもう、ぼくには想像もできない世界なのです。

湯川豊の「本のなかの旅」(文藝春秋社、2012年)を読むと、そこには毅然とした英国夫人のイザベラ・バードが出てきます。それはけっして日本人を見下すものではありません。彼女に連れ添った男のことがしきりに書かれていますが、あぶないところを助けてくれる心強い男として登場しています。

バードは書きます。

「私の心配は、女性の一人旅としては、まったく当然のことではあったが、実際は、少しも正当な理由はなかった。私はそれから奥地や北海道(えぞ)を1200マイルにわたって旅をしたが、まったく安全で、しかも何の心配もなかった。世界中で日本ほど、婦人が危険にも人の無作法にもあわず、まったく安全に旅ができる国はないと私は信じている」といいます。

これは、バードに連れ添った男に導かれてこそ、そうだったというわけでしょう。

で今回、教えられたのは、バード以前に、北海道・エゾを旅した外国人がいたということです。

バードは「日光から北の方は、全くのいなかで、その全行程を踏破したヨーロッパ人は、これまで一人もいなかった」と書いていますが、そうではなかったのです。チャールズ・ロングフェローは、蝦夷地をめぐり、東北の内陸を旅し、明治4年の9月から11月にかけて、踏破しています。

バードより7年も早く。

またシーボルト事件を起こしたフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの二男のハインリッヒ・シーボルトは、東洋探検隊の一員として日本にやってきました。オーストリア陸軍のクライトネル中尉と、ディースバッハとともに、彼は蝦夷地の探検に乗り出します。

シーボルトのほうは、大隈重信の委託を受けたもので、バードは、北海道の平取のアイヌ小屋で寝泊まりするまえ、このシーボルトと北海道で出会っています。

さらにある夜、シーボルトはバードの宿舎をおとずれ、アイヌについて情報交換をしているのです。

さらには、時代がくだって、明治22年、日付はわかりませんが6月の終わりか、7月のはじめごろ、ヘンリー・サベッジ・ランドーという男――彼は画家であり旅行家というところでしょうか、フィレンツェ生まれの英国人の彼が、とんでもない蝦夷地探検をやってのけています。

函館に上陸したランドーは、その行程約6800キロを146日で踏破するという北海道一周旅行を成し遂げているのです。

これは「旅行」という概念では説明のつかない旅で、興味深いところでは、標津、羅臼、網走にいたるオホーツク海の面した土地をへて、宗谷岬にいたる行程を経、天塩、留萌、増毛へとすすみます。南下して石狩川にそって内陸部を歩き、神居古潭(かむいこたん)や上川を歩き、石狩川に舟を浮かべて空知までくだる。そして幌内、札幌へと旅をしています。

途中、増毛で暑寒別川が増水してわたれなくなりますが、村人のいうことをきかず、川をわたっていたとき、巨木が流れてきて、対岸にたたきつけられます。岸にあがろうとしたとき、足を骨折してしまうのです。

骨折しながら、じぶんで木の棒を脚にあて、しばりつけて手当てをし、彼は歩きつづけます。

そしてこんどは札幌へは向かわず、神居古潭へと向かうのです。

彼がのちに、懐かしがって書くのは、そのときの神居古潭でアイヌの見知らぬ人びとと寝食をともにして過ごした日々の風景でした。

なんという男なのか、とおもいます。――このたび、中野明氏の本を読んで、たいへん教えられました。