むかしの女流作家。――

林たい子と芙美子。

あるとき司馬遼太郎さんの話になった。話が、とんでもない方向にいきなり飛翔する。

政治、経済、国際、文学、芸能と、司馬さんの話は尽きない。

「風塵抄」(中公文庫)の世界は痛快である。

産経新聞の月一回のコラムだった「風塵抄」は、タイトルを読むだけで、どういう話が書かれているか一目瞭然なのである。

「ことばづかい」、「顔を振る話」、「男の化粧」、「歩き方」、「たかが身長のために」、「金太郎の自由」、「おサルの学校」といった目次が見える。

「題の風塵というのは、いうまでもなく世間ということである。風塵抄とは、小間切れの世間ばなしと解してもらえばありがたい」と書かれている。日常のできごと、たかが身体髪膚(はっぷ)といえども司馬遼太郎さんの手にかかれば、「生物にも耐用年数があるように、国家にも社会にも団体にもそれがある」と書かれていたりして、目がはなせない。

 平林たい子。

「田中さんのブログ記事、いつも拝見していますが、ごじぶんのことはあまり書かないんですね?」と友人がいう。

「じぶんのことですか。あまり、書きたくないですね」

「どうしてですか?」

「興味、あります? 世間にまったく無名のじぶんの話なんか読んでも、いったいどんな価値があるんでしょうか。――話は変わるけど、いまぼくは、ちょっと多忙なんですよ。

おなじマンションの6階に住んでいる友人と、クルマでちょっと遠出をして、朝から、八潮のある喫茶店で話し込んでいたんですよ。彼はまだ60代でね、奥さんが病身で、……まあ、マンションのトラブルをひとつ抱えていて、解約をめぐって揉めていて、ぼくはその相談に乗っているところなんですよ。そんな話を書いたところで、つまらないじゃないですか」

                                            ♪

むかし小堀甚二の書いた「平林たい子の素描」という本を想いだす。

そのなかで、「私たちの結婚生活は、私が彼女の先夫に決闘を申し込まれることからはじまっている。暗い夜の麦畑に誘い出されたが、どういう心理の変化か彼の方で闘志をすてたので、殺されるとも、殺すともなくすんだ」と書かれている。

相手は山で遭難して死んだようだとも書かれている。

平林たい子の小説は、ぼくは読んだことがないといえばウソだが、彼女はずいぶんと男まさりな女性だ。

そのかわり彼女はかなり肥っていて、

「走るということは小走りといえども、まったくできない」と書かれている。

かとおもうと、夫小堀甚二と結婚23年目にしてようやく、お互い「米の飯と同じようなもの」になったと書かれ、平林たい子の病中8年間、「私の肛門から大便を指で掘りとっている夫」の姿に感謝していると書いている。

彼女の夫、小堀甚二は昭和34年、58歳で没。

いよいよ出棺の、最後のお別れをするというとき、妻である平林たい子は、8ミリカメラをまわして周囲の人びとを驚かせた。「そこには悲しみにひたる凡庸な妻の姿はなくて、女流作家の鋭いかわいた目があった」(三枝佐枝子「女性編集者」)と書かれている。

作家の日常はとても絵になるし、こうして書いても、話になる。

彼女は戦後、反共的なスタンスをとり、安保反対闘争、松川事件の無罪判決批判など繰り返した。昭和47年没。

ついでに林芙美子の話を書きたい。

「私は宿命的に放浪者である。私は古里を持たない」といい、その「放浪記」の冒頭で、定住的でない林芙美子を自身で自己規定している。戸籍上では明治36年12月31日門司で生まれたらしい。

 

 林芙美子。

 

尾道高等女学校を出た19歳の芙美子は、男を追って上京、女中、風呂番、工女、露天商、カフェの女給などをし、都会で女ひとり、なんとか生きた。

関東大震災にも遭い、男性関係においても放浪をつづけた。

ここでちょっとじぶんのことを述べれば、林芙美子の「放浪記」を読んだのは、じぶんが高校生のときだった。高校の仲間たちは、林芙美子をだれも知らなかった。芙美子の話をしても、だれもおばさんの書いた放浪するような小説には、関心を示さなかった。

昭和12年7月、蘆溝橋事件をきっかけに日中戦争がはじまり、日本軍は南京を占領。

すると芙美子は、東京日日新聞特派員となり、光華門に立つ写真が掲載されたりして話題になる。戦争が拡大されると国家総動員法が発令され、作家もペンをもって戦争に協力することを求められた。

内閣情報部は、20人の作家をあつめると、ペンの戦士として陥落間近な武漢の最前線へ送ると発表した。

くだらない恋愛小説なんか書いている時代じゃない! 自費でも行きたい!

と芙美子はおもう。

そのころ、すでに従軍していた火野葦平の「麦と兵隊」が大きな反響をよんでいた。そうして林芙美子は従軍作家になったのである。従軍記も派遣である以上、守ってもらう行動コードというものがあった。

たとえば、日本軍が負けているシーンは書いてはならない。敵を憎らしく書かねばならない。作戦の全貌は書いてはならない。部隊名を書いてはならない、などなど。

芙美子は、男たちと従軍しながら、つねにトイレの心配をしなければならなかった。写真家・名取洋之助や詩人の西條八十、画家の藤田嗣治に会う。そして兵隊は死ぬ。

「三時半に眠るように息を引きとる」と書かれ、それから「旗信号の部屋に行き、梅村さんの足の爪を切つてあげた」と書き、「北憲兵の堀川さんよりお使ひの従卒の方がみえる」と書き、「今日も十八九キロは歩いたゞらう」と書く。

そして昭和20年8月の終戦。林芙美子は、ふしぎなことに、戦争協力を問われることはなかった。戦後は一転して戦争未亡人などを描いた。

「なんて調子のいい女だろう」というのが彼女にたいする一般の感想だが、一時、この転向ということを知識人らは問題視した。

十二月×日

 さいはての駅に下り立ち

 雪あかり

 さびしき町にあゆみ入りにき

 

雪のシラシラ降っている夕方、私は此啄木の歌をふっと思い浮べながら、郷愁かなしさを感じた。便所の窓を明けると門灯がポカリとついて、むかあし山国で見たしゃくなげの紅い花のようで、とても美しかった。

「姉やアお嬢ちゃんおんぶしておくれッ!」

奥さんの声がする。

あゝあの百合子と云う子供は私に苦手にがてだ。よく泣くし先生に似て、シンケイが細々として、全く火の玉を脊負っているような感じだ。

せめてこうして便所にはいっている時だけが、私の体のような気がする。

――バナヽ、鰻、豚トンカツ、蜜柑、思いきりこんなものが食べてみたいなア。

気持が大変貧しくなると、落書したくなる気持ち、豚(トン)カツにバナナ、私は指で壁に書いてみた。

夕飯の仕度の出来るまで赤ん坊をおぶって廊下を何度も行ったり来たり。

秋江氏の家へ来て一週間あまり、先(さき)のメドもなさそうだ。

こゝの先生は、日に幾度も梯子段を上ったり降りたり、まるで廿日鼠(はつかねずみ)だ。あのシンケイにはやりきれない。

「チャンチンコイチャン! よく眠ったかい!」

私の肩を覗いては、先生は安心したようにじんじんばしょりして二階へ上って行く。私は廊下の本箱から、今日はチェホフを引っぱり出して読む。チェホフは心の古里だ。

チェホフの吐息は、姿は、みな生きて、たそがれの私の心に、何かブツブツものを言いかけて来る。

匂おわしい手ざわり、こゝの先生の小説を読んでいると、もう一度チェホフを読んでもいゝのになあと思う。京都のお女郎の事なんか、私には縁遠いねばねばした世界だ。

林芙美子「放浪記」淫売婦と飯屋

 

七月×日

ちっとも気がつかない内に、かっけになってしまって、それに胃腸も根こそぎ痛めてしまったので、食事も此二日ばかり思うようになく、魚のように体が延びてしまった。

薬も買えないし少し悲惨な気がする。

店では夏枯れなので、景気づけに、赤や黄や紫の風船玉をそえて、客を呼ぶのだそうな――。じっと売り場に腰を掛けていると、眠りが足らないのか、道の照りかえしがギラギラ目を射て頭が重い。

レースだの、ボイルのハンカチだの、仏蘭西製カーテンだの、ワイシャツ、カラー、店中はしゃぼんの泡のように白いものずくめ、薄いものずくめだ。

閑散な、お上品なこんな貿易店で、日給八拾銭の私は売り子の人形、だが人形にしては汚なすぎるし、腹が減りすぎる。

「あんたのように、そう本ばかり読んでも困る、お客様が見えたら、おあいそ位云って下さい。」

酔っぱいものを食べた後のように歯がじんと浮いた。

本を読んでいるんじゃないんです。こんな婦人雑誌なんか、私の髪の毛でもありはしない、硝子のピカピカ光っている面を一寸覗いて御覧下さい。水色の事務服と浴衣が、バックと役者がピッタリしないように、何とまあおどけた厭な姿……。

林芙美子「放浪記」海の祭

 

私は、その秋の改造十月号に『九州炭坑街放浪記』と云う一文を載せて貰うことが出来ました。その時のうれしさは何にたとえるすべもありません。広告が新聞に出ると、私は、その十月号の執筆者の名前をみんな覚えこんだものでした。創作では、久米正雄(くめまさお)氏のモン・アミが大きな活字で出ていました。森田草平(もりたそうへい)氏の四十八人目と云うのや、谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう)氏の卍(まんじ)、川端康成氏の温泉宿、野上弥生子(のがみやえこ)氏の燃ゆる薔薇、里見弴(さとみとん)氏の大地、岩藤雪夫(いわとうゆきお)氏の闘いを襲つぐもの、この七篇の華々しい小説が、どんなに私をシゲキしてくれたか知れないのです。なお、斎藤茂吉(さいとうもきち)氏のミュンヘン雑記や、室生犀星氏の文学を包囲する速力、三木清(みききよし)氏の啓蒙文学論、河上肇(かわかみはじめ)氏の第二貧乏物語、ピリニヤークの狼の綻(おきて)などと云ったものは、書籍一冊も売りつくして持たない私を、どんなにはげましてくれたかしれません。私の炭坑街放浪記では二ヶ月は遊んで暮らせるほど稿料を貰いました。

その頃、私は稿料と云うものなど思いも及ばなかったのです。私は、雑文を書いては、紹介状もないのにひとりで新聞社へ出掛けて行きました。朝、八時頃、堀の内を発足して丸の内まで歩いて行きますと、十一時頃丸の内に着き、そこで、新聞社に原稿を置いて帰って来るのですが、一度は夕方帰って見ると、もはや速達で原稿が送り返されて来たりしておりました。私の雑文は、詩も随筆も小説も、みんな一つとして満足に売れたことはありませんのに、改造社から、稿料を貰った時はひどく身に沁(しみ)る思いでした。――女人芸術には、毎月続けて放浪記を書いておりましたが、女人芸術は、何時か左翼の方の雑誌のようになってしまっていましたので、一年ほど続けて止めてしまいました。平林たい子さんは、文芸戦線から押されてその時はそうそうたる作家になっていました。女人芸術に拠っていました時、中本たか子さんや、宇野千代(うのちよ)さんを知りました。宇野千代氏は、当時、私の最も敬愛する作家でした。

林芙美子「文學的自叙伝」