ョン・フォン・ノイマンという

ジョン・フォン・ノイマン。

 

ひさしぶりに晴れ渡った靑い空を見て、今年はじめての夏らしい夏を満喫している。ただ、そばに口うるさい神さんがいないだけ。

神さんは去る7月23日の火曜日から都内の病院に入院していて、下着の洗濯などを頼まれる。近くのクリーニング店に寄ると、「きょうは、自転車で行くのは、よしたほうがいいわ。暑すぎるから」といっている。

ぼくの病院通いは、自転車だ。

わずか25分の距離。

きょうは暑すぎて、路面の照り返しの輻射熱も強烈だ。この暑さを甘くみないほうがいいという。途中で熱中症で倒れてしまうかもしれない。

マクベスがはじめて登場する第1幕第3場のドラマ・シーンを想いだす。

彼が放つ第一声は、

 

「こんなにいいとも悪いとも言える日ははじめてだ」

(So foul and fair a day I have not seen.)

 

――というセリフ。

シェイクスピアの時代も、人類は、気候をコントロールすることはできなかった。だからこんなセリフになったのだろうか。

その後20世紀になって、コントロールできないまでも、より精確な気象予報に挑んだ数学者がいた。その名も「数値気象学」という。ジョン・フォン・ノイマンという男である。人類がはじめて気象というものに関心を示したのは、たぶんメンデルのほうが先だろう。メンデルは気象学というものを確立し、オーストリアの初代の気象庁長官になっている。 メンデルがもう少し生きていたならば、ノーベル賞は確実だった。世紀の発見だったからだ。彼は博士号さえ持っていない。

メンデルといえば、遺伝学だろうという人が多い。

メンデルといえば、遺伝よりも、西洋では圧倒的に気象学の創始者といっていいだろう。だが、日本では圧倒的に遺伝学者としての知名度が高い。彼は、そもそも遺伝学者なんかではなかった。飽きるほど時間をもてあましたヒマな僧侶だった。だから、畑にえんどう豆などを栽培して、生育する過程をじっくり観察する時間がたっぷりあったというわけである。

ヒマがなかったら、何年もあんな観察記録なんかつけない。

その成果を農業雑誌に投稿し、「雑種に関する研究」などという、どこにでもある平凡なタイトルを付して発表したものの、それが後世に残る遺伝学の基礎となろうとは、当のメンデルも知るよしもなかった。

そういう意味では、メンデルこそ、数値遺伝学者でり、数値気象学者であったといえるかもしれない。

――20世紀のはじめ、底知れぬ知力によって悪魔とも、宇宙人とも呼ばれた男、ジョン・フォン・ノイマンという男は、多かれ少なかれ眉唾ものとおもわれながら、量子論や、ゲーム理論、原水爆、コンピュータなどの分野で、その理論化に人間離れした功績を打ち出した男として、近寄りがたいほどの天才数学者という、ひりひりした雰囲気を撒き散らしていた。だが、じっさいは、人を愉快にさせるユーモアの持ち主でもあった。

彼は他人との摩擦を避ける名人だった。

「チチェスター老司教みたいに、ウンチをもらしそうだ」などといったりする。チチェスター老司教というのは、決断力のなさで知られた18世紀の実在の人物。

「ウンチ……」の原文は、feels his breeches stirと書かれている。

「股ぐらがむずむずする」とも解釈できるらしい。

ジョニーの英語は、アメリカ人もけっしていわない類いの英語だ。アメリカに移住するために、どんなに英語を勉強したか、――ディケンズの「二都物語」を、何ページも一語一句たがえずにそらんじたし、数学の分野で、「エンサイクロペディア・ブリタニカ」の記事もそらんじた。

ジョン・フォン・ノイマン、――愛称はジョニーというのだが、その彼と出会って、ぼくは、ドストエフスキーとおなじくらい彼の魅力にはまっている。はまったからといって、数学の分野で、何かできるということは何もない。知らない知識を吸収する、それは、「マクベス」を読むことと変わらないおなじ歓びに浸ることになるのだ。

だが、400年前のイギリス、シェイクスピアの時代は、文字が読める人はたいへんな知識人だった。なかんずくセリフの書ける人、作家というのは、たいへん尊敬された。

もし起訴された重罪人が文字が読めることを示せるなら、――たいていは「詩編」の一節を読み上げるのだが、――聖職者の特権を主張することができ、法律上は聖職者に分類されて、公式には教会裁判所の管轄下に置かれた。文字が読める泥棒や人殺しは、初犯にかぎって無罪放免となったのである。

ただし、たいていの場合、犯罪者は、泥棒(thief)にはT、人殺し(murderer)にはMの頭文字を烙印され、もしもふたたび罪を犯したときは、間違いなく死刑になった。

死刑になったばかりでなく、さらし首になった。

ロンドン橋周辺では、さらし首が30個から40個は並んだ。

日本では想像もできないが、イギリスの紳士淑女は、そういう彼らを見ながら橋をわたっていったのだ。薄気味悪い光景だが、庶民にとっては見慣れた風景で、だれも何もいわない。

――ジョン・フォン・ノイマンの話が、あちこち脱線してしまった。

ぼくは人とおしゃべりしていて、途中で、話の筋道が大きく蛇行し、ご覧のようにしまいには、すっかり脱線してしまうことがある。ジョン・フォン・ノイマンの人生も、ハンガリー出身のユダヤ人科学者と呼ばれるまでには、生き方を大きく変えている。

ジョニーの人生には、4つの時期がある。

順にいうと、第一次世界大戦の敗戦にあえいでいたハンガリー(1903-21年)、ワイマール体制下のドイツ(20年代)、大恐慌時代のプリンストン(30年代)、そして第二次世界大戦と冷戦時代(40~50年)である。

第一の舞台はハンガリーの首都ブダペスト。

ジョニーは願ってもない両親と教育にめぐまれた。20世紀初頭のハンガリーには、世界に誇る教育システムがあった。その状況は日本の状況に酷似している。ハンガリーは、第一次世界大戦で敗者側についたばかりに国土の3分の2を失い、過去の繁栄も根こそぎ夢と消えた。そんな故国ハンガリーにとどまるかぎり、ジョニーが世に出るチャンスはまずありえなかった。

先日からノーマン・マクレイという人の書いた「フォン・ノイマンの生涯」(朝日選書、2001年)という本を読みなおした。ノイマンは、数学の本にも、物理学の本にも、原子物理学、――はっきりいうと、原子爆弾製造の物語のなかにも登場するという男で、のちにコンピュータ原理を構築した人物として忘れられない。

そのまえに、ぼくがこの本を手にした理由は、もうひとつある。

著者のノーマン・マクレイ(Norman Macrae, 1923年生まれ)という人物についても興味があった。彼はケンブリッジ大学を出て「エコノミスト」の記者となり、英国空軍の航空士となり、のちに日本を論じたルポルタージュ、「驚くべき日本」、「日本は昇った」、「日本への衝撃」(いずれも竹内書店)という本で、日本政府から勳三等旭日章をいただき、同時に、エリザベス女王誕生日の叙勲でイギリス政府からも上級勳爵士に叙せられた人物だったからである。

彼の日本取材は綿密で、あきれるほど正鵠を射ている。

ちょっと褒め過ぎではないかとおもわれるほど、日本を手放しで高く評していた。興味のある方は、それらの本を読まれることをおすすめしたい。

そういうわけで、ぼくはノーマン・マクレイの目をとおしたフォン・ノイマンという男の実像を学んだわけである。

数学・物理学・工学・計算機科学・経済学・気象学・心理学・政治学に多くの影響を与えた。第二次世界大戦中の原子爆弾開発や、その後の核政策への関与でも知られる。このように、彼は数学だけでなく、さまざまな分野で大きな貢献をしている。

ぼくは数学の本のなかで、ジョニーの名前フォン・ノイマンにたびたびお目にかかっている程度だったが、このたびフォン・ノイマンの生涯を読み返して、じつに驚いている。

そして、多岐にわたる緒論が、つねに正しく理解されていたかといえば、そうではなく、賛否両論のかっこうの的になっていたことを知った。偉大な業績のあまりの多さに驚くと同時に、その業績にわりには、アインシュタインのように名前が売れていたとはいいがたい。

それまでのぼくの知識は、20世紀初頭の数学の世界で、ちょっとだけジョン・フォン・ノイマンの時代を迎えていたに過ぎないとおもっていた。その考えが180度ひっくり返ったのである。

彼の時代のはじまりは、1949年から55年にいたる合衆国政府のなかで、スターリンとその後継者が支配するソ連をどう封じ込めるかが議論の的になっていたとき、ノイマンはまわりのだれよりも、タカ派だった。

無原則な平和主義を慎重に排除していったノイマンの手腕は、まるで政治家に見える。

そして、ノイマンは、あることに実用につながる道筋を見いだすと、天才的なひらめきをもって事にあたった。

じぶんの生んだマシンは、処理量100培、速さも100培の計算をこなすコンピュータに大きな期待を寄せ、無限のエネルギーを生む核融合も、気象の自在な制御も、20世紀の末にはほとんど目途がついているだろうとして、今日のコンピュータ社会を予言しているのである。

彼の専門は、いったい何だったのだろう、といぶかる専門家も多い。

そこにぼくは、本来の、専門性をもたない科学者としてのお手本を学ぶことができる。

彼の著書、――たとえば「量子力学の数学的基礎」と題された本は、現在のコンピュータの基礎を敷いたものだったといわれる。ノイマンが17歳ころからはじめた数学上の業績は、だれもが褒めるすぐれたものだったらしいが、彼の解析学は緻密で、それはゲーム理論の先駆となったし、爆発現象と気象の類似性、その数学的な予想観測する数値解析は、みごとというしかない。彼はもっともロジカルな数学者だったといえる。

数学的な数値解析の元祖といっていい。

その成果が原子爆弾の設計者のひとりとして結実したわけである。

そういうことから、彼は戦後、合衆国政府の中枢で、ソ連封じの布石を打った人物といわれている。ノイマンの「生涯」を書いた著者は、最後に「ジョン・フォン・ノイマン氏を経済学者だと信じていた」と書かれているくらいである。

先にも書いたが、巨人ノイマンの生涯は、繁栄の極にあったハンガリーの首都ブタペストで幸せなユダヤ人として過ごした。ヨーロッパにおけるユダヤ人の街という特異な歴史をもつこの国に生まれたことが幸いした。

ハンガリー出身の数学者はゴマンといる。

エイブラハム・ウォールド、ポール・エルデシュ、セゲー・ガーボル、マルセル・グロスマン、デネス・ケーニヒ、ジョン・ジョージ・ケメニー、ゾルターン・サボー、ジョン・フォン・ノイマン、ピーター・フランクル、リース・フリジェシュといった錚々たる数学者がひしめいているのである。

みんなユダヤ人である。

それが、やがて二度の世界大戦をはさんで、数学や物理学に熱狂する知の新大陸へ向けて、いっせいに国を飛び出していった。

ある人は、これを「知の大移動」と名づけた。

学術・芸術の重心移動は、地球上におけるふたつの楕円のそれぞれの中心を描き、いっぽうの楕円の中心は、ユダヤ人排斥へと動いた。そのため、ハンガリーから大挙して合衆国へ科学亡命するという歴史をつくったのである。

ノイマンもそのひとりだった。

この短い記事では、すべてを書くことはできないけれど、ノイマンの大きさは、その考えるロジカルなメソッドにあるとおもっている。それはだれにもわからない。きょうは、そんなことを考えた。