仏次郎の「馬天狗」と「穂浪士」。

大仏次郎。

 

きのう夕方からぱらぱらっと雨が降って、草加のマロニエ通りの路面がぬれた。

そのころぼくは、新しい自転車を手に入れて、街道を走っていた。

マウンテンバイク。――店でためしに乗ってみると、ペダルの動きも軽ろやかで気分もいい。ただし、この自転車にはカゴがついていなくて、カギもない。なにしろぼくは、5年前までオートバイに乗っていたので、オートバイとおなじハンドルでないとダメなほうで、そればかり気にしていた。

「カギをつけてください」というと、店のあるじが、「カギはないよ」といった。

自転車屋に自転車用のカギがない?

そんなことってあるのか、と思った。

自転車店には、自転車がいろいろある。あるけれど、この店は修理が売りの店のようだった。サードルやペダルは自由に取り替えることができる。ヘルメットをかぶって、さっそくどこかに出かけたい気分だ。路面のあちこちに水溜りができている。

「あすは、天気ですかね?」と主人にきいた。

「は? 自転車のことはわかるがね、天気はわかりませんな。……あすのことなんて、だれにもわかりませんよ」といっている。そのものいいが、なんとも哲学的なのだ。たいがいの人は、あすも生きるつもりで生きている。

ほう、と思った。

そして「なるほど」と思った。

たいてい客にはいい返事を返すものだけれど、ここのあるじは、客のことなんかに頓着しない。そういう職人気質が骨の髄まで浸み込んでいるようだった。こういう男のいうことは、信用してみようという気になり、拳々服膺してみるのもおもしろいと考えた。

ぼくも負けじといった。

「鞍馬天狗は、自転車に乗っていたそうですね?」

「お客さん、どうしてそれを?」ときく。

「そうでしょ?」

「そうなんですなあ、じつは、――」といって、帽子をあげて、ぼくの顔をちらっと見た。

あるじは、チューブに空気を入れながら、大きなおならをした。ぼくとおなじぐらいの年恰好に見える。

「それで、鞍馬天狗が一日、250キロを走破した、なんていうんじゃないでしょうね?」

「お客さんの自転車なら、せいぜい50キロでしょうな」

「50キロですか、……。大仏次郎は、カタブツじゃなかったわけですね。鞍馬天狗を産み落としたんですから」

あるじは、それには返事をしないで、膨らんだチューブをタイヤのなかに詰め込んでいる。

店の広いたたきのような土間が彼が作業するプラットホームだ。掃除がいきとどいていて、チリひとつ落ちていない。都会で土のある土間を見るのは、たぶんはじめてだろう。

娘さんのような若い女性がひとりいる。

彼女は自転車を固定して、車輪をまわしている。

チェーンのたるみを確認しているようだ。50年配の女性客が、そばにしゃがんで、じっと彼女の手元を見つめている。

「外国の文学しかやっていなかった大仏次郎は、講談なんてものには、見向きもしなかったのに、どうして鞍馬天狗なんか書く気になったんですかね?」ときいてみた。

「あれは《ポケット》ですよ」といった。

「ポケット? ああ、雑誌の《ポケット》ですね?」

「ある人が、まげ物を書くようになったら、原稿を拝見しますといって、講談社かどこかの編集の男がやってきて、いったんだね」

この話をあとになってしらべてみた。

博文館の鈴木徳太郎という編集者だった。震災で日本橋にあった社屋が焼け、小石川戸崎町の日本家屋を編集部として使っていたときだった。

「そうですか。おくわしいですね。……」

「自分かい? くわしかないが、まあ好きでね、鞍馬天狗が」といって、何か彼女に指示を出していた。

そこへ来客があらわれ、この話は尻切れトンボになった。

しかし、よく見ると、あるじの顔が嵐寛寿郎の顔に見えた。

映画「鞍馬天狗」は、37作もあるのか、と思った。

シェイクスピアとおなじ数だ。もっとありそうだ。

昭和29年11月10号の「サンデー毎日」に《鞍馬天狗と三十年》という大仏次郎の文章が載っている。

それによると、大仏次郎は、戦争中、スマトラ島、サイパン島、インド洋上の島々を転々としていたと書かれている。ニコバル島には人家がひとつもなく、ロービンソン・クルーソーが漂流した島のように見えたという。その島で大仏次郎は、途中で知り合った海軍の主計少佐と話をする。

どんな話かというと、

「自分(主計少佐)は子供のころ、鞍馬天狗を読んでおりました」というのである。

作家は、「鞍馬天狗」を書くまえに、「角兵衛獅子」と「山嶽党奇談」を書いていた。

「そうです、《角兵衛獅子》から読みました。夢中になって、次号を待ったものです」という。

そのころ、大仏次郎より、吉川英治のほうが名前が売れていて、「杉作が出てくる《鞍馬天狗》は、吉川英治でしょ?」とみんながいう。そう思われていたようだった。この話を聞いた大仏次郎は、ひとりにやりとする。

彼は、表面には出たがらない作家だった。

 嵐寛寿郎の鞍馬天狗。

 

長谷川時雨という女流作家がいた。

彼女は明治12年生まれの先輩作家である。新聞も雑誌もつくっていた。

彼女は、大仏次郎とは仲良しで、「――《鞍馬天狗》は、大仏次郎です」と宣伝したものだから、たちまち「大仏次郎」の名がひろまった。

英字新聞を読んでいる鞍馬天狗というシーンをつくったのも、大仏次郎だった。もちろん鞍馬天狗は実在の人物ではないので、そう書いたところで、あながち間違いともいえない。それが大仏次郎のえらいところである。

これに感動したのが鶴見俊輔である。

鶴見俊輔は評論家であり、哲学者であり、大衆文化研究者、政治運動家でもあり、2015年に亡くなった。

大仏次郎は鎌倉にいたとき関東大震災に遭っている。

それを機に、大仏次郎は外務省を辞めた。――というよりも、なんとなく役人は自分には合わないと思っていたところ、ちょうど大震災が起きて、勤務に出かけるのにぐずぐずしていて、いっそ、辞めてしまおうとこころに決める。何か読物でも書けば、暮らしていけるだろうとかんたんに考えいた。

東京帝国大学の法科を出ているので、文学には向いていないと思っていた。

ところがヨーロッパの小説を読むにつれ、いっそのこと、その翻案めいた読物を書いて暮らそうか、と考える。

たとえば、エドガー・ポーの「ウイリアム・ウィルソン」を下敷きにして「隼(はやぶさ)の源次」という小説を書いた。

「鬼面の老女」という中編では、はじめて鞍馬天狗という男を登場させている。鞍馬天狗は物語の上では、まだ端役あつかいだ。――というよりも、作者は当初、鞍馬天狗はこれっきり登場させる気はなかったらしい。

ところが、

「この鞍馬天狗を主人公にして、ひとつ別のものを書いてはどうか」と提案したのが鈴木徳次郎だった。そして稀代の名作「鞍馬天狗」シリーズは、1924年から1965年まで書かれることになった。

大仏次郎の本名は、野尻清彦(のじりはるひこ)。

鎌倉の大仏の裏手に住んでいたので、ペンネームを大仏次郎とした。「隼(はやぶさ)の源次」は、はじめて大仏次郎の名で発表されている。鞍馬天狗は、謡曲の「鞍馬天狗」からとったと、のちに白状している(昭和29年「サンデー毎日」)。

こんなにヒットするとは本人も予想していなかったらしい。

「鞍馬天狗」の爆破的な売れ行きは、雑誌出版のすごみといっていいだろうか。次号を待つ読者のために、彼は30年間も書きつづけた。

そういうわけで、当初の時代背景は、慶應4年(1868年)ごろの話とされていたのだが、30年のシリーズとして書かれると、鞍馬天狗もかなりの年齢になるはずなのに、ものがたりの上では、だんだん若くなり、「物さしで測って6尺あった」と書かれるようになり、背も伸びた。

大仏次郎の晩年、テレビドラマの「鞍馬天狗」シリーズをつくるとき、主人公の高橋英樹を見て、彼はちょっと背が高すぎるともらしていたらしい。鞍馬天狗はもちろん美男子として描かれている。

映画のほうも大ヒットした。

ふるくは尾上松之助とか、坂東好太郎とか、島田正吾、東千代之介、市川雷蔵、そして喜劇役者の榎本健一までやっている。

――本名判明せず。倉田典膳と名乗りおることあり。身長五尺五寸ぐらい。中肉にして白皙、鼻筋とおり、目もと清し。一時洛南の松月院に潜伏しいたることあるも、その後行方不明。/不逞の徒中の元凶なり。/剣道は一刀流皆伝。猛悪。剽悍(「角兵衛獅子」)、と書かれている。

鞍馬天狗は、関東大震災や、昭和不況を乗り切る時代のヒーローだった。

「日本のノンフィクション作家の地位が低い。とても残念」

作家の大仏次郎は、かつてこういったという話が伝わっている。大仏次郎が亡くなって、その地位を高めてきた人が逝ってしまった。そういったのはノンフィクション作家の角田房子さんだった。

彼女が筆を執ったのは、毎日新聞の記者だった夫と、パリで暮らしたときからだったという。彼女はもうすでに40を過ぎていた。発表の場を得てから、自分が生きてきた戦争時代を、自分がいかに知らないか痛感したという。以来、昭和史を題材にしたノンフィクション作品を発表。過剰なレトリックに頼らず、事実をひとつひとつ積みあげて作品に結実させた。

「とにかく、徹底的にしらべる方でした」と、30年付き合ってきた元新潮社の編集者、伊藤喜和子氏さんは振り返る。

英語、フランス語も自在にあやつり、海外での取材もいとわなかったという。取材費はすべて自前。「自分が関心のあることだけ書くためだからでしょうか。2~3年に1作品。とても、元は取れなかったでしょう」と語っていたのが印象的だ。

1985年に「責任 ラバウルの将軍今村均」が、新田次郎文学賞を受賞。1895年に起きた日本の官憲による李朝王妃暗殺事件の闇をあばいた「閔妃暗殺」は、1988年、新潮学芸賞に輝いた。これらのノンフィクションをいつか読んだことがある。さ                    さて、大仏次郎といえば、もうひとつ思い出すことがある。

大仏次郎という作家は、若いころからずっと読んできたが、彼の「赤穂浪士」、「ドレフュス事件」、「帰郷」は有名だ。

なかでも大仏次郎の「赤穂浪士」は、ノンフィクション作品といっていいほど、感銘を受けた。昭和2年から東京日々新聞に連載したもので、斜陽化する武士道イデオロギーと、新興の町人の考えたかを対立させるという、おもしろい描き方をした小説である。元禄期の享楽的な文化を背景に、47士の行動を、政治のなかで描いている。

「忠臣蔵」は、「仮名手本」の時代から、「忠義の士」とされてきた。

その47士の物語である。これを大仏は、「義士」ではなく、たんなる浪人とすることで、忠臣愛国のイデオロギーを相対化した画期的な作品にした。

大仏次郎の「赤穂浪士」は、元禄時代を、新旧ふたつの価値観がぶつかり合っていた時代として描いた。

まず、ひとつ目の価値観は、幕閣の要人・柳澤出羽守吉保(でわのかみよしやす)や、吉良上野介(きらこうずけのすけ)に代表されるような、金を稼ぎまくり、どんどん出世するタイプの男で、利益追求型の人間たちである。

柳澤は、もともと先祖は無名で、家柄もあまりよくなかった。名家でさえつかみ得なかったような権勢を、彼らは手に入れた。その誇らしい理由が、おもしろい。

「時代の潮にたくみに棹(さお)さして、先走らず、遅れず、時流に合わせて進退を決める」というもの。

時代の一歩先が読める柳澤は、家格が高くて、朝廷にも通じている吉良上野介と縁をむすことで、さらに利益を得ようと画策する。

これにたいして、浅野内匠頭(たくみのかみ)は、「武門の伝統を守る、むかしからの水を求め」「清らか」で、秩序ある世界を守ろうとしている。内匠頭は、吉良から嫌がらせを受ける理由は、内匠頭は「権勢にこびて追従」しない「旧世界」の人間だからゆるせないとしている。「長いものには巻かれろ」式の権勢である。

しかし、その吉良上野介の考えは、内匠頭のいれるところとはならなかった。

「自分らが戦うべき敵は、吉良上野介ではない。もっと大きな根の深い」問題である、というのである。吉良のいじめに耐えかねた浅野内匠頭は、ついに、松の廊下で刃傷。幕府は、ケンカ両成敗の原則を無視して、浅野内匠頭を即日切腹させ、吉良には、何のおとがめもなしだった。不公平な処分をくだしたものである。

そのような処分がくだされた背景には、さっきの柳澤の意思がつよく働いたという。いうこときかぬ田舎ザムライには、「切腹が至当」と判断を下したのである。

――この大仏次郎の小説「赤穂浪士」がはじまったのは、昭和金融危機の真っ最中だった。大仏次郎という作家は、そこに目をつけた。

銀行のふくれあがる不良債権、当面の危機を先送りした政府は、こんどは、関東大地震によって壊滅的な金融恐慌に陥る。

手形の支払猶予、――つまり、モラトリアムを行なったり、――日本銀行による再割引きを行なったが、特定企業を優先する措置にかまけ、中小の企業には何も手を打たなかった。世相はますますの大恐慌に陥った。金融パニックは、歴史的な規模に広がった。

大仏は、恐慌で焼け太った財閥的な実利主義を、柳澤と吉良に見立て、その波に飲まれて悲惨な生活を余儀なくされた庶民を、内匠頭と47士の人間たちに見立てて物語を書いた。

幕府の思惑ひとつで、いともかんたんに国を奪われた赤穂藩は、大企業につぶされた中小企業であり、とつぜん失業して浪人になった赤穂藩士は、じっさい、町にあふれた失業者になった。

大石内蔵助が仇打ちの目的を、つぎのようにいう。

「われらの志すところだが、上野介はただ当面の手段にすぎない。敵はその背後のものである。亡君が天下に示そうとなされた御異議をたたき付けるのである」

大仏次郎は、「義士」を「浪士」に変えることで、当時、台頭しつつあった軍部の圧力に一石を投じようとしたのではないだろうか。

戦争へと向かう、時代の波を変えたかった。

だが、それもできなかった。

こうして過去をながめてみると、大仏次郎の書いた「赤穂浪士」は、一編の大衆小説としてはすまされないものを感じる。近年、ますますこうした浪人世相が反映し、ちまたを歩く人びとのなかにも、職をもとめて、足を棒にして歩いている青年もいることだろう。

――きょうはふと、そんなことを考えた。