詩人・S・リオットとは?。

 T・S・エリオット。

 

ぼくの個人的な話を少しします。

ぼくが大学3年のとき、シェイクスピアの「ソネット集(Sonnets)」を勉強していたとき、T・S・エリオットという詩人が亡くなりました。月刊誌「英語青年」では彼の追悼号として特集版を出していました。T・S・エリオットはすでにわれわれの読書の話題にもなっていた大詩人であり、英文科の学生であるなしにかかわらず、彼の何かを読んでいたものです。

しかしいま、英文学に興味のない方には、退屈な話でしょう。

そのころぼくは、シェイクスピアで頭がいっぱいだったので、エリオットを少しは読みましたが、「荒地(The Waste Land)」は、ぼくのレベルではあまりにもむずかしすぎて、まるで歯が立たなかったのをおぼえています。

本文もさることながら、脚注のほうもむずかしくて、しかも長ながと書かれていて、読解のきわめて困難な代物でした。よくこんな詩が書けたものだと、いっぽうでは感心していました。

――もう21世紀に入って20年になろうとしていますが、20世紀最大の詩人をひとりあげよといわれたら、やっぱりT・S・エリオットということになるだろうと思います。そういう意味で、「アメリカの詩人たち」と題するこの小文においても、どうしても彼を無視することができなくなりました。で、当初の計画を変えて、この大詩人について、あらためて少しおしゃべりし、以前書いた話を少し改訂してみたいと思います。

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まずちょっと断っておきますが、これから述べる文章は、19世紀アメリカの詩人の話ではなく、20世紀に活躍した詩人のひとりとして、少しつけ足しみたいな感じで、思いつくまま述べてみたいと思いますので、いわば番外編として読んでいただければ幸いです。

このT・S・エリオットをアメリカの詩人の仲間に入れるのには、ちょっと抵抗がないわけではありません。というのは、彼はアメリカ生まれですが、イギリスに帰化しているからです。

それどころか、のちには本物以上にイギリス紳士的なポーズを取って、「文学においては古典派、政治においては王党派、宗教においてはアングロ・カトリック(英国国教会派)」と公言して憚らなかったエリオットです。

このことばは、彼が愛読したフランスの右翼思想家シャルル・モラスによって貼られたレッテルを焼きなおしたもののようで、アメリカ人の側からすると、一種の祖国への裏切り行為みたいに働いたと見られても、ふしぎではないでしょう。とはいえ、これだけの大詩人・批評家ですから、現在では英米どちらの文学史にも大きく扱われていて、いわば二重国籍のような形になっています。

そういうわけでエリオットは、イギリスへの亡命者ということになります。――じっさいには、亡命というよりも、第1次世界大戦がはじまって、アメリカへ帰国するはずの船が急に出航できなくなって、いやいやイギリスにとどまったという経緯があります。が、のちにエリオットは、これを友人に打ち消しています。

ですから、ほんとうのところは分かりません。

現に彼はロンドンに住みつきますが、ロンドンへの亡命では大先輩にあたる小説家のヘンリー・ジェームズがいて、エリオットもまた、エズラ・パウンドやフロストにつづいてロンドンへの亡命を決意し、実行しました。

彼はイギリスではじめて詩人として名を成したことを考えますと、やはり当時のアメリカには、すぐれた詩人の一部を亡命に駆り立てるような、文化的土壌の貧弱さ、あるいは知的な偏狭さ、潤いのなさがあったのはほんとうのようです。

ただしその反面、英米のモダニズム運動の先頭に立ち、その魅力的な指導者となったのが、まさに、こうしたアメリカ渡りの亡命者たちだったという点も、見逃すことはできないでしょう。

のちにヘミングウェイやドス・パソス、スコット・フィッツジェラルド、ヘンリー・ミラー、ジェームズ・ボールドウィン、そして詩人リルケなどもパリにやってきて、パリを舞台にさまざまな活動を開始します。

――ちょっと蛇足になりますが、ヘミングウェイがパリへ渡ったのは22歳のときで、彼はパリを中心に6年間を過ごすことになります。彼にフランス行きをすすめたのは、あの小説「ワインズバーグ・オハイオ」を書いたシャーウッド・アンダーソンでした。アンダーソンは、ガートルード・スタイン女史を彼に紹介しています。

「あなたたちは、失われた世代だわ(a lost generation)」という有名なことばを彼らに贈ったのは、ご存じガートルード・スタイン女史です。アンダーソンといえばもうすでに一家をなした大家。22歳の無名の青年が、知られているとおりフランスでスタイン女史に巡り会うことができたのは、ほんとうに幸運というほかはありません。

パリでは、21歳のときから親交をふかめたS・フィッツジェラルドとの交信も絶えず、パリ仲間、あの「U・S・A」を書いたドス・パソスとも知り合い、そのころ無名に近かったT・S・エリオットとも会い、彼を取り巻く刺激的な連中には事欠かず、まことに満帆の風でふくらました船出であったと思います。

ヘミングウェイはそこで、「われらの時代」を出版し、「日はまた昇る」を出して、「武器よさらば」を起稿しています。そしてヘミングウェイは6年後にアメリカに帰国します。

「日はまた昇る」を出した前年、友人フィッツジェラルドはアメリカで「グレイト・ギャッツビー」を出し、ベストセラーになりました。

その2年後の1930年、ヘミングウェイと入れ替わりにパリへやってきたのは、ヘンリー・ミラーです。

ミラーもまたパリへ小説を書くためにやってきました。

けれども、ミラーの場合は、ちょっと事情が違います。彼はボヘミアンとしての煩悶を深めていきます。そうしてできあがったのが「北回帰線」です。これにはヘミングウェイのときのガートルード・スタイン女史とは似ても似つかぬフランスのアナイス・ニンという女流作家の序文がついて、パリで出版されます。

あの何ともいえない蛇のような粘着性のある文体をもつニンとの、まさに共生、蛇のようなコンパッションに満ちた生活をパリで送るはめになります。

しかし、ミラーの「北回帰線」がアナイス・ニンに認められ、ジョージ・オーウェルの推挙を得てデビューするまでには、そうとうの元手がかかっていると考えられます。

あの銀鱗きらめく卑語、隠語、学術用語うずまく文体は、これまでの文学的コンテクストの枠をはみ出すものでしたし、それよりも何よりも、ニンとオーウェルに認められることに大きな意味があったと思います。

それにしても、ヘンリー・ミラーという作家を育てた育ての親ともいうべき女性、それはパリへやってくるまえにニューヨークのダンスホールで出会ったジューンではなかったかと思われます。――くわしくは「黒い女の系譜」に書きましたので、読んでいただければありがたいのですが。

後年、ずっとたってから彼は「南回帰線」のなかで、ジューンを古代バビロニアの淫婦と呼び、謎めいた女性として描くことになります。その最終章は、圧巻です。

ところで、ジェームズ・ボールドウィンといえば、「白人へのブルース」で問題を起こした、1924年生まれの黒人作家。その彼も、人種差別のアメリカ社会から抜け出そうとしてパリへやってきます。

そこで「ジョバンニの部屋」を書き、「アナザー・カントリー」の想を練っています。それも第2次世界大戦中にです。「アナザー・カントリー」は、60年代に、野崎孝の訳で「もうひとつの国」と題されて出ていましたが、さいきんは、どうしたわけか絶版になってしまい、読まれなくなりました。

ボールドウィンはヘミングウェイよりも長く8年もパリにいました。

クリスチャン、黒人洗礼、人種差別、逃亡癖、性的抑圧、同性愛、白と黒のなじめない葛藤――彼の代表作「Another Country」とは、彼にいわせると地上の国ではなく、求め得ずして求めてやまない虚しい世界、それを書いたのがこの作品であるといいます。

――ぼくには、そのころのパリの町がどんなであったのか、とても興味がありました。大恐慌が起きたばかりの1930年代から戦後にかけて、みんなパリを目指していたように思います。パリは、ヨーロッパという地図でいうと真ん中に位置する国際都市。世界に先駆けて亡命文学がはやった文化の震源地、地球の中心と呼ばれていました。

《罪深き地球の中心たるあわれなる魂よ》といったのは、シェイクスピアでしたが、そのパリをまさにそう叫んだのは、プラハからやってきたリルケではなかったかと思います。リルケの「マルテの手記」には、そんなパリが描かれています。

この町へは、みんな死ぬためにやってくるように見える、といっています。1926年、ヘミングウェイが「日はまた昇る」を脱稿した年、リルケはバラの棘が指に刺さって、それがもとでパリでひとり客死します。

そこには、リルケ特有の呻吟があり、詩とも散文ともつかない、ひねりにひねった作者の気鬱な病める顔が浮かんでいます。

いっぽうヘミングウェイの場合は、パリでは大いに人生を楽しんだ数少ないひとりだったと思われます。パリは、彼にとって年をとることのない「いい女のような街」(街は女性名詞)だったし、パリは移動祝祭日のようだったと後年述べています。

パリで修業時代を過ごしたヘミングウェイにとって、そのパリの街々は、永遠の青春を感じさせるものだったでしょう。ずっとたってから、ふたたびそこへやってきたいという計画を立て、じっさい彼はそれを実行しました。

第2の故郷となるニューヨークのレストラン《21》で、ヘミングウェイは語ります。「ここへは、ちょっと立ち寄るだけなんだ。騒々しいだけだからね」と。

「過去、現在を通じて、いつどこで出会った娘よりもずば抜けて美しい女と、おれは出会った。まるで偶然に、意地わるくな」

そして、ボッティチェリの絵のような肌、「ヴィーナスの誕生」のような乳房の娘と《21》の調理場で寝てしまったといいます。2度目は階段の踊り場で、かなり激しくやってしまったというのです。

こういう話は、パパ・ヘミングウェイ一流のジョークとして知られています。

50歳になったばかりのころ、ニューヨークに出てきて、むかし懐かしいレストラン《21》で食事をしながら、そこに集まる取り巻き連中に得意げにそんな話をします。彼は、上等な酒がなくても、そこにダイキリさえあればご機嫌がいい。バーテンダーがつくるフローズン・ダイキリは、アルコールの味が殺してあり、飲むほどに氷河のクレバスの淵をスキーで滑降するような気分になるといいます。

ぼくは、ヘミングウェイの行状を知るたびに、ヘミングウェイという作家は、いつ小説なんか書くヒマがあったのだろうと思ってしまいました。彼のフィッシングは有名ですが、小説の文章を書く以上にわくわくさせるヘミングウェイの日常は、若いころ、パリでならした交友の延長だったのかも知れません。つき合いというものを大事にする人でした。

フランスの異国で、食べるものがなくなって「シェイクスピア書店」の主人の世話になりながら、結婚したばかりのヘミングウェイはみじめさをぐっと押し殺して、通信社のアルバイトの仕事にひたすら精を出し、この年若きライオンは、あの名作「日はまた昇る」を書いたのです。

ヘミングウェイという男が将来、大作家になろうなんて、だれにも思われていなかった時代。彼はさまざまな短編小説で、むかしを振り返るように、いろいろと描いています。

ちょっと話が脱線しましたが、アメリカの作家・詩人たちの多くはヨーロッパ、なかでもパリを目指してやってきました。ただ、T・S・エリオットだけは、ジェームズ・ジョイスがそうだったように、パリにちょっとだけ滞在し、ヨーロッパの文化、人間たちの縮図をほんの少し垣間見ただけで、ほとんどロンドンに居を構え、学校の教師や、銀行員をしながらこつこつと詩作に没頭します。

ちょっとだけ滞在したエリオットでしたが、ヘミングウェイともちゃんと会っています。エリオットとヘミングウェイ。――おもしろい取り合わせです。

そもそもエリオットは、ほとんど貴族に等しいような名門の子としてセントルイスに生まれ、ハーバード大学を卒業しました。それから1年間ソルボンヌ大学に学び、哲学者アンリ・ベルグソンの授業などを受けたあと、1911年、ハーバードの大学院に入って哲学を専攻します。

そこで、サンスクリット語を勉強したりして、インド哲学を研究し、日本の宗教学を確立した姉崎正治(嘲風)の仏教の講義にも出ていました。のちにイギリスの哲学者F・H・ブラッドレーについての論文を完成させるために奨学金を得て、1914年、オックスフォード大学のマートン・カレッジに留学します。

そのころ、ブラッドレー自身がマートンのフェローでしたから、彼はぜひともマートン・カレッジにいきたかったわけです。

そのころ、ロンドンでエズラ・パウンドに紹介されて、そこから文学史上に名高い交友がはじまります。パウンドというすぐれた詩人の話を少ししたいのですが、余計な話が長くなってしまっては困るので、いつか述べることにします。

エズラ・パウンドはすでに知られた詩人でした。エリオットはその翌年、知り合って間もないイギリス女性と結婚します。

しかしその妻となった女性は病身で、家庭は緊張や波風が絶えなかったようです。そして1916年、博士論文を書きあげます。

しかし口述試験を受けるために帰国するさい、第1次世界大戦のとばっちりを受けて、予定の船が出なかったため、もともとアメリカにも学問研究にも見きりをつけていたエリオットは、それをチャンスととらえ、そのままイギリスに居残ります。

――このエピソードは先に述べたとおりです。

というのは、パウンドの猛烈な売りこみのおかげで、エリオットは早くも詩人、批評家としてロンドンで頭角をあらわしていただけでなく、中学校の教師の職を得て、なんとか暮らしを立てていくことができるようになっていました。

パウンドの推薦で、エリオット初期の傑作「J・アルフレッド・プルーフロックの恋歌(The Love Song of J. Alfred Prufrock)」のほか、短詩数編が、詩誌「Poetry」に載りました。イギリスでも、「前奏曲集(The Preludes)」や「風の夜のラプソディー(Rhapsody on a Windy Night)」が前衛芸術雑誌「爆破(Blast)」に載ったりして、すでに知られていました。有力な週刊誌「ニュー・ステーツマン(The New Statesman)」その他の書評を担当したり、大学の公開講座の講師を勤めたりしました。

そして、1917年にロイズ銀行に入り、以降9年間、植民地外務部に1行員として勤めることになります。長身で猫背、いつも身なりの端正なこの銀行員は、判で押したように規則正しい勤務をつづけながら、1920年、「詩集(Poems)」を出版したのち、1922年には季刊誌「規準(Criterion)」を創刊して、そこに長詩「荒地(The Waste Land)」を発表し、画期的な成功をおさめます。

イギリスに帰化し、英国国教会に改宗したのは、1927年のことです。

こうしてまたたく間にイギリス文壇に絶大な尊敬と信頼を築いたエリオットは、詩、批評、劇、そして編集・出版などの分野でめざましい活躍をつづけます。

1920年代から50年代までのほぼ30年間は、まさにエリオットの時代と呼んでいいほどで、いまから思えばちょっとふしぎなくらい、彼は英米文学の創作と批評に圧倒的な影響をおよぼしました。

もっとも「荒地」以降のエリオットは、すでに触れたように「古典派、王党派、アングロ・カトリック」という自己規定にも見られるように、初期の詩とは打って変わった保守的な傾向、強い宗教的な信条を前面に押し出すようになります。その後の代表作としては、長詩「四つの四重奏曲(Four Quartets)」があげられるでしょう。