写真「肉のゆえに」の衝撃。

 

ぼくは中学生のころから、写真というものにあこがれていた。

北海道・北竜村恵岱別(えたいべつ)の田中の本家に、かなり年上の従弟がいて、長男・次男とも写真技術を身につけ、次男はある建設会社の写真班として一家をなした。

そういうこともあって、ぼくは中学生のころ、じぶんはカメラも持っていないころから、お兄さんの手ほどきで、写真技術というものを身につけた。本家の8畳の部屋が、夜、そのまま暗室になって、真っ暗いところでフィルム現像の技術を教え込まれた。だからぼくは、中学校の修学旅行に、お兄さんのジャバラ式のカメラを持って出かけた。

写真には特別の魔力があった。

現像液の入った金属製のトレイの上に屈みこんで、ゴムのついたピンセットでつまんだ印画紙に、だんだんとシロクロの像が浮かび上がってくる瞬間は、まるで魔術のようだった。

お兄さんは二眼レフか、ブローニーで撮っていた。ロクロク判という6×6センチのフィルムで、35ミリよりずっと迫力があったが、ぼくはこのロクロク判の真四角なフレームが好きになれなかった。どんなに撮っても、像を見て美しいとは感じられなかったからだ。

後年、――1962年、ぼくが大学生になり、東京・銀座で暮らしていたとき、ベトナムの戦局を報じた朝日新聞一面のあるコラムに、釘づけになった。

タイトルはいまでも覚えている。「骨肉の愛ゆえに」というタイトルだった。ある顔の黒いベトナム少年が写っている。ベトナムにも朝がきて、彼はズダ袋をかかえたまま路上のすみで眠り込んでいて、その遠くには行列を組む大勢の人びとが並んで食糧を求めている。そして、みんな少年を見ているという写真だった。

コラム記事は、親とはぐれたまま疲れ果て、食うことも忘れて眠り込んでいると書かれていた。

ぼくはそのときおもった。タイトルのいうとおり、まさにこれは「骨肉の愛ゆえ」の一枚だったからだ。記者は感情を押し殺し、事実をありのまま書かれているようだった。

一面トップ、全15段のうち、3段ぬきの縦長になったコラムだったが、写真の占める位置は、とても大きかった。記事はまるで写真のキャプションのように見えた。UPIだったかロイターだったか、通信社名はもう忘れてしまったが、この一枚は報道写真として、とても雄弁にそのときの情勢を語っているとおもった。

写真がとらえた歴史の瞬間、――まさに世界を変えた一枚の報道写真というものがあることを知った。それは一枚ではなく、数かぎりなくあって、20世紀は映像の世紀だったなとおもう。

ぼくは小説というフィールドで、つくりもののフィクション芸術というものを考えてきた。事実ではないものの、文学作品を通して、20世紀という時代をつかみ取ろうとしてきた。ある面では成功し、ある面では失敗し、何かが足りないという焦燥感に打たれた。小説はフィクションなのだ、ということをおもい知らされたのである。

だが、考えてみれば、事実を撮りつづけた写真報道は、多くを語ると同時に、人が生まれて、生きてきたある瞬間の出来事のなかでポツンと写されているにすぎない。彼が生きていようが、亡くなっていようが、そしてそこが戦場であろうが、日常の路上であろうが、スチール写真は、まるで死んでいるかのように動かない。動かないまま一枚の写真として完結している。

それが写真なのだ。だが、ほんとうにそうだろうか? とおもった。

札幌のあるデパートで写真展があり、ちょっとしたついでに覗く機会があって、それを見たときのことだった。

デパートのイベント会場というところは、いっぷう変わった雰囲気があり、せわしなく動きまわる人びとの足を、たちどころに止めてしまうというような信じがたいほど動かない空気をためていることがある。雨やどり気分に誘われて、会場の入口を覗いたら、数人の客が、やはりそぞろ気分でフレームのなかを覗きこんでおり、そのなかに、年はいうに80はすぎていようとおもわれる年恰好の、白髪まじりの婦人がいた。

やはりフレームのなかを覗きこんでいるのだったが、その人の顔が、どこかで見たことのある、おもい出そうにも思いいたらないというじれったいものをおぼえながら、ぼくは、その人と立ちならぶようにして、白い壁に視線を投げていた。

写真の作者は、ぼくの知らない年配の人の、ながの経歴をじゅうぶんに示す、作品はかなりふるい。カラー作品もあったが大半は白黒のスティールで、土門拳の「筑豊のこどもたち」や、木村伊兵衛のものなど、ひところの生活の信憑性というものを、めんめんと写しこんだものを偲ばせるような写真だった。

一枚々々が、別々のものでありながら、おなじ時代の匂いを放っており、なにか原質素朴な味わいがあって、作者によって写しこまれた人物たちの、その一瞬だけ動作を止めた姿が、ずいぶんぼくの記憶のなかにあるものと似た格好で写っているのだ。いずれも35ミリのモノクロームで撮られたらしい。

四ツ切り、全紙、全培大に引き伸ばされているものの、光量が足りないぶんだけレンズを開き、ひとつひとつの動作がにじんだようにぼけを出している写真が、柔らかい2号くらいのペーパーに焼きこんでいる。

フラッシュとか、ストロボとか、あるいは反射板とかをいっさい使わないで、贅沢な自然光のなかで撮られているらしい。

強烈なハイライト部はたくみな暗室技術でつよく押しをきかせており、人物の立居振舞いをバランスよくととのえている。そして一枚の写真に、おそらく相当の時間と労力を費やし、カメラの存在さえも忘れさせるほどの時間を彼らに惜しみなく与えたであろう。作者の力づよいワン・ショットが、そこに刻みこまれていた。

たった一枚の写真が、人をほのぼのとした気分にさせたり、小さな幸せをおもいおこさせたり、あるいはまた、たまらなく辟易させたり、怒りや悲しみに満ちた気分にさせたりする。

作者にとってその一枚は、そういう感情を表白するに足る一枚であって、なにか、失われた空白をたちまち塗りつぶしてしまわないともかぎらない威力とひらめきを与えることがある。……しかし、観覧者の足をたちどころに止めてしまうものがあるとしたら、それは感動とは異質なものをふくんでいることがある。婦人は、かなり時間をかけて、ゆっくりとながめていた。

リノリウムの床とパーティーションの間がすこしあいていて、仕切りの向こうから覗いている彼女の足も、ゆっくりとした動作だった。

ぼくは婦人の足をちらっとながめ、他の男客にまじって観覧するこの婦人の存在が、会場のなかで妙に浮いたものに感じられるのが不思議におもわれた。

なにか特別な注意をしきりに引いているらしいのだが、それが、何であるのかわからなかった。

――紺の縦縞模様のまえ裾が、地味な印象を与えていた。だが、それはけっして地味に失するというのではない。それはもう、一度も洋装をこころみることのなかった姿であり、そのどこにも調子の浮いたところがない。余計な気配りから解放された、ちょっと見過ごせない年季のいった動作だった。

ぼくは、床からのぞいている婦人の足を見ながら、どのあたりの写真をながめているかを想像していた。姉妹らしいふたりが写っている写真があり、姉のほうはすっかり大人びた化粧をしていて、なにか嫁入りまえの娘さかりのころ、たまたまそばにいる妹といっしょに撮られている、といったような作品だった。

たたみ敷きの広間で、脚を投げ出しておかっぱ頭の少女は、そばにきちんと座っている姉に何か話している。姉は和服姿だか、とくべつのものではない。おそらくふだん着のままなのだろう。その髪は美しく梳かれ、頭のうしろのほうに目も細い櫛をさしている。

縁側の板は、ところどころ朽ちたようになっていて、踏み石のうえに小さな下駄がそろえて置かれている。ふたりの姿の真後ろは、広間の戸が開け放たれて、ぼんやりとした陽だまりのなかに植え込みの影がにじんで見える。夏のことであるらしい。

この「二人の女」と題する作品は、1955年と記されていた。

これとならんで同年のものが数点あった。そこには女たちの姿はない。日焼けした男たちの姿ばかりだった。婦人はちょうどそのあたりを見つめているようだった。

ぼくはゆっくりとした動作で、フレームのなかの写真をながめた。そのときぼくは、「はっ」と気づいた。写真をながめる彼女は、もしかしたら、ぼくを育ててくれた彼女かもしれない! 写真のなかのその人は、彼女自身かもしれない! とおもった。

――ぼくにはこういう経験が、実際にあった。あのとき見た「二人の女」という写真はすばらしかった。一枚の写真が、ぼくの遠い過去を呼び覚ましてくれたのだった。「骨肉の愛ゆえに」。ベトナム少年の写真を、ぼくはふたたび想いだしたのである。婦人はロシア人だった。日本人になるために、彼女はきっと、ヘアを染めたのだ。