竜町「同自分史」を読んで。

 

吉植庄一郎。

 

きょう、北海道・北竜町の文化連盟から「合同自分史」(第10集)が1冊おくられてきた。冊子を見ると巻末に執筆者一覧表が付記されている。高齢な91歳から64歳までという、それなりに自分史を彩るにふさわしい年季の入った16名の人びとの名前が載っている。

じぶんの名前がいちばん最初に書かれている。

ぼくは高校を卒業して以来、すでに農業を離れてしまっている。北竜町に生まれて、76年がたってしまった。そのころの、じぶんの子供時代を書いた文章が、トップに掲載されている。「人はだれでも、子供時代は幸せであった」という文章である。

なんだか、気恥しいような気持ちがする。

だが、あらためて考えてみると、じぶんの子供時代は、仲間のみんなとおなじで、幸せな時代であったなとおもう。

いまも、そのころの話を描いた文章が、あちこちにある。これまで短編で書いた物語を検索してみると、ざっと320編中50編ほどある。読み返すことはないけれど、いずれもささやかな思い出にささえられて書いたものばかりだ。

じぶんも北竜町の大地に生まれたひとつの生命なら、自然界もいくたの生命を生み、あの苔に代表される地衣類だって、できることなら御免蒙りたい悪環境を乗り越えてきた仲間だ、とおもえてくる。それらの生命は、ぼくら以上に不遜な野望を実らせて生きてきたにちがいない。

野望の最大のものは、子孫を増やすことだったかもしれない。

それを可能にする時間がたっぷりあったし、自然の力によって、命を持たないはずの石までが、生きた植物へと変貌を遂げたかもしれない。それは、ウソかもしれないが、自然界までが、人間のように魅惑的な生を堪能してきただろう。――そうおもうと、この土地に育ち、ほぼ1世紀を生きぬく人びとの物語は、自然博物誌以上にわくわくする。

全作品を読んでみると、ほとんどの方はかつて農業に従事されていたか、もしくは現在も、農業にたずさわっておられる人のようだ。そこに描かれている物語は、農業人ならではの苦楽のともなう文章ばかりである。そこに出てくることばがなつかしい。ハロウ、バチ、鋤(すき)ということばは、農家にはなくてはならない道具だった。

想像してほしいことがある。じぶんの知らない、310万人もの戦没者を出した第2次世界大戦の戦時中を知る人びとのことばが、とくに胸に突き刺さる。そこに書かれている人たちは、けっして泣き言を書いていないのだ。それを「苦難」ということばを使って表現されているだけである。日露戦争の日本人の戦没者9万人にくらべると、どれほどの違いがあるか、おわかりいただけるものとおもう。

文章のなかには、俳句について書かれた人がいる。

北竜町文化連盟の会長さんをしている山岸正俊氏だ。

もとより北竜町は多くの俳句作家を輩出している。いまはもう亡くなられた方々も多いとおもわれる。じぶんも学生時代には俳句や短歌をつくっていた。だが、載録されている俳句は、すごい。

 

父の年輪もつ切株に鷹帰る     北 光星

 

ごたぶんにもれず、じぶんも父とともにあり、幼いころ、父の背中におぶさって恵岱別川を渡った。はじめて馬に乗ったとき以上に、ぼくは感動した。

そんなこと、あたりまえだろ!

と人はいうかもしれない。

いまでも記憶のなかにある父の背中は、そのころの世界のすべてのような気がした。じいさんの遺伝子を受け継いだ父は、長い眉毛をして、げじげじだった。かっこう悪いにきまっているが、その形質がいまのじぶんにちゃんとあらわれたのだ。

カラス麦で、ドーナツパンをつくってくれたばあさんの形質は、ふしぎなことにどこにもない。作品には「父の年輪」と書かれているが、せいぜい60年とか70年の年輪かもしれない。父親の亡くなった年齢と重ねたのだろう。

日本はむかしから森林大国である。なかでも神社仏閣は優に1000年以上建っている。なかでもヒノキは、日本と台湾でしか採れない。ヒノキは1000年を過ぎなければ伐らない。欅(けやき)の命は800年。そういう樹には神がやどるといわれた。

とうじ、大工の棟梁だった富井左衛門(富井直氏の父)もいたことから、明治26年、村をつくったころは自然林を伐採して、家々を建てたにちがいない。ぼくのじいさん田中源次郎も、むかしは高松の宮大工だった。北海道にわたってから大工稼業はやめたものの、大量の大工道具があり、すべて4男の父に受け継がれた。

父は親に似て、ヒマがあると大工仕事に精を出した。机、額縁、バーゴラ、ブランコなど、人からたのまれればなんでも機嫌よく造っていた。父のいちばん嬉しい時間だったようだ。

雪を掘り土を掘る頭さえ見えず   中村耕人

 

むかしアメリカ農法、オランダ農法が定着するまえは、ほとんどクワやスコップで、人の手で用を足していた。これはものすごいことなのだ。

55万坪におよぶ農地をつくるのに、最初の集落の仕事は、小屋がけで、人びとの住まう家づくりからはじまったとおもわれる。北海道にわたってから7年後、吉植庄一郎は会社をつくった。合資会社培本社である。

吉植庄一郎は、営農資金の必要性から、のちに「北海貯蓄銀行」をつくり、政治運動によって農民の地位を高めなければならないとして、のちに「北海新報」という新聞社をつくった。開墾地が完成してから千葉県選出の貴族院議員として国政にたずさわっている。北竜からの立候補が認められなかったからだ。

「北海貯蓄銀行」は、のちに「北海道拓殖銀行」となった。「北海新報」はのちに「北海道新聞」となった。

第1次世界大戦後、吉植庄一郎は、ヨーロッパ諸国、――主としてイギリス、ドイツ、フランスの食糧統制制度を視察し、政府の米穀専売案を提唱したことは知られている。この制度は、戦後までつづいた。

このようにして彼は農民議員の面目を高めたが、のちにこれが政府の米価対策となり、米の政府買い上げ制度となって、第2次大戦の米の統制に役立った。晩年、この経過と国民の食生活にたいする抱負を述懐する文書を残している。

この吉植庄一郎という先人の残した業績はきわめて大きい。

しかし、この偉大な先駆者の業績を伝える貴重な資料はほとんどない。この入地開拓時代は、明治26年から明治40年までつづく。北海道への移民を指導した人だった。

北竜村ができるまえ、そこはどのようなところだったのか、記録のない時代が、明治のはじめまでつづいた。新十津川から沼田にかけて、まったくの原生林におおわれ、アイヌの集落もなく、深川と旭川とのあいだにある神居古丹(かむいこたん)にアイヌの集落があったに過ぎない。

鬱蒼とした原生林。――昼も暗いという樹林に覆われ、地面はいちめんに枝葉が堆積した腐殖土で埋まり、平坦な平野には丈の高い荻や萱(かや)が密生して、その白い穂が花のように見えたという。そこは鹿や熊が多く、川岸の泥土に動物たちの足跡が残り、ヘビが泳いでいた。

川魚が多く、水鳥も豊富にいる。そういうところには鹿や熊が出た。

安政2年、幕府が蝦夷地を直轄するようになってから、蝦夷地の山や川の調査が行なわれた。その調査にあたったのが松浦武四郎(1818―1888年)である。

彼はその御用係りに任命された。松浦武四郎は幕府の命を受けて道路開拓の調査にあたり、苦心惨憺のすえにくまなく蝦夷地を跋渉(ばっしょう)し、そのときのくわしい模様は彼の「石狩日誌」に書かれた。

松浦武四郎は、安政丁己(1857年)4月5日、犬塚某と函館を出発してアイヌ人の案内をつれて各地をあるき、石狩川をさかのぼり、また下って雨竜川をさかのぼっている。そして5月12日、恵岱別川が雨竜川と合流するところで一泊している。

その日の日記にはこう書かれている。

「十日、雨を犯して下りベツハラに宿る。この間屋の傍らに藜(あかざ)多かりしが、今日は一葉も無き故、それを問ふに、この間より皆摘みて喰はせしと答へるなり。この一事にても土地の不自由なることしらるべし。夜我にシャク(白芷)といふ草の干したるに、桃花魚(アカハラ)を入れ熊の油を煮て振る舞ふ。屋のあたり蕨(わらび)多くありけるに却って是を喰はず。」

と書かれている。

日本人として、最初にやわらの地に入ったのは、彼ではなかっただろうか。とうじのアイヌ人の生活の模様をのぞき見ることができる。 日本第2の一級河川、石狩川とともに、大きな支流である恵岱別川は命の源泉だった。その恵岱別川に沿って、多くの集落がつくられた。

吉植庄一郎が喜びいさんで織原三津五郎などとともに探索したのは、恵岱別川の中流から上流にかけての一帯だった。――現在の三谷、ペンケ、恵岱別のあたりだ。三谷は、やわら市街にもっとも近いところで、じぶんの家があったところである。

とうじ、雨竜郡一帯は、明治22年に侯爵三条実美、侯爵菊亭修季、侯爵蜂須賀茂韶、伯爵大谷光瑩、子爵戸田康泰、子爵秋元与朝などの華族組合農場が土地貸下げをして占有していた。小作農民は、彼らの顔色をうかがって生きるしかなかった。その面積は、1億5000万坪。

そのために肥沃な土地として残されているところは、恵岱別川に沿ったほんの一部しかなかった。

吉植庄一郎は、雨竜の駅逓である後藤喜代治――後藤三男八の父――の家にぞうりを脱いで、そのころ最初の調査をしている。

そして恵岱別川に沿って上流にのぼり、付近の土質をしらべてみると、肥沃な沖積土だった。アカダマ、ヤチダモの原生林が昼も暗くそそり立っている。山裾には大きな蕗がカサのようにひろがり、その他めずらしい植物がたくさんあった。それらをいくつも採集した。

「食べるものは、たくさんあるぞ! このとおり、自然に自生した食べ物だ」

吉植庄一郎は、まずはじめに、両親の同意を得るために、北海道探検について多くの資料を広げ、ここに新天地を開拓することを事細かく述べた。そして、持ち帰った植物を見せた。

「原生林は思った以上に深い。だが、土地はここよりもずっと肥えている。河川はりっぱだ。水害の危険も少ない」

両親も彼の熱意に動かされ、ついに移住することをゆるした。そして、彼は学校の教師を辞めた。村の会合で北海道探検の模様を発表し、同志を募った。しかし彼の意見に賛同してくれる者はいなかった。

彼は身内や親戚の者たちをつぎつぎに説いてまわり、38戸の団体をむすぶことができた。そのうち、北海道へ分家独立を希望する独身者があらわれた。

独身者のあつかいをどうするか、彼は考えた。独身者といっても、12歳から18歳の屈強な男たち7名だった。彼らは農家の次男、3男である。彼らは分家をするしかない。しかし分家する土地がない。学業を終えた12歳までの男子と女子を移民団に組み入れることを決意した。

「場合によっては、船上で結婚式をあげてもいい」とさえ思っていた。

事実、船上で結婚式を挙げたカップルが1組いた。大工の富井左衛門の次男、富井直12歳である。彼はまだ子供だった。

このようにして、明治26年5月、開拓団一行は、村民多数に見送られて江戸川をくだり、行徳に出て、横浜から船で小樽に上陸し、北海道炭鉱鉄道㈱の汽車で無賃乗車をして、空知太駅に下車した。

とうじ、汽車は屋根のない無蓋車だったので、とちゅうで雨に降られ、全員びしょぬれになった。空知太以北は、まだ鉄道がなかった。徒歩で新十津川に到着すると、さらに徒歩で雨竜から恵岱別(えたいべつ)沿いに出た。この一行が到着するまえに、吉植庄一郎は小屋がけの先発隊をつれて雨竜に入っている。

そこで、先発隊の隊長後藤喜代治と会う。

すると、彼はいう。

「団長、いい話がある。……華族農場が解散になった。彼らの農地を貸下げしてもらおうじゃないですか! われわれの土地に使わしてもらおう。何か、智恵はないだろうか?」といった。

華族農場が解散になったというニュースは、吉植庄一郎にはとうぜんと思っていたので、そう驚かなかった。吉植はすでに北海道長官との面識もある。

さっそく北垣国道長官に会って、貸下げを願い出る。貸下げを願い出るにあたって、じっさいに調査をする必要があった。そこで、入植地をどこにするか、さっそく現地を踏査しようということになった。

先発隊の隊長後藤喜代治も、別の土地を選んだほうがいいと進言し、彼は団長を案内して、恵岱別川下流に出た。

出たところは、――現在はもう使われていないが、むかし札幌―沼田間の国鉄・札沼線が通っていたときに使われていた鉄橋のある場所だった。まえにきて調査したところよりもずっと広く、しかも草原地帯もあって、恵岱別川に沿って滋味がいっそう豊かなところだった。

                       ♪

吉植庄一郎は、目を見張った。

「ここに、村をつくるぞ!」と彼は叫んだ。

彼は27歳だった。

そこはだれも入地した形跡がない。鬱蒼とした原野がひろがり、ひばりが鳴き、唐松や柳の木や、イタドリの葉っぱが絨毯のようにひろがっている。熊笹がいたるところに生えていて、ところどころに青くぬけるような沼地があった。

「隊長、さっそくですが、名前をつけましょう」と富井左衛門がいった。

彼は一行のなかで、ただひとりの大工の棟梁だった。吉植は、もう決めていたらしい。

「和をもって貴しと為す。……そのとおりだ。聖徳太子の17条の憲法のいちばん最初に書かれていることばだ。われわれは和をもって、ここに橋頭堡を築く。その名を《やわら》とする」

みんなは、吉植庄一郎の考え抜いたこのことばを耳にすると、吟味し、うなずいた。《やわら》――ふるさとである千葉県印旛郡埜原村は、土地の人は「やわら」と発音していた。彼らのふるさとである印旛郡の「埜原(やわら)」をみんなは思い出したのだった。

「やわら。……いい名だ。われわれの村だ!」

そこで、先発隊の富井左衛門――富井直の父――や稲葉忠衛門たちが立ち木を伐採し、最初の小屋がけを行なった。

そこは恵岱別川から500メートルほど入りこんだところだった。

木立ちはあるものの、そこは草原の真ん中である。

そして、彼らはいくつかの渡船場をわたり、30キロもある悪路に生えるこぶしの花や、山桜に目を奪われながら、ついに恵岱別川をわたって小屋に入った。

この日は、明治26年5月17日だったことから、この日を北海道入植記念日とした。のちに、会社の建物がつくられ、「培本社」という組織が活動を本格的に開始すると、みんなはその周辺に家を建て、あつまってきた。

お互いに家族の声が聞こえる間隔をおいて家を建てた。それが、やわらの発祥の地となった。のちに神社をつくり、春祭日として、全員、農作業を休み、その日を祝ったのである。

そのヒナ型は、札幌農学校だった。農学校の校訓を重んじ、酒、たばこを禁じた。そして日曜日にはみんなを休ませた。それが話題になって、札幌農学校から視察におとずれている。

――もうはるか遠い話だが、わが村の生い立ちを考えるとき、吉植庄一郎という人物の大きさを知る。いままた苦難の一端をしのばせる俳句作品に触れ、往時へのおもいを、いや応なく募らせていくのである。