新たな後レジーム転換と本人。1

 

鈴木孝夫氏。

 

先日、現代文化会議で、鈴木孝夫氏(慶応義塾大学名誉教授)の話を聴いてきた。主に揺れうごく戦後の国語審議会の話である。だが、話の中身は、戦後のGHQの政策で、痛めつけられた日本語の話に終始し、日本語放棄論にはじまり、英語やフランス語を公用語にするという歴史の話で、それに強く反対する話であった。「日本語を世界に広める仕事をする若者を増やしたい」という話である。日本語を、世界語にしようという話である。いまさらながら、とうじのGHQの影響の大きさをおもい知らされた。

戦後レジームをつくったマッカーサーと吉田茂の話はだれでも知っているだろう。そもそも戦後レジームとは何か、《戦後的価値》とは何か、――。この年になると、そういう問題をいまさらむし返えそうとはおもわなくなる。それじゃいけないとおもって、ヨーコのすすめもあって出かけてみた。

昭和20年、敗戦の経験のある人たちも大勢きていた。2時間の話はもしろかった。ぼくは学生時代にもどったような気分になった。むずかしい話はともかく、戦後の再建時代を、ぼくは知らない。北海道のいなかに育ったぼくは、終戦のときは3つだった。

小学校にあがり、先生の授業をはじめて経験したとき、ぼくは緊張していた。先生の話を聞いて緊張していたのではなく、女の子とはじめて席をならべたので、それで緊張していた。先生も美しかった。

西東三鬼の「恐るべき君らの乳房夏来る」という句を想いだす。担任の先生のブラウスが真っ白で、唇には紅をつけていた。みんなもんぺを履いているときに、小学校の先生だけは、スカートに真っ白なブラウスを着ていて、子供ながらに、「恐るべき君らの乳房」だったなとおもう。

ぼくと席をならべたK子さんは、やわらのお寺の娘さんで、きれいな少女だった。そんなことを想いだしながら、ぼくは鈴木孝夫氏の話を聞いた。先生は2時間、立ったまま話をした。

日本の終戦は、アメリカの予想よりはるかに早かった。とつぜんの「ポツダム宣言の受託」だった。

45年6月7日にはドイツが降伏。

そのころ、米トルーマン大統領は同年6月には「オリンピック作戦(沖縄上陸)」を承認し、46年3月1日に「コロネット(関東平野)作戦」を開始し、46年11月15日に、終戦を想定していたが、じっさいの終戦はずっと早く、45年8月15日だった。このことはアメリカを少なからず驚かした。

なぜそういうことになったのか?

日本は、戦争をはじめたが、戦争をどう終わらせるか、ほとんどだれも考えなかった。それなのに、アメリカの予想より1年以上も早く終戦となった。かんたんにいえば、ポツダム宣言が功を奏したように見える。このポツダム宣言をめぐっては、まだ謎が多い。

この話はいつかぼくは書いている。

戦後になってみれば、連合軍、――それもほとんどアメリカ一国の占領で米の対日方針が大急ぎでつくられ、45年の11月になってはじめて初期の基本的指令がまとめられるというアメリカの後追い政策がつくられた。それはマッカーサーによる非軍事化と民主化政策の一環だった。

敗戦し、占領下におかれた日本は、アメリカのいいなりになっていた。憲法をつくれといわれれば、憲法をつくり、おれの話を聞けといわれれば、聞きたくもないマッカーサーの話を、吉田茂はしぶしぶ聞いたのである。それでも一国の宰相・吉田茂は、葉巻をくわえて、泰然としている。

そのときマッカーサーは、軍人としては優秀な人物だったけれど、ずいぶんと芝居かがったことをする男で、コーンパイプを愛用していた。「コーン」というのは、つまりトウモロコシの芯を繰り抜いてつくったもので、パイプのなかではきわめて安直な、安物だ。彼はこれを愛用していた。

そうはいっても、彼は敗戦国日本においては絶対的な権力者で、連合軍最高司令官だったので、安物は安物でも、彼のトレードマークになった。

吉田はマッカーサーの話の途中で、笑いはじめる。対話というよりは、独演会みたいなものだったからだろう。たいていの日本人は、「恐れ入りました」といって平伏しながら、うやうやしく拝聴するものだが、吉田はクスクス笑ったのである。

「何か、おかしいことをいったか?」とマッカーサーはきく。

「……いや、なに、そうではありません。あなたがあんまり歩きまわるので、ライオンが檻のなかにいるような気がして、おかしくなったんですよ」

マッカーサーは部屋のなかを歩きながらしゃべるクセがあって、何か、子供がむきになってしゃべっているみたいに見えたのだろう。

「日本政府の発表する数字、あれは実にいい加減なものじゃないか!」とマッカーサーは吉田に問い詰める。すると、

「もし戦前に、わが国の統計が正しい数字を出していれば、あんな戦争は起きなかったでしょうな。また、もし正しい数字を出しておれば、わが国が勝っていたでしょう」という。

こういわれて、マッカーサーも笑わずにはいられなかったのだろう。マッカーサーも、にやりと笑った。とうじの自由党では、選挙のときは、吉田総裁がいかに占領軍と丁々発止交渉しているかをウリにしていたそうだ。あるとき、マッカーサー元帥から葉巻をすすめられるが、吉田は、

「いや、元帥、ご好意はありがたいが、わたしはコレをやっておりますので」といって、手にしたのはなんと、日本製のたばこ「ひかり」だった。

「愛国心と負けじ魂をもつ総裁のもと、わが自由党は、日本の未来に責任を持って対処するのであります」

吉田も、マッカーサーに劣らずけっこう芝居かがったことをいうものである。マッカーサーはコーンパイプと同時に、葉巻も吸っていた。吉田が葉巻党であることをマッカーサーもよく知っていて、

「きみもどうかね?」とすすめる。そのすすめめ方が気に入らなかったのか、マッカーサーのすすめる葉巻を見て、

「そいつはマニラ産でしょう。わたしは、ハバナのもの以外は吸わないのですよ」といって断った。この場面をのちに、いろいろといわれることになる。

マッカーサーは親子二代ともフィリピンに関係していて、それを皮肉ったのかもしれない。オレは当時から高級とされるハバナ産を吸っているんだ、バカにするな! と吉田は、いいたかったのかも知れない。吉田茂周辺の本をのぞくと、こんなふうなやり取りが書かれている。

さて、ぼくは何をいいたいかというと、安倍総理には、大きな外交をしてほしいとおもうからだ。吉田茂とは比較できないにしろ、吉田は絶対権力者のまえでも、堂々としていたということ。吉田の参謀である白洲次郎も、マッカーサーを怒鳴りつけたほどの人物。何も、怒鳴ることはないのだが、トップが弱腰外交をすれば、いいことは何もない。国民を牽引していく立場なのだから、大いに自信をもって引っ張っていってもらいたいと、ぼくなどはおもう。

マッカーサーも、そういう吉田には一目おいていたとおもわれる。

マッカーサーに「日本は4等国だ!」といわれて、ある人は大いに敵愾心を燃やしたかもしれない。はじめて見る進駐しつつあるアメリカ兵を見て、子供たちは喜んだ。チューインガムをもらって、子供らは手を振っている。そばで見ている大人たちは無表情で、こころのなかでは、これからは英和辞典が要るかな、とおもったりしていたかもしれない。

明治期の知識人は、ぼくをつねに震撼させる。

とうじは、国家存亡の危機にあったので、列強に伍して対極的に判断する人びとが多くいた。国家はそういう逸材を育てようとした。ちかごろは、そういうことがないかわりに、知性の流失があちこちで見られる。

それでも、女性に参政権が与えられたのは戦後のことだった。婦人に参政権を与えようと企画したのはGHQで、そのなかでも、アメリカから日本に派遣されたGHQ勤務の、長期契約のアルバイトの若い女性だったから驚きだ。――この話は、今回の講演には出てこなかったが、――幸いにも、男ばかりの派遣要員のなかで、そういうことをいうのは彼女だけだったらしい。女性の問題は、やはり女性が担当すべきと判断され、彼女は日本国憲法起案の一担当者となる。

彼女は弁護士でもなければ、専門家でもない。

アメリカで職を探していた折りに見つけた、日本への派遣要員募集に応募してきたひとりの長期アルバイトの女性なのだ。なぜ日本を目指したかって? 彼女の父親が日本にいたからである。アメリカという国は、そういう国なんだとぼくはおもった。

それがマッカーサー元帥に起案提出して受理され、吉田茂首相に国会を開かせ、賛成多数で可決されると、日本国憲法にはじめて女性の参政権がうたわれた。まことにダイナミックな展開・成立である。

こういうことがなければ、日本はもしかすれば、まだ時代に立ち遅れていたかもしれない。われわれは、こういう国と戦争したのである。人間の上下のない国、――それは少しいい過ぎとしても、――アメリカの民主主義というものをまざまざと見せつけられた出来事だったなとおもう。

しかしこの話は、もう遠い過去の話である。

「戦後」ということばは、日本でしか使われない。70年たっても日本人は「戦後」意識を引きずっているのである。

1945年(昭和20年)8月14日、日本政府は、ポツダム宣言の受諾を駐スイスおよびスウェーデンの日本公使館経由で連合国側に通告した。このことは翌8月15日に玉音放送で全国民に発表された。

そして、9月2日、東京湾内に停泊する米戦艦ミズーリの甲板で、日本政府全権の重光葵と大本営全権の梅津美治郎、および連合各国代表が、宣言の条項の誠実な履行等を定めた降伏文書「休戦協定」に調印した。これによって、宣言は、はじめて法的効力を持つにいたった。しかし、一般には、ポツダム宣言の受諾は、のちに「無条件降伏」と書かれるようになる。

無条件降伏?

ポツダム宣言には「我々の条件は以下のごとし」と書かれていて、この条件には、陸、海軍の無条件武装解除が書かれていて、ほかのどこにも無条件降伏とは記されていない。

ところがマッカーサーが来日すると、「日本政府と交渉する必要はない」という建前を押し通し、日本のマスコミは抑えられ、占領軍のいいままになる識者も大勢でてきて、「日本は無条件降伏した」という受け止め方をされてきた。

これは、まったくのウソである。

同時通訳者の西山千氏は、「通訳術と私」という本のなかで、このようにいっている。《大戦末期、ポツダム宣言が発表され、日本の無条件降伏を要求してきた》と。西山千氏がほんとうにポツダム宣言の原文を読まれていたなら、「無条件降伏」ということばは出てこないはずである。

ポツダム宣言をめぐって、日本政府は、どういう対応をしたかといえば、鈴木貫太郎首相は、「静観したい」という意味のことをのべたとされている。これでは弱腰と見られるというので、「黙殺する」に決定したと書かれている。これが、のちに大きな問題に発展した。

なぜなら、連合国側では、この「黙殺」をignore、つまり「無視する」ということばに翻訳したとすれば、連合国側が態度を硬化させたことが理解できる。しかし、もしもrejectという訳語をあててしまったなら、これは「拒否」以外のなにものでもなく、もっと誤解されたかもしれない。日本側の意図は、首相がのべた「静観したい」という意味なのだから、訳語は明らかにまちがっている。

こんな誤訳を、だれがしたのかということだが、鳥飼玖美子氏の「歴史をかえた誤訳」(新潮文庫、平成16年)という本によれば、日本側だったようだと書かれ、《付記》に、「黙殺」をignoreと訳したのは、同盟通信社で、当時、海外局長をしていた長谷川才次氏が深く関わっていたらしいと書かれている。

この「黙殺」を、連合国側がもしもignoreと受け取れば、「黙殺」のニュアンスがよくつかめずに、けっきょく、日本側はこれを受け入れないと突っぱねたかたちに誤解されてしまったらしいというわけである。まことは残念なことである。

鈴木貫太郎は戦後、この一事はのちのちにいたるまで、「余のまことに遺憾と思う点である」と書いている。