「人はだれでも、供時代はせであった」(改訂

 

先日、北海道・北竜町の山下好晴さんからおたよりをいただいた。北竜町文学振興会の副会長さんからのメッセージである。じぶんの父と母の話が出てくる。なつかしいと書かれている。そりゃあそうだろうとおもう。ぼくらが少年だったころの話だ。

で、先年、同振興会発行の記念誌に、自分史のようなものを書いてほしいと頼まれ、ぼくは「人はだれでも、子供時代は幸せであった」という原稿を書いて送った。書いて送ったことはおぼえているのに、何を書いたのかおもい出さなかった。いま、その記事を見つけたので、以下、転載する。

きょうは雨。――ぼくはふと、おもい出す歌がある。

 

雨に濡れし夜汽車の窓に

映りたる

山間の町のともしびの色

石川啄木

 

ぼくがまだ子供のころ、北海道の長万部の駅「静狩(しずかり)」というところに行った。遠いむかしの風景がおもい出される。さびしいところだ。父と出かけた見知らぬ村。その日も冷たい雨が降っていた。

それでも、子供のころの思い出は、だれにとってもきらきら輝いて見えるようだ。

アガサ・クリスティは、自叙伝の冒頭に、「人はだれでも、子供時代は幸せであった」と書かれている。だが、彼女はそうではなかったと書いている。

ぼくの場合、ごたぶんにもれず、子供時代は幸せなほうだったなとおもっている。幸せとはどういうものか、何も知らなかったのに――。

親の世代、おじいさんの世代を考えると、ぼくは戦時中に生まれてはいるのだが、戦争の記憶はほとんどない。子供のころやわらの写真館で撮った写真を見ると、飛行機の絵柄のある大きなボタンのある洋服を着て写っている。まだ戦時中であることを物語ってはいるのだが、ほとんどそのころの記憶がない。

写真は、だれか知らない女の人といっしょに写っている。のちにわかったところによれば、ぼくを育ててくれた子守りのお姉さんだった。彼女は16か17くらいに見える。

 

高校1年生のころのじぶん。

毎年春先になると、北海道のいなかの家のまわりは、雪が解けて、パドックが泥んこになり、おまけに雨が降ると、でこぼこ道の堅い雪が半分解けて、黒ずんだミートローフみたいにごろんとした姿になる。学校の行き帰り、それに脚をすくわれて、女の子が転んだりした。それを見た仲間のだれかが大声をあげて、何かいっていた。

道の真ん中の、馬糞の乗った雪はなかなか解けない。

ごろんとした塊が一列になって、馬の背のように盛り上がっているのだ。いつまでも解けずにいる。雨でいくぶんかは解けても、その下にある雪は信じられないくらい堅くしまっていて、人びとの脚のじゃまをした。

ぼくが育った北海道・北竜村は、これといった特徴のない寒村だが、大人たちは、ぼくら子供を見て「わらす」といった。村には「わらす」がいっぱいいた。農家には次男、3男、4男、5男、……よくもこんなに子供らが生まれたものだとおもうほど、いっぱいいた。長男をのぞいて、みんな学校を出ると、村から出ていく。そういうふうに運命づけられていたかのように。

ぼくのすぐ下の弟とは3つ年が離れていたが、村の人たちは、「おんぢ、泣いてるぞ!」といって、ぼくに注意した。

ぼくは弟のめんどうをみていたという確かな記憶はないのだが、何かしていると、いつもそばに弟がいた。いちばん下の弟はまだ赤ん坊で、子守りのお姉ちゃんの背中におぶさっていた。

春の雪解けのころの三谷街道を、まっすぐに歩いていくと、恵岱別にたどり着く。タオルで頬かむりをして帽子をかぶり、日に焼けた青年たちが、腰に幅ひろの皮のベルトを締めて馬を追っている。これを「馬車追い」といって、北海道独特の光景だろう。女性たちは、角巻を頭から羽織って、顔を隠すようにして道を歩く。

一本道で、馬車同士がすれ違うとき、一頭の馬は、道を外れて待っている。これが北海道の馬追いのやり方だ。荷物を満載した馬に、道をゆずるのだ。

恵岱別には同級生がふたりいた。

ひとりは男の子で、もうひとりは女の子だった。女の子とは口をきいたこともなかったが、男の子とは仲良しになり、中学生になっておなじ学校へ通った。

次男、3男坊は、長男のお下がりを着ているか、みんなツギのあたった服を使いまわしして着ていた。ボロを着ていても、一向に平気だった。暮らしは楽ではなかったが、みんな赤い顔をして元気に振る舞っていた。

赤ん坊が生まれて亡くなったことはなかったし、幼くして病気になった者もいなかった。いたって元気な子供たちばかりだった。同級のMくんとは、スキーをやっていっしょによく遊んだ。

恵岱別の街道から入ると、そこには恵岱別川が流れていて、その橋をわたると、営林署で働くおじさんの家があった。桂の沢は狭い土地で、山間(やまあい)にできたわずかばかりの土地があり、その山裾にへばりつくようにして開墾した田畑を耕していた。

おじさんは、営林署に勤務していて、毎日山の仕事に追われていた。

ぼくは父とともに、ときどきその家に行き、そこから山に分け入ったところにある木々を伐採した。伐採の仕事は冬の仕事だ。雪が解けはじめると、もう山の仕事はなくなる。伐採した丸太をバチと呼ばれるソリに積んで、馬で運ぶ。雪がなくなると、もうそういう山の仕事はなくなり、田んぼの仕事に追われる。温床をつくって、稲の苗を育てる仕事がはじまる。

そのころは、冬休みも終わり、ぼくらは学校に通学し、新学期を迎える。

新学期を迎えると、生徒らの組み換えがおこなわれ、3教室のメンバーが入れ替わる。でもふしぎなことに、おなじ「田中姓」を名乗る親戚の子とはおなじクラスになったことがない。おなじクラスにおなじ田中姓の生徒がふたりも3人もいては、めんどうだということなのだろうか。

女の子のТ子ちゃんは、中学校を出るとすぐ結婚した。人生のスタートは、ぼくらよりずっと早かった。そしてすぐ子供が生まれ、彼女の家でご飯をご馳走になったとき、彼女はすっごく大人びた女に見えた。

従妹の男の子は、じきに札幌の水産加工会社の店で働きはじめ、もう付き合いはなくなった。恵岱別の親戚の人間たちは、そうして中学を出ると、社会人になり、大人の世界へと旅立ってしまった。ぼくだけが村の高校へ通い、農業の後継者としての勉強をはじめた。

そのうちに、ぼくは、これからの北海道の農業ということを考えるようになり、漠然とだが、とてつもない合理化がはじまるらしいことを知り、これからの農業後継者の苦難をおもい知らされた。いままでのような農業は、早晩すたれていく。ついていけなくなるだろうと考えた。

そのころ、ぼくは大人びたことを考えるようになった。

農業人は、経済に明るくなければやっていけない、ということだった。

何をおいても、農業の生産性をどうやって高めていくか、戦後日本の農業が直面した近代化農業改革の路線は、大人たちが考えるほど、生易しいものではないということを、だんだん知るようになった。

農業高校で知り得た知識は、そういう不安をあおるようなものばかりだった。ちょうどそのころ、ぼくはある先人の物語を知った。北竜村をつくった吉植庄一郎という人物の存在である。彼が生きた時代は、疾風怒濤の時代で、そういうおりに、千葉県から移民団を結成して、北海道に上陸し、このやわらに橋頭保を築いた。

それが北竜村である。

そういうことをはじめて知ったぼくは、知り得るかぎりの史料をあつめ、吉植庄一郎という人物を知りたいと願った。ところが、どこを探しても、だれにきいても、吉植庄一郎の人物を正確に描いている人には出会わなかった。これはどうしたことなのだろうと考えた。北海道に新天地を求めてやってきた先人たちの足跡が、ほとんどわかっていないことに驚いた。

これからの農業人は無知であってはならない、言論を活発にして、アメリカ農法、オランダ農法を研究する必要がある。そのために吉植庄一郎は、言論の場である新聞社を創設した。そして、これからの農業人は、経済的にも他の産業同様に、資金をみずから投資して、そこからインカムをはからなければならないとして、彼は、貯蓄銀行をつくったのである。

北竜村をつくった人びとは、村をつくると同時に、経済的にも言論的にも、他の産業に敗けないよう自分たちの足腰を強くした。

ぼくは高校を卒業するころ、このままの農業に見切りをつけた。そういうことよりも、もっとやりたいことがあった。昭和30年代の日本は、あきらかに戦後の新しい改革路線を歩みはじめていた。

国は工業立国を標榜し、北海道やその他の地方にたむろする次男、3男、4男や、若い女性労働者たちを、工業の先兵にした。戦争で男たちの人口は激減したけれど、都市部を離れた地方には、食うや食わずの将来の先兵たちがうようよいた。それが奇跡の経済復興を成し遂げることのできた最大の要因である。

ぼくはそういう先兵になりそこねたが、大学に入り、何をやっても成功する奇跡の時代にめぐりあった。それから50年、日本はいちども戦争せず、ひとりの人間の命を失うこともなく、国土を少しも失うことなく、エレクトロニクス産業の成長ある市場をおこし、日本経済は世界を席巻した。

この時代は、だれにとっても、いい時代だったとおもいたい。こうして70代のぼくが、寧日の日々を送っていられたのは、まことに奇跡のようにおもうことがある。このような時代は、父や祖父の時代にはなかった。いま、国は幾多の問題を抱え、頭を悩ませているけれど、戦争とはくらべようもない魅力ある問題である。

ぼくの子供時代は、いま、いろいろとおもい出され、いつでも好きなときに、引き綱のようにたぐり寄せることができる。

「人はだれでも、子供時代は幸せであった」。

もちろん、そうでない人たちもたくさんいる。けれども、オバマ大統領が広島で17分間もつづく宣言をしているように、「71年前の雲一つない朝、死が空から降りてきた。一閃の光と炎の壁が一つの街を丸ごと飲みつくし、人類は人類絶滅の手段を手にしたことを示した」という宣言、それは、あくまで抽象的なものだったが、現職の米大統領が広島にやってきて、このような宣言をしたことは、不寛容の時代の終わりを告げるものだった。

文明の方向転換のスピーチは、あくまで理想論にすぎないものだが、あきらかに時代の転換を予想するものだった。

ひるがえって、ぼくらは戦争のない、まことにいい時代を70年も過ごしてきたのである。多くの人びとは、過去よりも、すべて現在時制でものごとを考えようとする。現在時制でものごとにケリをつけようとする。いまを生きている人びとは過去を背負って生きている。だが、過去の恨みからは、何も生まれないことをおもい知らされるのである。

そういうことを考えると、ヘブライ大学のベン・シロニー教授もいっているように、日本人は、恥を重んじ、過去を水に流すことのできる国民であることを知るばかりである。日本人は、そういうことのできる成熟した国民なのだという。

不幸のなかでも、日本人は「人はだれでも、子供時代は幸せであった」といい切ることのできる人びとなのかもしれない。