山幹夫先生との時間。

 

神山幹夫先生。

 

つい、きのうのことです。

元コロンビア大学教授の神山幹夫先生が来日されたのは、1週間ほどまえですが、京都、名古屋でのアフリカの医療活動の会合に出られ、都内では、出版社との会合などにも出席されて、会うのは、きのうになりました。

で、きのうも下北沢で、神山幹夫先生と5時間ほどおしゃべりをしたというわけです。

去年の5月は、初対面で、7時間も話し込みました。

先生は、コロンビア大学大学院で30年間、あるいはそれ以上、教鞭をとっておられた先生だけあって、お話は聴いているたけでもおもしろく、じつに、あっという間の5時間でした。

そのときにメモを執った紙をひろげていますが、お話の中身は多岐にわたり、スワヒリ語の話から、サイデンステッカーさん、ドナルド・キーンさん、政治学者のジェラルド・カーティスさんや、ジャン・ジュネの話、川田順さんの老いらくの恋の話、高校時代は大山定一さんからドイツ語を学んだという話、東京大学受験はドイツ語で受けた話、桑原武夫氏の娘さんの死、小説「脂肪の塊」や「異邦人」の話、「オリエンタリズム」を提唱したエドワード・サイードの話におよび、ぼくの頭のなかはくるくるまわり、メモもついていけなくなりました。めったに聴けない貴重な講義を聴いている心地がしたものです。

「ジュネが亡くなったのはモロッコではなくパリです。ガンで死期が近づいたジュネはパリへ死にに帰り、病院にも行かず、彼の定宿であるホテル・ジャックスに滞在し、4月15日床に落ちて死んでいるのを発見されました。そして、友人たちによりモロッコに運ばれ、Larache のスペイン人墓地に葬られました。埋葬にはMohamed Choukri も立ち会いました。――そのおなじ、1986年4月14日には、ボーヴォワールも亡くなっているんですよ」といいます。

報道では、ジャン・ジュネの死は「4月15日」と書かれていますが、ほんとうは14日に亡くなったらしいという話を聴きました。

そういうジャン・ジュネの死をめぐる話を聴き、彼の生涯を聴き、天涯孤児のジュネは、一般の子どものように欲しいものに手をのばすと、それが盗みとなってしまう境遇に育ったといいます。

物乞いや、男娼をしつつ各地を放浪。そして刑務所を転々としながら小説を書いたというのです。どこで作家修行をしたのだろうとおもいます。

10回目の有罪判決を受け、終身禁固刑となるころ、ジャン・コクトーによって延期になったという話が知られています。ぼくは、コクトー話や、サルトルの「聖ジュネ」などを読んで、彼のことを知りました。

ジャン・コクトーは、小説は「恐るべき子供たち」のほか、3作しか書いていないそうです。「恐るべき子供たち」は、ぼくは、ちょっとだけ講義を受けた鈴木力衛氏の翻訳で読みました。

そういえば、フランス15世紀に活躍したフランソワ・ヴィヨンもまた、あやまって殺人を犯し、強盗団にはいって窃盗をくりかえし、街角では、吟遊詩人として鳴らしたという詩人のことがわすれられません。映画「天井桟敷の人びと」にも、殺人や窃盗をくりかえすどろぼう詩人が登場していたな、とおもいます。

ジャン・ジュネの「ブレストの乱暴者」という映画作品のあったことをおもい出します。ぼくは、いまは亡き澁澤瀧彦訳で読みました。

なかでもレイモン・ラディゲは、わずか20年の生涯だったけれど、名作「肉体の悪魔」を書きました。すごい小説です。

「三日後に、ぼくは神の兵隊に銃殺される!」といって、腸チフスで20歳で夭折しました。アルチュール・ランボーの再来とさわがれました。そのなかに出てくるマルトのセリフがわすれられません。

「わたし、あの人と幸わせであるよりは、あんたと不幸わせなほうがましだわ」というセリフ。――その話は、先生にはいいませんでしたが、ぼくは先生の話を聴きながら、そんなことをちょっと想いだしていました。

神山幹夫先生は82歳。――ごじぶんでそういっておられましたが、見るからにはつらつとしておられて、ぎっしり詰まった先生の人生が、とても輝かしいものに見えました。

見えただけでなく、そりゃあすばらしいものにおもえました。

昨夜、草加のマンションについたのは、午後11時50分でした。

それからカメラにおさめた写真をアップし、パソコンに取り込み、しばし、ぼくは空想しました。

おしまいのほうで、先生は「捏造の科学者」の話をなさった。――たぶん、「捏造の科学者――STAP細胞事件」(須田桃子、2015年)という本の話かもしれませんが、――科学者としての神山幹夫先生のくわしい話を聴きましたが、むずかしすぎて、ぼくはただ聴いているだけでした。

ヨーコが起きてきて、「お父さん、いたの?」といいます。

それから、温かいコーンスープを飲み、真夜中の寝室で、30分くらい妻と話し込みました。

「先生はお元気だったの?」とききます。元気だったよ、というと、

「よかったじゃない。そうか煎餅でも、持っていけばよかったわね」といいます。それからぼくは、本も読まず、静かに眠りに落ちました。