ある宴。1

 

 

 

その日は早朝から雨が降っていたが、8時をすぎるころ、マンションの樹木をかすめて太陽の光がベランダをきらきら濡らした。

リビングルームの東側のカーテンが、赤く染まった。

雨に濡れたベランダにネコが座っていた。

ナーガのような大きなネコではなく、赤毛のアンみたいな毛の色をしたネコだった。気持ちよさそうに太陽に当たって毛づくろいをしていた。

和室で眠った田原は、6時ごろに起きて新聞を読んだ。それからコーヒーを飲んでベランダに出、ネコの背中をなでた。どこもかしこも眩しい光の粒が跳ねまわっていた。路面の雨粒が、東の空から照射するつよい陽射しを受けて、湯気を立てていた。

きのうの深夜、京都からもどってきた息子の奨(しょう)はまだ眠っている。

田原はシャワーを浴びてひげを剃ると、キッチンに立った。大量に買ったピーマンを取りだすと、水洗いしてから、肉厚のピーマンの皮を削いでタネを取った。そして、木札(きふだ)くらいの大きさに切ると、ピーマンの皮が焦げるまで焼いた。

焼きピーマンのマリネみたいなものをつくろうとおもっていた。

焼きあがると、それをバットにならべてからオリーブ油をかけて沁みこませた。それをいくつもつくった。14人分をつくるのにちょっと骨が折れた。

午後になると、オリーブ油が沁みて、ちょうど食べごろになるだろう。

田原の朝食は、ポテトのサラダとご飯だった。それに焼きタマゴとトマトのスライス。ポテトはジャガイモをスライスしてから茹で、熱いうちに酢と油をからめたものだった。

田原は料理にも興味を持ってはいたけれど、本で知識をたくわえるだけでは気がすまなかった。じっさいにやってみたくなった。

田原には圧倒的に時間が足りなかった。時間があればあったで、どこかに出かけて人に会うか、コンサートに出かけるか、本を読むか、原稿を書くかしていた。息子みたいに一日じゅう眠って休日を過ごすということはなかった。

 

「スパゲッティ食べよう」を企画したのは、この写真のころから数年後だった。左がじぶん。

まだ若かったのです。右の部長とウマが合った。二人とも音楽を聴いて楽しんでいた。

 

午後になって、平松がやってきた。

きょうのパーティの企画《スパゲッティを食べよう》をはじめにいいだしたのは、仲間の平松だった。彼は料理の達人だった。すくなくとも田原にはそうおもえた。

「まあ、けいきづけに一杯やろうよ」といって、田原はドイツ・ワインを持ってきて、グラスに注いだ。

「きょうは、何人あつまる予定?」と、平松がきいた。

「13人、いやひょっとすると14人になるかもしれない」

「きょうは、このあいだより多いんだね。つくるほうはたいへんだな。雨はあがったし、みんな早めにくるかもしれんな」

「つくるほうは、おれも手伝うよ」

「まあ、田原さんは、見ててくださいよ。びっくりさせてやるからさ。ところで、おれ、寝ていないから、途中でぶったおれるかもしれんな。ぶったおれたら、寝ていいか?」と、平松はいった。

額に汗をかいていた。エアコンの冷房を強めにしてから、田原はキッチンのほうへいった。

「寝たいときは、息子の部屋を提供するよ。布団は敷いておくから」

「ありがとう」

 平松は夜勤を終えて、そのままやってきた。真理子でも早めにきてくれたら、平松のアシスタントに使おうと田原は考えていた。そこでチャイムが鳴った。都合のいいことに真理子だった。

「だれ?」

「平松さんのしらない女性だよ。近所にいる子らしい」

「近所? どこで見つけたんだい、はははっ」といって、平松は笑った。

 真理子が入ってきて、「おはようございます」とあいさつした。ソフアに腰かけてワインを飲んでいた平松は飛びあがってあいさつをし、「平松です」といって握手をした。

「早いんですね」と、平松がいった。

「わたしは、このちかくに住んでいますから、……」と、真理子はいった。

「田原さん、ちょっと」と、平松はいった。

「あれ、取ったほうがいいんじゃないか?」といって、リビングルームのエアコンの下にある白いフレームに入ったモノクロ写真を指さしていった。女性の後ろ姿のヌード写真だった。

「これっ、恥ずかしい! 田原はさーん」と、真理子がいった。

「真理子さんなの? この写真」と、平松が彼女にきいた。

「そうなんですよ。みんなに見られたら恥ずかしいじゃありませんか。田原さーん」

「わからないよ。顔は写ってないから」と、田原はいった。

「そういえばわかりませんね。はははっ! ……でも、みんな気にするよ。田原さんが写真やってることぐらいは、みんなしってることだし、……」

「みんなに見せてやろう。――そのパネルは、真理子へのプレゼントなんだ」

「田原さんらしいな」といって、平松はソフアに座った。真理子はキッチンのほうにやってきて、「わたしにいただけるんですか? 嬉しいです」といった。

「きょうのパーティが終わるまでは、みんなに見せていいよね?」

「ええ、仕方ないわ。……わたしもお手伝います」と、真理子はいった。

「あの、平松さんがきょうのシェフです」といった。ここに立つのは平松健治だと説明してから、真理子にそのアシスタントをやってもらいたいといった。

「ええ、喜んでやらせていただきます」と、真理子はいった。

「おれ、朝食、まだ食べていないんだ」と、平松がいった。

「そうなのか。何か食べるかい?」

「いや、スパゲッティを食べるからさ、だいじょうぶだ」

「それまでもつかな、……」

田原はキッチンで、またピーマンを水洗いしていた。キッチンとリビングルームのあいだに、かんたんなモーニングテーブルにも使えるカウンターがあった。そこにワインのグラスをおいて、ときどき飲みながら作業をしていた。

「トマトは買った?」と、平松がきいた。

「これからだよ、予約してあるから。いっしょに買いに出かけようか」と、田原がいうと、真理子がいっしょに連れていってといった。

「いっしょにいこう!」

田原は息子の部屋のドアを開けて、「もう、お客さんきてるぞ。もう起きろよ!」と声をかけて、玄関を出ていった。

 八百屋から完熟トマトを4箱とピーマンやそのほかの野菜類を大量に仕入れ、車で運ばせた。

「何かご商売でも、はじめるんですか?」と、玄関先で八百屋のあるじはきいた。

それから目についた安手のウイスキーやブランデー、コニャック、リキュール類も買った。パスタだけは専門店で買って用意していた。お気に入りのワインはセラーにあったから、ほんのつけたしで安いワインも数本買った。帰ってから、平松と真理子と3人でトマトの皮むきをした。

 ケチャップ味のトマトソースに慣れた舌に、生の完熟トマトでつくったソースは、飛び切り新鮮だろうなと考えたのだ。トマトを煮詰めてソースをつくろうといったのは、平松だった。

つくり方はだいたい知っていたけれど、田原はじっさいにやったことはなかった。

真理子は目を丸くして、平松の手元を見ていた。

午後になってみんなが集まってきた。人がくるたびにキッチンのなかをのぞいていた。キッチンのなかは、ふたりが入るといっぱいになった。ガスレンジには火口が4つあり、フル稼動していた。平松の顔がいちだんと赤味をおびてきた。

パスタができあがると、真理子と奨がテーブルに運んだ。

ビールの栓をぬき、まず乾杯ということで、全員立ちあがって「かんぱーい」をした。

ちょうどそのとき、ふたりの美奈子がやってきた。

西瓜をぶら下げていた。さっき朝子も西瓜を持ってきてくれていた。冷蔵庫にもうひとつ西瓜があった。これで予定のメンバーが全員そろった。14名だった。

つづき間の和室に9人、リビングルームに5人、田原親子を入れると16人になった。エアコンがまるで効かない。

キッチンのフードファンが強にセットしていたが、熱気が室内に流れてきた。ベランダに通じるガラス戸を開放しても、室内の熱気はさほど逃げていかなかった。

田原は、ニコンF2フォトミックを取りだして、ファインダーをのぞいていた。

「この写真、田原さんが撮ったのかしら」などといって、小坂美奈子がながめていた。この人、だれだろうとかいっていた。

「美奈子じゃないの? でも、お尻のかたちがちがうわね」と、小坂美奈子がいっているのがきこえた。

「その写真、いいね!」と、和室にいたバラエティ番組のADをやっている男がいった。オーディオのまえでだれかと話していた女性が、「この部屋で撮ったみたい」といった。

彼女は、田口が連れてきた背の高いすらっとした可愛い感じの女性だった。

「カーテンの柄、このカーテンじゃない?」といった。

キッチンのなかで手伝っていた真理子が黙ってそれをきいているみたいだった。田原は、にやにやしていた。

田原はオーディオのスイッチをオンにした。

オーディオセットの両わきにあるヤマハのスピーカーから、60年代に聴いたなつかしい音が流れた。平松の好きなローリング・ストーンズの《悪魔を憐れむ歌》や、ジミ・ヘンドリックス・イクスピアリアンスの《スマッシュ・ヒッツ》、それからO・C・スミスの《ヒッコリー・ホラーの物語》といった、往年の名曲がよみがえった。

若い連中には聴きなれない曲かもしれない。

これを聴きながらテーブル席での会話をひそかに記録していた。ちょっといたずら気分を起こして、コーヒーテーブルの下で手のひらサイズのテープレコーダーをまわしていた。

「これ、なつかしいわ!」といったのは、プリンストン大学出の工藤朝子だった。

平松はキッチンで顔を真っ赤にして黙々と料理をつくっていた。顔が赤いのはたぶんワインのせいかもしれない。

真理子は平松の額の汗を拭いていた。

きょうの真理子は、淡いローズピンクのミニのスカートをはいていた。キッチンで床においた食材を選んでいる真理子の後ろ姿は、きわどい脚のラインをときどき見せて、エロティックに見えた。

「この曲、まるで、中観(ちゅうがん)の世界」

そういったのは朝子だった。

彼女は京都大学の哲学科を出ている。インド哲学をやっていたといっていた。ナーガールジュナの中観(中論)の話がまたきけそうだった。そのとき、ファックス機が作動して、紙が何枚も出てきた。見佳からだった。ユキ子の近況を知らせる手書きの文面が送られてきた。

「田原さん、メールもきてるみたいですよ」といったのは、デスクのまえに座っていた田口だった。

パソコンでインターネット画面を見ていたらしい。田原はメールを開いた。下関のいる某テレビ局の由利子からだった。

「《スパゲッティを食べよう》パーティのご成功を祈ります」と書いてあった。

「池田さん、由利子さんからメールきてるよ」と、いった。

池田武志は和室の奥に引っこんで、隣りの田口が連れてきた女性と話しているところだった。たいしたことは書いていなかったけれど、「三軒茶屋のこと、思い出になります。忘れません」と書いてあった。

「三軒茶屋へいったんですか?」と、池田がきいた。

「ああ、あの大雨の夜にね」といった。

「田原さんは、スミにおけませんね」といってから、「あの写真、もしかして彼女じゃないんですか?」ときいた。

「ちがいますよ。彼女は撮らせてくれないでしょう、おそらく」

 由利子からは、ときどきメールがとどいた。3、4行ぐらいの短い文面だったけれど、いつもきわどいメールだった。下関支局に赴任したときは、「遠くへきてしまったけれど、わたしのこと、見捨てないでください」と、書いてよこした。田原はドキッとした。