ャーロック・ームズ誕生。

 

コナン・ドイル。

 

高橋哲雄という人の書いた「二つの大聖堂のある町」(ちくま学芸文庫、1997年)という本は、おもしろい。なぜイギリス中産階級は探偵小説が好きなのかとか、なぜイギリスは世界最大の幽霊大国なのかとか、あるいは、どうして酒場のことを「パブ()」というのかとか、そういう話がおおまじめに書かれていて、けっして退屈しない本だ。

もとよりぼくは、探偵小説に興味があって、その本を読んだ。

むかしぼくは、ジョージ・オーウェルの小説にとんでもなくのめり込んでいて、この作家がもしも探偵小説を書いたら、きっとおもしろいだろうなと考えた。イギリスにはもともと「娯楽としての殺人」という考えがあって、オーウェルもいっているように、みんな「イギリス式殺人」ということに拘っている。彼は、それがだんだんと衰退してきたという話を書いている。

――つまり、日曜の夕方、ロースト・ビーフにヨークシャ・プディングをそえたごきげんな夕食を濃いお茶でしめくくり、さてパイプのとおりは上々、ソファは快く体をささえ、暖炉の火は赤々と燃えさかっている。――そうしたしあわせな環境に身を置いたときに読みたくなるのが、殺人の出てくるイギリス風の探偵小説なのである、と書いている。

探偵小説が読まれるためには、それなりの経済的、精神的なゆとりがなくてはならないのだと。そりゃあそうだろうとおもう。弾丸飛び交う戦場で、探偵小説など読む気にはなれない。生きることに汲々としていては、そんな本は何の役にも立たない。

イギリス人は、どうやって経済的、精神的なゆとりを身につけたのか? ということになる。

19世紀に先進工業国として、しこたま稼いだその上がりを、世界のあちこちに投資して、第1次世界大戦まえにすでに国民所得の10分の1、個人消費の約6分の1を海外からの利子や配当で稼ぎ出していたことに由来する。金融大国の名を欲しいままにしたイギリス、その中産階級の層の厚みは、ここでいう金とヒマを持てあました国民のことであり、そういう時代があったことによる。

社会学者や歴史学者でなくても、そういうことはわかる。

だが、あのアーノルド・J・トインビーでさえ、明治維新をなし遂げ、世界の列強に伍した日本を、「アジアの奇跡」といった。これはけっして褒めことばではない。有色人種である日本人が、白人世界に伍して世界の強国に列したという驚きをいっているのだ。アジアの国々はほとんど強国の植民地と化したが、唯一、日本だけはちがった。

それはともかく、イギリスの探偵小説には、そのときどきの社会情勢というものがたっぷりと含まれていて、それを読むだけでも、ぼくにはおもしろいのだ。

1887年に第1作目の「緋色の研究」が発表されて、それから130年になろうとしている。日本でもシャーロキアンがけっこういるらしい。そのホームズは、ワトソンがいうには「ホームズの文学の知識――ゼロ」と書かれている。

しかしそうではないことが、後にわかる。

このシャーロック・ホームズがあらわれてから、探偵小説が花盛りになった。それとともに、司法では物的証拠にもとづく捜査が主流になっていく。それまでの見込み捜査や犯人と目される人物への拷問、自白などを否定し、現場に残された証拠から事件を再現することで犯行の実態や動機を推定するという取り込みがおこなわれるようになったというのである。

どういうわけか、ぼくは若いころ、「緋色の研究(A Study in Scarlet)」以外、長いあいだコナン・ドイルの本を読まなかった。しゃれっけのある文章にちょっとは興味をひかれたものの、コナン・ドイルの顔を見て、どうも好きになれなかった。へんな理由だが、それというのも、東洋人嫌いの、あるイギリス人の男の顔とそっくりだったからである。

そういうコナン・ドイルも、意地っ張りなところがあって、プエルトリコ人と中国人を嫌っていた。コナン・ドイルには日本人と中国人の見分けがつかないに違いない。そんなことを勝手におもい込んでいたぼくは、えらく損をした。

1991年、クリントンが米大統領に選ばれた年、ぼくは北海道で奇しくも、敬愛してやまない深町眞理子さん訳の「コナン・ドイル」(ジュリアン・シモンズ、創元推理文庫、1991年)という本を読んで、小説よりも、コナン・ドイルその人に興味を持った。

その本は札幌の家においてきたので、いま手元にはないけれど、その翻訳はすばらしかった。

以来、ぼくは深町眞理子さん訳の「シャーロック・ホームズ」をずっと読んできた。2002年には、翻訳の苦労話や楽しさについて書かれた「翻訳者の仕事部屋」という本も読んだ。そして近年、また彼女の訳本が出た。「四人の署名」(コナン・ドイル、創元推理文庫、2011年)である。

彼のことを、「名探偵に生涯を翻弄された悲運の作家」などといわれたりした。彼の名前は、アーサー・コナン・ドイル(Sir Arthur Conan Doyle 1859-1930年)というのだけれど、「Sir」の称号をいただき、世に知られてはいるものの、彼が生み出した「シャーロック・ホームズ」の名前のほうがずっと多くの人に知られており、そのことを死ぬまで嫌っていた。

ドイルの母親はメアリー・フォーリーといい、17歳でチャールズ・ドイルと結婚した。それはいいのだが、彼女は終生、じぶんは王家の出であると信じ込んでいたようで、うらぶれたチャールズ・ドイルと結婚したことをひどく悔やんでいた。

なにしろ、彼女の家系をたどると、12世紀のヘンリー二世、三世というプランタジネット王家にまで行き着くという話にすっかり取り憑かれていて、ウォルター・スコットのスコットランドの栄光の日々を描いた騎士道物語に夢中だったらしい。もちろんぼくもウォルター・スコットのファンで、「アイヴァンホー」その他はすでに読んでいる。

息子のアーサーは、もともとスコットランド人である。

彼はほとんどの生涯をイングランドで過ごしているが、幼いころは古都エジンバラで過ごした。そこはどういうところかというと、エジンバラといえば聞こえはいいけれど、一歩裏手をのぞくと、悪徳と貧困うずまく場所で、トイレから垂れ流したみたいな汚物にまみれ、不潔で、天然痘がはびこり、罵詈雑言のやかましい街だった。

「あなたは、騎士のようにりっぱな人間になりなさい」といわれつづけていた。

ドイルは父に背いて医者になることを夢見て、エジンバラ大学で医学を勉強し、20歳で卒業すると、船医になり、それからスコットランドを出て、イングランドのポーツマスというイギリス海軍の軍港町で開業した。

なにもポーツマスに行かなくてもよかったのだが、そのころ夢中で読んでいたディケンズの生まれ故郷にあこがれていたようだ。それでチャールズ・ディケンズに会えたのかというと、もちろん会えなかった。ポーツマスに行ったときは、すでにディケンズは亡くなっている。

さて、「ドイル医院」の看板は出してはみたものの、だれもやってこない。いつやってくるか分からない患者を待ちながら、彼は小説を書いた。推理物の小説ではなく、恐怖小説を書いた。

そのとき、医院の真ん前で、馬が倒れて下敷きになった紳士がいた。その手当をしたのがはじめての患者だった。――この「馬が倒れて下敷きになった」というのも、なんともあやしいものだ。馬なんか、人間みたいに道端でいきなり倒れるものだろうか? それも、人間を下敷きにして。

そしてある日、髄膜炎を患っている青年を連れて、その母親がやってきた。診たときはもう手遅れで、やがて彼は死ぬ。けれども、別の物語がはじまった。ドイルにとって生涯の転機となる事件で、死んだ青年の妹ルイーズが、ドイルに恋をしてしまったのである。ドイルもまた彼女にのぼせた。

そしてルイーズと結婚すると、たちまち患者がやってきた。

ドイルはおもった。

結婚したとたん、患者がつぎつぎに訪れるようになった。ルイーズはありがたい福の神のようにおもえた。しばらくして、その意味がわかった。この街では、独身の医者に診てもらおうなんて考える人は、ひとりもいないことが分かった。そうすると、彼は恐怖小説を書くのをやめた。こんどは探偵小説を書こうとおもった。そして、「シェリングフォード」という主人公の探偵の名前をつくった。夫には従順だったルイーズが、名前にちゃちゃを入れた。

「シェリングフォード・ホープなんて、ずいぶんもったいぶった名前だこと、……」といった。するとドイルは、「ホープ」から「ホームズ」に変え、「シェリングフォード」を「シャーロック」に変え、シャーロック・ホームズにした。

「あら、すてきね」と妻はいった。

なんていうこともない、ホームズは当時、犯罪心理学者で法学者のオリヴァー・ウェンデル・ホームズからこっそりいただいたものだった。シャーロックは、ドイルが好きなヴァイオリニストの名前で、アルフレッド・シャーロックからこっそりいただいたものだった。そして、その名前で小説を書きはじめた。

そこに登場するホームズは、紫色のガウンに、ぜいたくなスリッパを履かせ、口にはパイプをくわえさせた。これはなんていうこともない、自分自身のかっこうだった。シャーロック・ホームズに助手をつけようとおもい立ち、医者のジョン・ワトソンを登場させた。

このジョン・ワトソンも、ドイル自身の、いわば分身として描いた。ふたりとも、同一人物の分身として生まれたので、小説を読むと分かるように、ワトソンとシャーロック・ホームズは、いつもふたりがいっしょに仕事をし、彼らはお互いに隣り合って暮らしている。まるで結婚した夫婦みたいに。

そして、1886年の春ごろポーツマスは台風なみの潮風に見舞われ、3週間も吹雪がつづいた。外に出ることもできず、もちろんひとりの患者もやってこない。

彼は部屋に閉じこもって最初の作品「緋色の研究」を書きはじめた。ずいぶん奇抜な着想で書かれ、モルモン教徒を題材に描いた。

できあがると、原稿を厚紙でできた封筒に入れ、出版社に送りつけた。不採用になって戻ってくると、また別の出版社に送った。それもまた戻ってきた。よく見ると開封された形跡がなかった。中身も読まずに送り返してきたのである。

そして翌年の1887年になり、思わぬことが起こった。

クリスマスには雑誌も贈り物として売られる豪華版になり、ある子供向けのお話を満載した年に一度の豪華版の雑誌が、原稿不足に陥った。「ビートンズ・クリスマス・アニュアル」という雑誌で、そんなことなど知らないドイルは、偶然にもそこの編集部に「緋色の研究」を送りつけた。原稿に困っていた出版社は、なぜか、大人向けの探偵小説を一挙掲載したのである。ドイルはたいへん期待した。

ところが、どうしたわけか、まったく反響はなかった。

それもそのはず、大人は読まないからだ。子供だって読まない。

おまけに、そこに出てくる挿画は、ドイルの父が描いたもので、お世辞にも挿画らしい挿画はただの一枚もなく、これではせっかくのシャーロック・ホームズの人物も台無しになった。父親のチャールズ・ドイルは当時、アル中で精神病院に入っていた。シャーロック・ホームズの顔が、ふた目と見られない、おどろおどろした顔つきで描かれていた。紫色のガウンもよれよれで、シミがいっぱいついているような絵だった。

読者の多くは、醜い男の顔をひと目見て、雑誌を閉じた。シャーロック・ホームズは一夜にして、華々しく成功したわけではなかった。さんざんな目に遭っていたのである。

ある日、フィラデルフィアから出版社の男がポーツマスのドイルを訪ねてやってきた。シャーロック・ホームズの第一作を読んで、おもしろいといった。彼はドイルをディナーに招待した。そこに招待されたのはドイルと作家のオスカー・ワイルドのふたりだった。出版社の男は、ふたりに、何かすばらしいものを送ってくれれば、出版したいといった。

オスカー・ワイルドは「ドリアン・グレーの肖像」という作品を送った。ドイルは、シャーロック・ホームズの第2弾として「四つの署名」という作品を送った。1889年のことである。

ところが、オスカー・ワイルドの「ドリアン・グレーの肖像」は、世にいわれるように、彼の代表作となり、作家としての地位を確立したが、ドイルのほうは、さっぱりだった。

これ以来、小説の依頼は、ぱったり途絶えた。小説の依頼もなく、患者もこなくて、生活はますます窮乏した。これではダメだとおもい、眼科医を目指した。半年間、眼科医としての医学を勉強し、開業してみたものの、ひとりもやってこない。

仕方がないので、ふたたび創作に情熱をそそぎ、そうこうしているうちに、「ストランド」という雑誌社からシャーロック・ホームズのシリーズものを書いてはどうか、という依頼がきた。そして2作を書きあげ、挿画で失敗したおなじ轍を踏みたくなかったので、出版社に、優秀な絵描きに挿画を仕上げてもらうよう頼んだ。出版社も彼の意を飲んで、原稿料は30ギニー、挿画には20ギニーも支払った。

そのときの画家は、ウォルター・パジェットという男で、できあがったシャーロック・ホームズの挿画は、ほれぼれするような、ダンディな姿で描かれ、ご婦人方にもセクシュアルで魅力的な、1880年代の洒落男として描かれていた。

たちまちシャーロック・ホームズの世界が開花した。

おりしも、ロンドンでは切り裂きジャック事件で大騒ぎになり、それを暗示するかのような殺人鬼の出てくる小説に、ロンドン市民は意表を衝かれたみたいにシャーロック・ホームズを読んだ。

――ざーっと駆け足で、シャーロック・ホームズが生まれた経緯を書いたけれど、彼は舞台劇も書いている。それは「ベーカーストリートの不正規軍」という作品で、ホームズの手足になって活躍する浮浪児が登場する。舞台では、無名の12歳の少年が演じた。彼の名は、チャーリー・チャップリンだった。こうした話のつづきを書きたいところだけれど、なにぶん紙幅がなくなった。アーサー・コナン・ドイルの犯罪推理の才能はすばらしいとおもう。もっと書いてほしかったなとおもう。