間田弘幸氏の気になる

 

勝間田弘幸「対話」。

 

銀座通りは、人で人で、ごった返していた。

ぼくはその日、教文館から出て、銀座通りを京橋のほうにむかって歩いた。例の伊東屋の、大きなクリップの赤い目印を横目で見ながらその先を急いだ。時計の針は1時になろうとしていた。

地下のお目当てのコーヒー店に入り、禁煙席をのぞいた。

彼はまだきていなかった。

コートを脱ぎ、手荷物とリュックサックを降ろし、ぐるっと店内を見わたした。そのとき、奥の壁にあるミラーにじぶんの姿が写った。ここはいつも静かなのだが、その日にかぎって、パーティーションの向こう側の喫煙席が騒がしかった。座れない客が列をなしてならんでいる。台湾女性らしき姿が多い。

その日はクリスマス・イブの日で、若い女性の姿が目立った。相手はまもなくやってくるだろうとおもいながら、コーヒーをオーダーすると、教文館で手に入れた本を開いた。

ぼくはめずらしく、書店で松本清張の「渡された場面」(新潮文庫、平成19年)という本を見つけた。この本にでてくる林芙美子についての文章を、もう一度読みたいとおもった。このミステリー本の本筋とは無関係な話だが、意外にもくわしく林芙美子のことが書かれているからだった。

ほんの数ページ読んだところで、勝間田弘幸さんがやってきた。大きなバッグを抱えている。久闊(きゅうかつ)を叙する気分、といったらいいだろうか、まさにそんな気分だった。

今年の秋ごろ、彼の個展を見ているのに、じっさいにお目にかかるのはひさしぶりというような気分だった。いつか、銀座で遅くまでコーヒーを飲みながらおしゃべりしてから、すでに5、6年はたっているだろう。

こういう席を設けたのには理由があった。

個展の会場で、もう一枚、気になる絵があった。

電話で、それをもういちど見たいといったからだった。勝間田弘幸さんはごていねいに挨拶し、5分遅れてきたことを詫びた。小説「渡された場面」ではないが、ぼくは渡されなかった絵に格別の興味をもち、もしも気に入ったら、ヨーコへのクリスマスの贈り物にしたいと密かにおもっていた。

彼女が果たして気に入るかどうか、それはわからない。

林芙美子。

 

林芙美子はスーティンの絵に格別の思い入れがあったらしい。

彼女は最後まで独身を貫いたけれど、「放浪記」を書いて、多額の印税収入が入って裕福になると、どこのウマの骨ともつかない男たちが、芙美子の周辺にあつまってくる。そういう男たちには目もくれず、ひとり、高額な絵を買い込んで自分を慰めていた。

若いころには男に慰められたけれど、年を取るにしたがい、物いわぬ絵画芸術に癒しの場を移した。

とくに、シャイム・スーティンの絵などを買い込んでいる。

ロシア生まれのスーティンは、ユダヤ人家庭の11人兄弟の10番目の子として生まれ、体も弱く、家の手伝いもできなかった。そのため、兄弟たちから邪魔者あつかいされた。

そのようななかで絵画に興味を持つようになったが、貧困や、宗教的な戒律を理由に絵を描くことを認められなかったことから故郷を去り、1910年から3年間、リトアニアのヴィリニュスにある美術学校で学ぶ。そしてパリで活躍したので、エコール・ド・パリの画家のひとりに数えられている。「狂女」と題されたシャイム・スーティンの油彩画(1920年)は、昭和のはじめごろ、美術評論家の福島繁太郎が、パリで購入したものだという。

おなじころ、芙美子がパリで、スーティンの絵をいくつか見ている。そこにある、スーティンの「ウサギ」の絵に共鳴し、手に入れたかったが、最初は、芙美子には高くて買えなかった。

そのウサギは、皮をはがされていて、まるでじぶんとおなじように、満たされないものを感じたという。芙美子は、その後「放浪記」があたって、多額の印税が入り、裕福な暮らしができるようになると、数年後、スーティンの「狂女」を、福島繁太郎から買い取っている。パリでも数点買っている。

その絵を手にしたとき、芙美子は、絵のなかの狂女の持つエネルギーが、いっぺんにじぶんのからだのなかへ乗り移ったみたいに感じたといっている。芙美子がいくらで買ったのか、それは分からない。この絵が、国立西洋美術館に寄贈されたのは、芙美子が亡くなって9年ほどたった昭和35年のことである。

スーティン「狂女」。

 

勝間田弘幸さんには、その話はしなかった。

その日、彼の謎めいた絵を見せてもらった。うーん……。ぼくは店の椅子に立てかけた額装の絵を見て、ことばが出なかった。コーヒーを飲んで、またうなった。勝間田弘幸さんはいろいろ説明してくれた。説明が必要なほどの抽象画だった。

だが、ほとんどぼくは上の空だった。

――というのは、ぼくにとってその絵は、作者の意図を遠く離れているように見えたからだった。これを見た瞬間に、ぼくの思想が絵のなかに塗りこめられてしまった。だからほしいとおもった。

芙美子がスーティンの絵をほしいとおもったように、ぼくは勝間田弘幸さんの絵をほしいとおもった。

それから絵を箱に入れると、こんどは別の話をした。

素粒子の話だ。勝間田弘幸さんのお話のなかに、ときどき絵の着想についての話が出る。その話に共鳴した。文学もきっとおなじだろうとおもった。

 

「人間はみんな歩く虹じゃないかって気になる」

「ハントの言っていることには、心理学的な根拠がないわけでもないのよ」と、私はそっけなく言った。

「人間の感情は、色と結びついているの。そのことは一般に認められていて、公共の場所やホテルの部屋やいろんな施設をどんな色にするか考えるときの、基礎になってるのよ。たとえば、青は陰気な気分と結びついている。だから精神病院には壁を青く塗った病室はまずないでしょう。赤は怒りや暴力や情熱。黒は病的、不吉な感じ。まあ、そんな具合よ。そういえば、ハントは心理学の修士だって言ってたじゃない」

ハントは答えた。

「あの人からは、寒々した色を感じとりました。クールな青、弱々しい日ざしを思わせるような薄い黄色、それからあまり冷たくてかえって熱さを感じさせるドライアイスのような白。さわったらやけどしそうな感じでした。ほかの人と違っていたのは、この白い部分です。パステル調の色を感じさせる女性は、たくさんいます。女らしい色で、着ている服の色とも一致します。ピンク、薄いブルー、グリーンなんかです。そういう女の人は受身で、か弱い感じです」

(パトリシア・コーンウェル「証拠死体」より)

 

勝間田弘幸さんの絵は、まさにパステル調の絵だ。ぜんたいに明るい世界だ。人が躍動しているように見える。春とか、希望とかを感じさせる。

――そして、勝間田弘幸さんと別れて、どこにも寄らずにまっすぐマンションに帰った。ほんとうは、銀座で映画を観て帰る予定だった。カトリーヌ・ドヌーブの近作「ルージュの手紙」をぜひ観たいとおもっていたが、絵を受け取ると、ぼくは早く帰りたくなった。