「大人は判ってくれない」。

 

映画「大人は判ってくれない」。

 

先日、金井宣茂さん(41歳)が宇宙へと旅立った。日米露の3人の宇宙飛行士をのせたロシアのソユーズロケットが、カザフスタンの宇宙基地から打ち上げられた。彼は、日本人12人目の宇宙飛行士となった。

この快挙は映画ではない。

映画ではないけれど、ある詩人(シャルル・ペギー)の詩のなかにある「ヌーヴェル・ヴァーグ(新しい波が来る)」ということばを想いだす。宇宙飛行士とヌーヴェル・ヴァーグはなんの関係もない。けれども、宇宙飛行は、現代のヌーヴェル・ヴァーグかもしれないぞ! とおもった。

それは1957年、週刊紙(新聞)「レクスプレス」の女性記者、――のちにミッテラン政権時代に初の女性閣僚になる人――が、フランスの若者たちの生き方について「ヌーヴェル・ヴァーグ」と題するアンケートをおこなった。彼女は詩の一節を抜き出したのだ。

ヌーヴェル・ヴァーグとは、それが由来である。山田宏一氏の「山田宏一のフランス映画誌」(ワイズ出版、1999年)という本にはそう書かれている。ぼくの敬愛してやまない山田宏一氏の本は、とても刺激的だ。

ファッションではクリスチャン・ディオールがあらわれ、戦後のフランスの若者たちの生態、風俗、モードを総称し、たちまちフランス映画の新人監督のだれもがヌーヴェル・ヴァーグの映画をつくった。量においても質においても、時代の波はたちまち世界におよんだ。

フランソワ・トリュフォー監督の文字通りの長編第1作「大人は判ってくれない」がその波にのって大成功し、ヌーヴェル・ヴァーグ映画の代表作になった。

ぼくは学生のころ、銀座か渋谷の、どこかの名画座でこれを見ている。そのときはなんともおもわなかったが、壮年期を迎えるころ、なつかしいというのではなくて、ただ無性にこころを揺さぶられた。この映画はトリュフォー自身を描いたのではないか、とおもった。彼は少年のころから映画のトリコになっている。父親と母親はいつもケンカばかりして、口うるさい。

こんな家になんかいられるか!

映画好きの12歳の少年は、夫婦げんかの絶えない家庭では、じぶんの居場所もない。彼には映画館だけがじぶんの居場所と考えるようになった。映画をそっちのけにして、好きでもない女の子とデートするなんて、ちっとも楽しくない。ひとり映画館で映画を見るのが好きなのだ。これって、現実逃避。――それぐらいの分別はあっても、映画館は少年にとって別世界なのだ。

じぶんの少年時代はどうだったろうか? 

ぼくはおとなしい生徒で、教室の隅っこで先生の話を聴き、なんとなくみんなと溶け込む勇気がなかった。みんな頭のいいやつばかりで、勉強をしないじぶんは、ワルガキどものグループに入り、小学校のグラウンドで日が落ちるまで真っ黒になって、野球に興じていた。

そしてじぶんは、大人になりたいとは少しもおもわなかった。

なのに、6年生の上級生がやってきて、こういった。

「大人の証拠を見せてやろうか?」って。

「見せて!」というと、彼はズボンを下げた。うっすらとチン毛が見えた。

「これが証拠だ!」と彼はいった。

少年の好奇心はチン毛にそそがれた。

「女の子もおなじさ」と彼はいった。

ぼくは想像できなかった。18くらいの子守りのナターシャといっしょに風呂に入っていたけれど、そんなのは見たことがなかった。

大人はわかってくれない!

そういうことも考えなかった。

 

フランソワ・トリュフォー。

北海道の農場のど真ん中にある番小屋の影で、若い渡りの季節労働者たちの姿をのぞき見していた。午前10時をすぎた小昼(こびる)どき、みんな番小屋で茶を飲み、休憩する。そのまえに、女たちも畔(あぜ)にあがっていっせいにお尻を出しておしっこをする。電線にとまったスズメらみたいに、一列にならんで。

ひばりがみんなの頭上をかすめ飛んで行く。

農道には、稲の苗を運んできた馬が、ぼーっと突っ立っている。

真っ青な空には、遠くに雪をかぶった暑寒別岳が見える。7、8人の女たちは、18歳から23、4歳ぐらいの秋田方面からやってきた、みんな渡りの娘たちだ。父はまことに機嫌がいい。そりゃあそうだろう、若い娘たちにとり囲まれているのだから。それがおわると、またいっせいに苗を植える。女たちのお尻がならぶ。のどかな北海道の農場の風景である。

きのうの夜、――北海道の中学時代、同級だったKさんと草加で会った。とつぜんのことだったが、彼のお姉さんを見舞うためにクルマで越谷に行く途中、草加のじぶんのマンションに立ち寄ってくれだのだった。むかしの話はさんざんしているので、きのうは、彼の奥さんのこと、お姉さんの病いのことを聴いた。

認知症の話になり、Kさんはちょっと暗い顔になって、さいきんは憂鬱なんだ、と話した。

「妻もそうだからね。家を出るとき、どこに行くの? って、またきくんですよ。さっき説明したのにね、もう忘れちゃってて。またおなじことをいうわけですよ」

だからぼくらは、レストランで飯を喰いながら、ひそひそ話になった。

「きょうは、これ、渡そうとおもってさ、……」という。

彼が持ってきたのは北海道・北竜町の田園を撮ったB4判サイズほどの2枚の大きな写真だった。2枚とも分厚いボードに貼りつけている。地面はほんの少し。空が80パーセントを占めるという青い空を撮った写真だった。

「これ見てると、こころが晴れるよ」という。

それからふたりは、少年時代の話をした。ぼくはナターシャの話をした。

長男のぼくは、ナターシャにかまってくれなくて、いつもむくれていた。

「ゆき坊は、お兄ちゃんなんだから、ひとりでできるでしょ!」というのだ。彼女は、生まれたばかりの末の弟のめんどうをみている。母は結核性の肋膜炎で、ベッドで寝ている。彼女は母のめんどうをみながら、ふたりの弟たちのめんどうをみ、ご飯をつくり、洗濯をし、掃除をする。お風呂の水汲みは彼女の仕事だ。手押しポンプを操って、ごきごき漕ぐ。風呂桶まで樋(とい)をわたし、満杯になるまで漕ぐ。力を入れて漕ぐと、砂もあがってくる。風呂桶には砂がたまっている。水を抜くとき、砂を掻きだすのも彼女の仕事だ。

人がくると、ナターシャが出ていく。

「ゆき坊、これやってなさい!」とじぶんにいいつけて。ぼくの力ではおもうように漕げない。すっごく重いのだ。もどってくると、

「ゆき坊、ランプ!」というのだ。こんどは、ランプのホヤを磨きなさいっていうのだ。

わが家には電気というものがなかったからだ。

学校から帰ると、ぼくはランプのホヤを磨いていた。そろそろランプに火をつける時間になり、家族だけのときは、3分芯(さんぶしん)の明かりにする。夜になってご飯を食べるとき、もうちょっと明るい5分芯の明かりにする。来客があると、全開にする。お茶を出す手元が明るくなり、新聞も読める。

お酒が出るころになると、父は上機嫌になって、ヴァイオリンを弾く。客人はギターを弾く。ぼくらは、ほんとうはラジオを聴きたかった。ラジオは、中学生になるまでおあずけだった。

「にがい米」のシルヴァーナ・マンガーノ。

 

1956年、若い批評家だった25歳のフランソワ・トリュフォーは、「あすの映画は、私小説や自叙伝よりもいっそう個人的なものになるにちがいない。告白のようなもの、あるいは日記のようなものに」といったという。そして生まれた「大人は判ってくれない(Les Quatre cents coups 1959年)」という映画は、鮮烈な映画だった。

60年代、東京の映画館は、ほかの惑星に行ったみたいな心地がした。

しかし、その火つけ役になったのは、たぶんフランソワ・サガンだったろう。

ぼくはトリュフォーにはなれなかったけれど、フランソワ・サガンの「悲しみよこんにちは(Bonjour Tristesse 1954年)」を読み、12歳のトリュフォー少年のことを想像した。わが家も似たり寄ったりのひねくれた会話が飛び交ったが、あの「悲しみよこんにちは」より、ましだったなとおもう。

「告白のようなもの、あるいは日記のようなものに」なるだろうと見抜いたトリュフォーの目論見はあたっていた。まるでフランスの哲学書を読むような、目くるめく家族の世界が描かれている。トリュフォー監督は、コンテストのあり方をめぐって、カンヌ国際映画祭の粉砕を主張し、もっとも過激な論陣を張った。しかし、この出来事があってから、盟友ジャン=リュック・ゴダールと決別した。「トリュフォー最後のインタビュー」(山田宏一・蓮實重彦共著、平凡社、2014年)という本を読むと、そのいきさつさがくわしく書かれている。

トリフォー研究については、山田宏一の本がいちばん信頼できそうだ。パリでトリュフォーらとともに、映画について熱心に勉強していたからだ。

60年代の初頭は、なんでもありの時代だった。東西冷戦の雪解け気運がはじまり、「ぼくの村は戦場だった」とか、「誓いの休暇」とか、「自転車泥棒」、「鉄道員」、「処女の泉」、「野いちご」など、いろいろな映画がやってきた。「野いちご」は2回も観たけれど、わからなかった。なかでも「シェルブールの雨傘」のカトリーヌ・ドヌーブはとても美しかった。そのころのことを思い出して、彼女の近作「ルージュの手紙」をぜひ観たいとおもっている。

名もない家族を描いた世界の名作はいっぱいある。ありすぎるほどある。

時代の主人公にはならないけれど、家族のなかではいつも主人公なのだ。そういう映画を見せてくれたのは、フランソワ・トリュフォー監督だったなとおもう。

1960年代は、日本が戦後大きく政策の舵をきった工業路線とともに、地方からどんどん人が都会にやってきた時代で、若くて、豊富な人工資源にめぐまれていた日本は、彼らをその時代の先兵に導いた。それがあたって、驚異の経済成長を成し遂げた。

東京都が1000万人の人口になったのは、1962年だった。ぼくが大学に入学した年だった。

首都圏の通勤・通学ラッシュはものすごかった。

朝8時台の電車は、全員を乗せきれなかった。イタリアもおなじだった。イタリア映画の「にがい米」(1949年)は農村部の田植えを描いたものだが、渡りの女たちの確執を描き、話題になった。娼婦が出てきたり、女どろぼうが出てきたり、ケンカをしたり、人を殺したり、自殺したりの映画で、ふしぎなことに、みんな美人ぞろいで、ガルシア・ロルカの舞台劇「ベルナルダ・アルヴァの家」をなぞったみたいな映画だった。

「恋で死ぬのは映画だけよ」と、雨傘を売る店の女主人のセリフがある。「シェルブールの雨傘」だ。まさに恋のもつれで死ぬ映画だったなとおもう。

もしも12歳の少年がこの映画を観たら、きっとわからないかもしれない。恋の恐ろしさを知らないからだ。