大塚国際美術館。

ルビゾンが生んだレーの絵。

 

ミレーの「落ち穂拾い」。1857年、オルセー美術館所蔵。

 

このたび、徳島県鳴門市にある「大塚国際美術館」をのぞき、世界のいろいろな絵を見て、おもいを新らたにしました。会場は広く、地下3階のシスティーナ・ホールの正面に描かれた「最期の審判」を見て、その大きさに圧倒されました。そこは世界初の陶板名画美術館で、西洋の名画を原寸大で陶板に焼いてつくられた作品です。門外不出のピカソの「ゲルニカ」もあります。

ぼくが息を飲んだのは、地下1階エスカレーターわきの通路に掲げられたミレーの「落ち穂拾い」でした。だれでも知っている、あの「落ち穂拾い」なのですが、なんという、美しい絵なのだろうとおもいました。

ぼくが絵に親しむようになって、もう30年になります。でも、もっとむかし、10歳のころから、ぼくらはピカソの絵を見ていました。

むかし、北海道・真竜小学校で金山のぶという女の先生に絵を習っていて、ピカソという画家の絵を見せてくれました。昭和27、8年ごろのことです。――ということは、戦後10年ごろのことです。

「みんな、この絵を見てくてださい。みんなは、どうおもいますか?」とききました。変な絵だ! と、ぼくらはおもったにちがいありません。でも先生は、みんな、真似をしないようにね、とはいいませんでした。卒業するとき、金山先生から「芸術は、まずピカソの絵から」というサインをいただきました。

北海道雨竜郡北竜村が、ぼくが生まれたところです。なかなか由緒ある村で、千葉県印旛郡埜原村(やはらむら)からやってきた人びとがつくった村です。明治26年に、北海道へ移民としてやってきた人びとです。

絵画の世界においても、そういう村があります。

フランスのバルビゾン(Barbizon)村は、イル=ド=フランス地域圏セーヌ=エ=マルヌ県にできた村(コミューン)です。ここは、フォンテヌブローの森に隣接していて、19世紀にはジャン=フランソワ・ミレーに代表される風景画家たちが集まり、「バルビゾン派」と呼ばれた村です。とても小さな村のようなのですが、世界中から観光客が訪れ、村は「画家たちの村バルビゾン(Barbizon Village de Peintres)」と名乗って、とても有名になりました。

バルビゾン派(École de Barbizon)は、1830年から1870年ごろにかけて、フランスで発生した絵画の一派です。パリの南方約60キロのところにある村で、その周辺に画家たちがあつまり、そこに居住して、自然主義的な風景画や農民画を写実的に描きだしました。専門的には「1830年派」などと呼ばれたりします。

その先鞭をつけたのは、なんといってもミレーでしょう。

 

ミレー「休息する草刈りたち」、ボストン美術館所蔵。

 

北海道の農村の風景を見て育ったぼくは、この話にとても関心がありました。そういう彼らの絵を見たり、本を読んだりすることが好きでした。しかし、ぼくは絵を描くことはなく、ずっと本を読んで、自分が育った風景とおなじものを、漠然と探し求めていました。

中学生か高校生のころ、何かのおりにミレーの絵を見ました。「晩鐘」とか、「種蒔く人」とか、農村をテーマに描いた絵です。子供のころは、そんなには感動しませんでしたが、ミレーといえばそういう絵を描いた画家という、ただそれだけの知識しか持っていませんでした。

ミレーは19歳のとき、グリュシーから10数キロほど離れたシェルブールの街で絵の修業をはじめています。22歳の1837年にはパリに出て、当時のアカデミスムの巨匠だったポール・ドラローシュ(1797-1856年)という人に師事します。デッサンや模写のほか、聖書や神話など、画題となる古典文学も学んでいます。

彼は、この先生について、しっかり勉強します。

そのうちに、ミレーはだんだん頭角をあらわし、ドラローシュ先生も認める絵を描きますが、懸賞つきのコンクールが催されることになって、もしも一等を取れば、ローマに留学することができるといわれ、ミレーは発奮します。

ところが、ドラローシュ先生は、別の人を一等にすることをすでに約束していて、「きみは、来年のコンクールに一等にしてあげるから、今回はあきらめてほしい」といわれます。

イタリア旅行を夢見ていたミレーは、がっかりし、そういう先生のもとで、これ以上勉強する気になれなくて、即座にドラローシュ先生のもとを去ります。ミレーが年100フランの月謝を支払えなくて、先生のアトリエを去ろうとしたとき、先生は「月謝なんかいらないからいてくれ」といわれ、ミレーはとても感謝していたのですが、がっかりします。

ドラローシュ先生のアトリエを出てから、絵画研究所に通ったり、ルーブル美術館に足を運んだりして、ひとりで絵の模写をつづけます。

しかし、こういうときに、毎月送ってくれていた学費がとつぜん打ち切られてしまいます。いままでも、乏しい学費でやっていたのですが、こんどは、その乏しい学費も得られない。いきなりミレーはどん底生活を強いられます。

無名の青年に絵を頼む奇特な人物はあらわれません。

いくら農村の絵を描いてもいっこうに売れません。売れるのは、こころにもない女の裸体画です。森の風景ではなくて、彼はしゃれた女の風俗画をしかたなく描きます。5フランとか10フランで、こういう絵を描き、お金を受け取ると、パン屋に飛んでいき、ひもじかった腹を落ち着かせます。

ある日パリを散歩をしていると、美術商のウインドーに掛けてあるミレーの裸体画を、ふたりの男が眺めているのに出くわします。

「この絵は、だれが描いたんだろう?」

「ミレーって男だよ」

「ミレー? そいつは、どんな絵描きだい?」

「ほら、いつも女の裸ばっかり描いているやつさ。それしか能のないやつだよ!」

ふたりの男は、そんな話をして立ち去ります。

それを聞いミレーは、愕然とします。お金のために仕方なく描いたとはいえ、女の裸体画ばかり書いているせいで、世間では、低級な画家であるという評判が立っているのを知り、それ以来、ミレーはいちども裸体画を描くことをしなくなります。そうなると、カンヴァスを買うゆとりもなくなり、完成した絵を塗りつぶして、その上に別の絵を描いたりします。

25歳のとき、フランス第一の美術展覧会であるサロンに出品し、入選するまでになりました。ここに入選すれば、一人前の画家として認められますが、そうなってもミレーはいつも貧しく、安いお金で、頼まれた看板や肖像画を描きまくります。そうしなければ、その日その日のパンにありつくことができなかったからです。しっかりした腕を持ちながら、こんな仕事にあくせくしなければ、暮らしていけないのです。

こういう生活が10年もつづきます。

最初の妻は、貧困のうちに亡くなりました。

二度目の妻は、同棲中だったカトリーヌ・ルメートルという小間使いの女性でした。彼女とのあいだに第一子が誕生しましたが、カトリーヌと正式に結婚するのは、かなり後の1853年でした。彼女はよくできた妻で、ミレーの苦労を理解し、我慢づよく生きます。

油絵をベッドと交換したり、えんぴつ画6枚で靴を買ったりして、暮らしを切り詰めます。これらの絵のなかには、ミレーが有名になってから、1枚が何万フランもする値がつけられたりします。

 33歳になった年の2月、いわゆる二月革命がおこります。――フランス革命から60年たった1848年の「二月革命」ですが、そのころになると、フランス画壇にも新風が巻き起こります。

ルーブルで自由展覧会というのが催され、その展覧会にミレーは2つの作品を応募します。2つとも入選しました。ひとつは「箕()をふるう人」という絵です。納屋で穀物をふるっている絵です。ミレーはこのころからやっと本腰を入れて、農村の絵に熱中します。たちまち美術家のあいだで評判になります。おりから、農民運動が盛り上がり、この絵は、農民たちにも感動を与えました。

この絵が、評判になっているころ、ミレーは、窮迫のどん底にいました。食べるものもなく、燃やすものもなく、寒さに凍えていました。ミレーは重度の関節リウマチをわずらい、高熱に苦しみ、一時は危篤状態になります。ほぼ1ヶ月間、ミレーは意識を失い、医師も「彼の生命は尽きようとしている」といい、サジを投げます。栄養不足で全身の力が抜けていて、立ち上がることもできません。友人たちの助けで、少しずつ回復していきます。

友人はおどろいて、美術院長のところへ駆け込み、100フランのお金を出してもらうと、ミレーの家に駆け込みます。

「さあ、金だ! きみの金だよ」といって、ミレーにお金を握らせます。

「箕をふるう人」は、フランス政府に買い上げられたので、やっとのことで危機から救われます。世の中は革命の真っ最中で、だれも絵などに見向きもしません。まるで、天から降ってわいたような幸運にありつきます。

そして、ミレーは政府から大作を頼まれます。

できあがる寸前になっていた絵を塗りつぶし、ミレーはそこに「休息する草刈りたち」という絵を描きます。これが契機になって、ミレーはぶれることなく農民の画家として邁進します。

「しかし、パリにいたのでは描けない」とおもい、ペストが流行しはじめたのをきっかけに、ミレー夫婦は、1849年6月、労働者の暴動が起きる寸前に、バルビゾンという小さな村にたどり着きます。ここでは教会に出かけるにも、手紙を出すのにも、2キロの道を歩かなければならない辺鄙なところでした。

しかし、ミレーは気に入りました。

ミレーがあらわれるまで、農村の絵といえば、ただきれいなだけの風景画でしたが、ミレーの絵は、そんな絵ではありません。重いたきぎを背負って道を降りてくる年老いた農夫や、若い農婦が汗まみれになって種を蒔く人びとなど、農民の労働する姿を描きました。

ミレーがあらわれてから、農村の風景を描く画家たちも、労働が絵になるということが知られるようになります。そうしてミレーの絵は、だんだん多くの人に認められていきます。

2014年、ぼくら夫婦が、東京・三菱一号館美術館で「ミレー展」を見たとき、あまりの素晴らしさに息を飲みました。

ミレーは、「種蒔く人」という絵を2枚描いています。ふたつとも画面サイズや構図まで、ほとんどそっくりの絵ですが、「種蒔く人」のうち1枚はボストン美術館にあり、もう1枚は山梨県甲府市の山梨県立美術館に所蔵されています。どちらかが模写であるというのではなく、どちらも本物です。この「種蒔く人」は、岩波書店のロゴマークにも使われています。ミレーの代表作といわれる「晩鐘」、「落穂拾い」などの農民画は、バルビゾンに移住してからの作品です。ミレーは、すばらしい絵を残してくれました。

先日は、3年ぶりに「落穂拾い」を見ることができました。