生のいのちを撮りつづけた野道夫。

 

星野道夫。

 

これは、ぼくの1996年の記憶である。

星野道夫氏(1952-1996年)は、写真家であり、探検家であり、詩人である。彼はいつも、はるか遠くを見つめていた。アラスカでの彼のスナップ写真は、ぼくなどには想像もできない多くの体験を浸み込ませた顔をしていて、その死が惜しまれる。――1996年に事件は起こった。ТBSの番組の取材目的でロシアを訪れていた写真家の星野道夫が、ヒグマに襲われて死亡してしまったのである。

1996年8月8日の深夜4時ごろのことだった。

星野の悲鳴と、ヒグマのうなり声が暗闇のキャンプ場に響きわたった。小屋から出てきたТBSスタッフは、

「テント!ベアー!ベアー!」

とガイドに叫んだ。ガイドが懐中電灯で照らすとヒグマが星野を咥えて森へ引きずっていく姿が見えた。

ガイドたちは大声をあげシャベルをガンガン叩いたが、ヒグマは一度頭をあげ、そのまま森へ消えていった。テントはひしゃげていてポールは折れ、星野の寝袋は切り裂かれていた。

ガイドが無線で救助を要請し、ヘリコプターで到着した捜索隊は上空からヒグマを捜索し、発見すると射殺した。星野の遺体は森のなかで、ヒグマに喰い荒らされた状態で発見された。

 

カメラがとらえたヒグマの写真。

焚き木のまえに座っている氏の姿。

カリブーたちが向こうにたむろする広大な大地。

星野氏は、暗闇のなかで毛糸編みの防寒帽をかぶり、赤々と燃えさかる焚き火をじっと見つめて座っている。そんな姿を見て、ぼくは、彼が見つめていたのはいったい何だったのだろうとおもう。

遺作「第1巻 カリブーの旅」を見て、雪原の向こうに見える朝日が、記憶のなかにある北海道のそれを思い出させた。風の音、雪崩の音、ボルゾイ犬の遠吠え、雪を踏みしめるギュッ、ギュッと鳴る靴の音。

ずっと聞いていたぼくには、なつかしい音である。

大地に根を下ろした民家は、ほとんど雪に覆われて埋もれている。暑寒別岳のてっぺんに光があたって美しく見え、増毛のほうの空がまだ闇の色をしている。――そういう情景が思い出される。「カリブーの旅」に描かれた風景は、それよりもずっとずっと大きくて、人跡の余焰(よえん)はどこにも見られず、自然の不気味な唸り声だけが聞こえてくる。

写真家の見つめる動物たちは、それでもみんな温かい。血筋を強くおもわせる動物たちの親子は、寒々とした風景のなかで、可憐な姿でこっちを見つめているのだ。

星野道夫の写真を見るのは、かんたんなことだ。だれでも手に取って彼の遺作をながめることができる。だが、

「野生のヒグマは、遡上する鮭の多いこの季節に人を襲わない」

と彼はいっていたという。そういう考えから星野はテントに泊まりつづけた。

星野を襲ったヒグマは、地元テレビ局の社長によって餌付けされていたヒグマだった。自然を生きるヒグマではなかった。人間のつくった食糧の味を知っていたのだ。

さらに、この年は鮭の遡上が遅れぎみで、食糧が不足していたという。この不運をどう理解していいのだろう。

この事件から21年がたった。

ぼくの北海道体験は、もう60年も前のことである。

母が、雪のなかに貯蔵していた大根を取り出すと、いった。

「お兄ちゃんはきょう、恵岱別のおばあちゃんの家に行くのよ。これ、持っていって」といった。

休日は何かと用事をいいつけられる。

父はひとり山に行って、きこりの真似事をしている。営林署の人と、毎日山に入っている。朝から入ると、夜まで家にもどらない。

大きな大根やにんじんを10本ぐらいカゴに入れて、母は雪の上に置く。馬そりでそれを運ぶのだ。その行き帰りが楽しかった。まえの晩、星が見える日の翌朝は、晴れていても、とても寒い。馬の吐く息は真っ白だった。

ぼくはもう中学生になっていた。

馬を連れて、6キロの道をひとりで恵岱別まで行く。なんていうこともない。ボルゾイ犬もいっしょに行く。そこは父の実家なのだが、おばあさんの具合がよくなくて、ずっと寝ている。母はようすを見てきてといった。そうやって、子供のころは、よく恵岱別まで馬で往復した。

とうぜん途中で、ブリザードにも遭う。

日本の南極観測隊の分類によれば、A級ブリザードというのは、風速25メートル以上、視界100メートル以下が、6時間以上つづくときにいうそうだ。ぼくは測ったことはないけれど、一日じゅう台風なみに強風が吹き荒れることがある。

そうなると、街道は大吹雪になり、道なき道を歩くことになる。

「かまうもんか!」

たよりになるのは電柱だけで、それが目印だった。

北海道の子供たちは、みんな元気で、だれでも体験していることなので平気だ。それで子供が遭難したという話もない。しかし、たいていの家では、そういう日に子供を使いに出すことはしない。けれども、わが家は違った。

ブリザードなんて平気だった。馬と犬がついてさえいれば、どこへだって行けた。いま、星野道夫氏の撮られた写真を見て、自然界のさまざまな表情、その厳しさをあらためて思い知らされる。

サハ共和国――むかし、万年凍土(ツンダーラ)の国、ヤクート自治共和国にぼくが北海道から船で行ったとき、その寒さを体験している。

カラフトやヤクート自治共和国のあたりは、酷寒の地。氷点下50度にもなる。ソ連時代のヤクーツクの街は、ツンドラばかりで、建物も道も、盛り上がったり、凹んだりしてゆがんでいた。ロシアの人びとは、万年凍土のことを「ツンダーラ」と呼んでいる。

 

ツンダーラ、ツンダーラ、

はるかかなた、どこまでもつづくよ。

銀色の世界。

エ、ヘイ、エヘイ、エイ、エイ、エヘイ……。

雪また雪の終わりなき道を、

わたしのトナカイ矢のように行け。

吹雪の中にながいみちのり暮らして、

この大地、大好きになった。

 

これは、ロシア民謡「ツンダーラ」という曲である。

友人のテノール歌手・早坂正男さんの歌うすてきな曲だ。彼は北海道合唱団のメンバーのひとりである。北海道・北竜町も寒いときは氷点下20度ぐらいになった。それでも生き物たちは寒い冬を生き抜く。

――15歳のぼくは、凍りつくような、北緯43度線の北海道に生まれたことを誇りにおもっている。