タドリの道。

 

きのう、遠来の方から、懐かしいメールをいただいた。北海道のいなかで過ごした幼な友だちで、悦子ちゃんは、中学校を出ると村の元ロシアの軍人の男といっしょになった。その幼妻の顔を、ぼくはいまでも忘れない。

小学校に通っていたころ、ぼくは彼女といっしょに通学した。

ある日、ぼくは馬に乗って学校に向かう途中の道で、彼女を見つけた。その子を後ろに乗せて、学校の校門をくぐり抜けるとき、彼女は恥ずかしそうに顔を赤らめた。仲間のみんながいたからだった。

ぼくはなぜか、誇らしくおもった。

馬に乗って通学する生徒はひとりもいなかったからだ。

そのとき以来、ぼくは悦子ちゃんのことを好きになった。

ぼくがはじめてラジオを聞いたのは、彼女の家だった。ぼくの家にはラジオはおろか、電気もなかった。わが家はホヤつきランプの灯りの下で食卓を囲んだ。音の鳴るものは、ヴァイオリンだけだった。ぼくは小学校にあがるまえからヴァイオリンを弾いていた。

母屋の外にある薪小屋で、ぼくは薪に腰かけてヴァイオリンを弾いた。そのとき、悦子ちゃんがいちばん熱心に聴いてくれた。

彼女の父親は村の郵便局に勤めていて、農繁期になると、父親が田んぼの仕事に精を出していた。ヒマになれば、郵便局の仕事をしていた。

そのころは、新聞は1日遅れで、朝早く、三谷街道はおじさんが配達していた。

三谷街道は、砂利道で、ほこりだらけだった。

ある日、ぼくは近くの家から、音をたてて生け垣を捷(はしこ)く逃げる男と鉢合わせになった。そのあとから、

「泥棒!」と叫びながらやってきた、大柄な家主の駆けだすようすをながめていた。ぼくは犬をたたきつけ、

「ほら、あの男を追え!」といったが、大柄で脚の速いボルゾイ犬は、ぼーっとして、ぼくを見つめるだけだった。

「やつを追え!」といって、遠ざかる男を指さした。

犬は走って行った。たちまち男に追いつき、やつの膝あたりをくわえた。男は何かいったが、観念したとみえて、道の真ん中でひっくり返った。敏捷この上ないボルゾイ犬の膂力(りょりょく)に男はひるんだようだった。やがて家主がやってきた。

「おまえ、3人組のひとりだな!」と叫んだ。

泥棒は、まだ少年の顔をしている。

「ぬすんだものを、出せ!」といっている。彼は、ごめんなさい、といって、地面に顔を摺りつけた。

「はやく出せ!」と家主はいった。

男はズボンのポケットのなかから、変なものを取りだした。仏壇にあった仏具だった。小さな蝋燭立てがひとつ出てきた。

「こんなことをすると、成仏できんぞ! どこの子だ。名前は?」といった。

「それだけはかんべんしてくれ。……この犬に、やられた」といっている。

「どこをやられた?」

少年は、ズボンの裾をたくしあげ、ふくらはぎを見せた。歯跡が食い込んで、血が出ていた。

「おまえ、犬にあやまれ。そうしたら赦してやってもいいぞ!」といった。

「ごめんなさい。……」といった。犬は知らん顔をしていた。犬の顎に手をのばすと、犬は舌を出して少年の指をなめた。

「それならいい! もう、こんな悪さはしないこった」と家主がいうと、

「坊や、すまんな」といって、ぼくに挨拶を送った。

ぼくはこの少年の顔をいまでもおぼえている。

おぼえているばかりか、昭和44、5年ころ、東京・中央区の銀座教会の近くにあった、さる日本建築士連合会というところで偶然会っている。彼はとうのむかしに忘れているとみえ、初対面の挨拶をし、名刺を交換した。

ぼくは、その年のクリスマスの日に、今年最後の校正刷りのすり合わせにやってきたのだった。ぼくは、同連合会の記念誌発行の仕事を請け負っていた。

事務局長とは親しくなり、そのとき茶を飲みながら、彼と話し込んでいた。

「北海道の人でしたら、会えば即座にわかりますよ」とぼくはいった。

「そうですか。……うちにもひとりいますよ。ほら、彼ですよ」といい、そこで会ったのが、かつての少年だった。ぼくよりひとつ学年が上で、足の速い生徒だった。

「田中さんがね、北海道の人なら、会えばわかるというもんだから、きみを呼んだのさ」と、事務局長はいった。

「田中さんは、北海道のご出身だそうですよ」といって、ぼくを紹介してくださった。彼の名刺には、Kなにがしと書かれている。ぼくは当てずっぽうで、こういった。

「北海道は広いですが、お生まれは、北空知のほうですか? 雨竜とか、北竜とか、……滝川方面じゃないですね? 滝川、新十津川は、別系統でしょうね、……」などと勝手なことをつぶやいた。

彼の顔が急に青ざめ、

「え? そう見えますか? ……どうして、おわかりなんですか?」ときいてきた。

「いえ、なんとなくです。Kという姓は、たぶん北竜でしょう」と、ぼくは断言した。

事務局長は、どうなの? という顔をして彼を見つめる。

「まったく、そのとおりです。北竜町の出身です」と彼はいった。

「――それも、むかし合資会社倍本社があった、やわらといいましたか? そこの第2次か第3次入植者のなかに、たしか、Kという方がおられたと記憶しています。そうじゃありませんか?」とぼくはいった。

たしかにKという人はいた。そういう方なら、倍本社にいるはずだと咄嗟におもったわけである。

倍本社というのは、当時の会社の名前である。

明治26年5月17日、千葉県印旛郡埜原村から21戸の農民を引き連れて、北海道へ渡ってきた第1次入植者たちだ。その後、明治40年まで北海道への移民がつづいた。

最初は、農民たちは会社員として給料の支給を受けて生活していた。

現在、「培本社」は地名として残っている。

「いかがですか?」とぼくは尋ねた。

そのとおりだった。

ぼくとはあれ以来、一面識もない人だったが、なんとなくわかった。

「たまげたなあ。……どうしてそんなことがわかるの? じゃ、ぼくはどこの出身か、当ててみてください」と事務局長は、身をのり出して、いい気分になっていった。

そんなの、わかるわけがない!

たまたま偶然、そういうことになったまでのことだった。

それ以来、K氏は、事務所で顔を合わしても、挨拶をするぐらいで、何もいわなくなった。あのころのじぶんの秘密まで知っているのではないかと、あるいは恐れていたのかもしれない。薄気味悪い人間だとおもわれていたかも知れない。

その後は、おしゃべりをしようなどということもなく、自然に別れた。

偶然のいたずらは、おもわぬ出来(しゅったい)をもたらし、座をげんなりと白けさせてしまった。

その後、彼のことも、彼女のこともわすれてしまった。

去年、北海道で中学校の同期会があり、58年ぶりに出席して、みんなの顔をながめてきた。悦子ちゃんは出席しなかった。その彼女から、いまごろになって、とつぜんメールが送られてきたのである。

「ご無沙汰しております。先日、田中さんのこと、札幌の展子さんから聞きました。でも、わたしは病気で、同期会には行けませんでした。いまも病院にいます。やわらのこと、懐かしいです。兄は10年ほど前に亡くなりました。田中さんは、いまでも、ヴァイオリンを弾いていらっしゃるのかしら? お元気な田中さんに、お会いしたいと思っておりましたが、ある事情で、どこへも行くことができなくなりました。いつまでもお元気で、ご活躍ください」

この文面を読んで、ぼくはひどく落ち込んだ。

99人のむかしの仲間は、いま、69人になった。

ボケた人、がんを患っている人、歩けない人、耳の聞こえない人、目の見えない人、事業に失敗して、失踪してしまった人など、いろいろだ。「自由」と「解放」を夢見て海外へと旅立った人、信じがたいような時代の変化に翻弄され、自殺した人もいた。

北海道に居残って、農業に精を出し、がんばった人もたくさんいる。

なかでも悦子ちゃんは、だれよりも速く人生のスタートを切った。カラフトからやってきたロシア人の夫は、土地を持たず、海産物を商う仕事に精を出し、水産加工会社を興した。悦子ちゃんを見て、仲間のだれもが羨ましいとおもったものだ。

ぼくはその青年実業家を、一度だけ見たことがある。背が高くて口ひげを生やしていた。そして、悦子ちゃんのことを密かに応援していた。――あれから60年になろうとしている。ぼくには想像もできない、目くるめくような人生だったろうとおもった。

イタドリの小道で撮った悦子ちゃんの写真は、いまも古いアルバムにある。あのころは、みんな幼かった。