ェイクスピアのを読む。

 

W・シェイクスピア。

 

シェイクスピアのおもしろさについては、いろいろ書いてきたけれども、詩のおもしろさについては、書いた記憶がない。

そこできょうは、シェイクスピアのドラマではなく、彼の詩について少し考えてみたいとおもう。たとえば、シェイクスピアの「ソネット集」第129番の最初の連を読んでみたい。

 

肉欲の行為は 恥辱の荒野に 生命の 

精気を濫費する 行為に及ぶまでは 肉欲は

偽誓し 残忍で 血なまぐさく 罪悪に満ちていて、

野蛮 過激 粗暴 そして不信を極める。

シェイクスピア「ソネット」第129番、野島秀勝訳

 

美男子で、W・H氏の候補のひとりと目されている3代目サウサンプトン伯ヘンリー・リズリーは、21歳のとき、シェイクスピアのパトロンになった。

 

「恥辱の荒野」と訳された原文は「a waste of shame」で、たいへんみごとな翻訳である。wasteは文字通り「浪費」という意味だけれど、その音はそのままwaist=「腰」に通じる。

それにつづく「生命の精気」というのは、spiritのことで、これは中世以来の生理学が、脳髄から流れでて諸器官の機能をはたらかせ、人間の生命を保つもととなると考えられていたからである。この1語には「精液」の意味がこめられていることは明らかで、「腰」と「精液」、もうなにも注釈を必要としない、至福と悲しみ、愉悦と悪夢の、混然たる人の性(セックス)の狂を、吐き捨てるように歌ったもの、とぼくにはおもわれる。

おもしろさが、どうして人間の「下半身」に集中しているのかはうまくいえないが、古来、人間のおもしろさ、おかしさが下半身からしたたり落ちたものと考えられていたからだろう。

人間が生きている内奥には避けようのない生理的な滴りがある、悲しいも、おかしいも、みんなおんなじ生理なんだ、そう読める。で、詩人はソネットの最後のカプレット(2行連句)を次ぎのように歌い終える。

 

こうしたことは誰しも先刻承知だが 知っていてもやめられぬ、

地獄まで連れてゆかれるこの天国を 避けて通ったものは誰もいぬ。

All this the world well knows, yet none knows well

To shun the heaven that leads men to this hell.

 

とうたうのである。

野島秀勝氏の説によれば、「地獄(hell)」の語源helは「隠す、かくまう」という意味があり、ドイツ語のHohle(洞窟)や Hohl(凹所、くぼみ)という語根を持っているという。――というのも、英語はもともとゲルマン語の方言だったからだ。この語源のイメージからも明らかなように、シェイクスピアが「地獄」のなかに女陰の意味を2重露出させていることが容易に想像することができる。

さらに、ついでだが、固有名詞Helは、北欧ゲルマン神話のなかでは死の女神として登場し、女神であって地獄の人食い鬼女でもあるというイメージを持っている。女の性器は「歯のある女陰(ワギナ・デンタータ)」ともいわれており、ここでは男の「生命の精気」を呑み食らう吸血女という二重の意味を与えているらしい。

いま手元にあるシェイクスピアの「The Sonnets」は、W・H・オーデン(Auden)編のThe New American Library1964版であるが、その脚注にある「heaven」の意味は「the sensation (or place?)of bliss」といっているだけで、「hell」についてもまったく触れられておらず、当てにならない。ペンギン・ブックス版の「The Sonnets, and A Lover’s Complaint(Edited by G.B. Harrison, 1961)」では、ひと言もいっていない。――こんなにおもしろいのに、なぜなのだろうとおもってしまう。

「地獄(ヘル)」が語源的にいって「隠し、かくまう」ところであるという意味に大きなおもしろさがある。

男が身を隠す避難所、安息の場所、そこは呪縛の「洞窟」でもあるという二重の意味があるわけである。さらに、その語が性的陶酔の絶頂にあり、それは「死」に直結することばであることを、シェイクスピアはもとよりのこと、シェイクスピアの時代にはおそらくだれだって(詩人たちは)そうおもっていたに違いない。

「地獄まで連れてゆかれるこの天国」は、「死」にも似た境地。「避けて通れる」者が果たしているだろうか、そういっている。シェイクスピアは、彼のドラマでもそうだが、分かる人には分かってもらおうとして、どこまでも、どこまでも意味深長な語彙遊びをやっている。

シェイクスピアは「ソネット集」のなかで、こうした「黒い女(ダークレディ)」と称する女を描いた。まさしく逆倒したベアトリーチェ、――ダンテの黒の喪服を着た「永遠の女」にも通ずる女として描かれているわけである。シェイクスピアを呪縛する黒の「永遠の女」を。

いいかえれば「運命の女」たり得たのは、ただ詩に登場するふたりの性的関係においてのみのことではなかった。彼女の「地獄」=「女陰」は、他の男をもとらえていたというわけである。――他の男とは、W・Hという頭文字の名を持つシェイクスピアのパトロン、若くて美男子の貴公子である。この「ソネット集」のおよそ5分の4はこのパトロンにあてて歌われている。

なかでもW・Hを歌った126番の詩は、同性愛の気配が妖しく濃密に歌われている。

当時、同性愛というのは、ソドムの罪に匹敵するものといわれ、その刑法がまだ健在だったころの話である。――W・Hとシェイクスピアとの同性愛は、ソクラテスとアルキビアデスとの愛にひとしいとおもわれ、それは純粋の愛、精神的(プラトニック)な愛であり、また、絶望の愛でもあった。

 

私の情熱を支配する両性具有の君は

まさに 自然の女神がみずから描いた美女の顔だ。

心もやさしい女性のそれで しかし不実な女の

変わりやすい浮気ごころとは 無縁のものだ。

A woman’s face, with Nature’s own hand painted,

Hast thou, the master mistress of my passion;

A woman’s gentle heart, but not acquainted

With shifting change, as is false woman’s fashion; 

シェイクスピア「ソネット」第20番、野島秀勝訳

 

これは第20番のはじめの4行だが、いわゆる問題のソネットである。

古来、この解釈をめぐっては諸説ふんぷんで、それだけにおもしろい箇所である。両性具有の原文は右のとおり「master mistress」である。この原典テキストのもとになっているのは、1609年、トマス・ソープという人が無断でこっそり出版した「シェイクスピア十四行詩集」の4つ折り判テキストである。

シェイクスピアは1616年に52歳で亡くなっているから、45歳くらいのときの作。詳しくは分からないけれど、だいたい18世紀以降の版では、あいだにハイフンを入れてmaster‐mistressとしたものが流布していたようだ。

いま手元にある版は、いずれもハイフンのないものである。つまり、ソープ版を踏襲していない。現在は、ほとんどそうなっているものとおもわれる。

ハイフンなしのmaster mistressならば、masterは形容詞的にはたらいて、「至高の恋人」という意味になる。ハイフンでつなげば、ふたつの名詞の重みは等分になって、masterは男主人、つまり若さま、若檀那という意味になり、「若き男の恋人」となる。mistressは「女の恋人」そのものずばりである。

したがって、W・Hという青年を「至高の恋人」と呼びかけ歌うのは、女の恋人を歌うというソネットの、古来、伝統的な約束に違反した白の女にたいする黒の女を歌うのと同様、シェイクスピアが意識的に宮廷風恋愛以来の抒情詩の伝統をパロディ化しているということになる。

男(マスター)を「至高の()恋人(マスター・ミストレス)」と見たてることは、それだけでも「伝統」を汚す神聖冒涜の行為であったに違いない。このmistressには「娼婦、情人」という意味もある。ましてや、ハイフンつきの「master‐mistress(「若き男の(女の)恋人(マスター))」となれば、男=女の代わりに、近代の心理学がいうところの倒錯がもっと深くはたらくことになりそうだ。で、男=女という倒錯した性の等式を保証する訳文が「両性具有」となった、そのように解釈することができる。それがたいそうおもしろい解釈になる。

読み方によっては、こうも考えられる。

当時の舞台俳優は、歌舞伎とおなじく、女役は声変わりのしない少年の仕事だった。少年俳優は、両性具有者(ヘルマロデイトス)であったともいえるし、シェイクスピア自身、座つき作者であると同時に、俳優でもあったのだから、そんなふうに勘ぐりたくもなる。そういう意味でも、この訳文はひじょうに適訳だし、解釈もおもしろいとおもう。