森麻紀さんの歌う「You raise me up」。

 

0歳のぼくの春。

 

昨年12月、JR北海道の留萌本線、留萌(るもい)―増毛(ましけ)間で路線が廃止された。さいきんの増毛町は知らないが、子どものころ、――たぶん小学3年生くらいのころ、――子守りの女の子といっしょに増毛の海で泳いだ。増毛村には母方の遠い親戚の子がいて、親は漁師をしていた。

家族はみんな真っ黒な顔をしていた。貧しそうにしていたが、みんな明るく暮らしていた。

みんなは、海を見降ろす静かな山間(やまあい)のなかに建つ小さな家に住んでいた。家のまえで、家族全員でアミの修理をしていた。

そこの長男のYくんは、やわらのぼくの家に遊びにきたことがある。汽車に乗ってやってきたのではなく、親といっしょに増毛の山を登って、歩いてやってきたのである。子どもの脚では、やおら1日を要する距離だ。道はまだちゃんとしたものではなく、山越えの道は、けもの道のようだった。やわらからいつも雪をかぶった暑寒別岳をながめて過ごしていたから、あの山を越えてやってきたのかとおもうと、おない年のYくんのことを、ぼくは尊敬した。

その道には、よくクマが出るという。そういってぼくを脅したのだろうとおもっていた。

だが、ちがった。

村の何人もの人びとがクマに出会った話を聴くようになった。大人たちは、用心して、子どもたちを近づけなかった。

増毛は、高倉健さんの出る映画「駅――Station」の舞台になったお蔭で有名になった。その後、高速道路が開通してからは、電車を利用するよりも、クルマで高速道路を走るほうがずっと早いので、留萌本線に乗って増毛に行く客は激減した。JR北海道は、100円稼ぐのに、4500円の経費をかけていた。

少年の記憶たしかな増毛海

ナターシャ泳ぐ生まれたままで。

 

ざくろの実海に浮かべて遊ぶ日の

あの青い空、増毛の空。

 

増毛の海荒波つよき海岸に

野うさぎの顔つき出してをり。

 

少年のころに見た世界は、とてもおもしろかったなとおもう。――あまりに遠い記憶なので、いま、はっきりしたイメージはない。

ただ、小学校にあがったとき、大きな日の丸を描かされた。「君が代」斉唱はごくふつうだった。小学校へあがったとき、はじめて女子生徒と机をならべて座った。ドキドキした。相手の女の子はお寺のK子ちゃんだった。いま、ちらっとそんなことをおもい出す。

軍隊あがりの先生がひとりいて、子どもたちによく体罰を与えた。

そういう怖いおもい出もある。

霜降りの学生服に、ズックでできたランドセルを背負って学校へ通った。ときどき馬にまたがって行った。

北竜村の真竜小学校の建物は木造2階建てで、全館ともヨコ板貼りの、いかにもいなかの学校という感じだった。生徒数は、45人入りの教室が18室あった。全部で800人くらい生徒がいた計算になる。

ぼくは、1年生のときは、篠原慶子先生が担任だった。大きなグラウンドには、これまた大きな石があり、全校生徒の記念写真は、みんなそこで撮った。

6年生になると、担任の先生が変わり、山川武先生になった。まだ独身の先生だった。6年生のときに、篠原慶子先生と、担任の山川武先生が大恋愛をし、ふたりは結ばれた。

われわれ男子生徒は、いろいろうわさ話をし、先生がデートをした翌日、眠たそうな目をして登校してきた。それを見た生徒はいった。

「先生、おはようございまーす。先生の目が、真っ赤です」と、塚田の律ちゃんが声をかけた。

「おはよう、……そうか」と先生はつぶやき、しばらくして黒板に文字を書いた。

《1時間目は、自習》と書いた。

書き終わると、先生はどこかに行ってしまった。自習なんか、みんなやるわけなかった。わいわいやっていると、先生がひょっこり戻ってきた。

「田中、おまえ字がじょうずだな。……6年生のなかでいちばんじょうずだ」と褒めてくれた。

「国語の本に書いてある、好きな漢字を、黒板に書け。……みんなは、田中の書く漢字をノートに書きうつせ。それがきょうの自習だ」と先生はいった。そして、また先生は雲隠れした。その後の話はおもい出せない。

山川武先生のことは、あとで知ったが、書道5段の腕前だったそうだ。学校の体育館のいちばん高いところにある、真竜小学校のモットーを揮毫したのは、山川武先生だったと聞かされた。《前進》と書かれていた。

6年生になるまで、ぼくは出席簿の1番先に書かれていて、「起立!」と号令をかけ、「礼」、「着席」と号令をかけるのは、いつもぼくの役目だった。クラス委員は、岩田達三くんだった。彼は北竜中学校の岩田校長先生の長男で、長男のくせに、「達三」といった。

クラスでいちばん成績がよかったが、ひじょうにおとなしい子だった。ぼくは、先生にきけないことは、彼にこっそり教えてもらっていた。女子のクラス委員は塚田律子さんだった。この子は、口から先に生まれてきたみたいにおしゃべりだった。のちに、中学生になって、ぼくは律っちゃんを好きになった。

「ぼくは律ちゃんのことを、好きだったんですよ」と本人に告白したのは、平成19年の秋だった。彼女の経営する北海道・砂川市の美容室に出向き、そこで告白した。彼女は、そのころのぼくのことを何もおぼえていないといった。

「卒業アルバムを見たのよ。でも、田中さんのこと、まったくおぼえていないのよ、ごめんね」といった。

増毛の海で、子守りのナターシャがぼくを叱ったのは、ふざけて彼女のお尻をさわったからだった。ぼくはさわりたかった。ぼくは10歳で、性に目覚めた。家ではいつも、彼女といっしょに風呂に入っていたのに、いちども関心をもたなかった。風呂の湯気で、ホヤつきランプの灯りひとつだけでは何も見えない。うすぼんやりとした裸を見ていた。サハリンから渡ってきたロシア人・ナターシャは、からだは父よりも大きくて、きれいだった。

増毛で泳いだ彼女は、すてきだった。女の子の裸を見たのは、そのときがはじめてだった。ぼくの青春は増毛ではじまった。だから、死ぬまでに一度は、増毛の海を見てみたい。

 

増毛の海は、なつかしい。

北海道はなつかしい。

あの人、この人、みんななつかしい。

きょうもつつがなく、暮れてゆく。