をつけて。

 

父がむかし、北海道のいなかの、恵岱別にあった吊り橋が落ちて、婦人と幼い子どもが川に飲み込まれて死んだ話をしてくれた。――昭和28、9年ぐらいだったろうか、それが記憶の最後の砦だった。

当時を知る人びとがまだ生きていた。北竜村農業協同組合の10年誌には三谷農場を代表して、富井直さんが文章をお書きになっている。それから間もなく亡くなられた。やわらをつくった名もなき人びとの記憶は、もう父の頭からも記録からも、どこからもすっかり消え失せてしまい、記憶をつめ込んだ人びとはみんな亡くなって、やわらの口承史は昭和30年代を境にぷっつりと途絶えたように見える。

村という社会では、ひとりひとりは脇役で、ときには舞台にさえのぼらない人びととなって、主人公にはならないけれども、家にあっては、それぞれが主人公で、無数の舞台がある。

ぼくは、歴史というのは、そういう人びとのほうにこそあるのだとおもっていた。吉植圧一郎の団長の名前はあがっても、21戸の家族たちのそれぞれの名前が口の端にあがることは皆無。しかし、舞台の外にいる多くの村人たちのために、農具や生活の小道具、それらをしつらえようとした苦心の跡がどこかにあるはず。

娘が畑仕事を、あるいは納屋や家畜小屋で仕事を手伝おうとして靴につけた糞や泥、髪にはわらしべをいっぱいつけ、ビートやじゃがいも掘りなど、収穫の仕事に精を出して働く女たちの記憶があちこちに埋めこまれているにちがいない。ふたたび春になれば畑の畝を掘り起こし、ふたたび種を植え、家畜のために食糧を確保し、ニワトリや豚や、羊を飼い、ある日とつぜんのように結婚して子どもをつくり、子孫をずっとつないできた。

――そういう物語はゴマンとあるにちがいない。もとより北海道のいなかの家には、だれでもニワトリを飼っていた。わが家の一羽しかいない雄鶏は、欲張ってとさかを2つもつけたやつだった。めずらしいといって、のぞきにやってくる年寄りがいた。庭先のパドックで、50羽ほどのめんどりが地面を突っついている。

「おまえ、さっき卵を産んだろう?」と老人はめんどりにささやいている。

牧草地の牛たちは、土手の曲がり角をまわって小屋に帰るころ、夕闇が押し寄せ、牛を追っていた恋も知らない生娘が、ある日とつぜんよそ者がやってきて、彼女をさらっていくようにどこかへ連れていった物語もある。人間は、物語を語らずにはいられない。

彼女たちの恋の行方も、きっとどこかに残そうとしていたにちがいない。ぼくはそういう記憶を描きたいとおもっていた。想像だけでもいい、物語らずにはおられない。

しかし、みんな忘却してしまい、歴史の回路はある日とつぜん遮断され、航路標識のブイみたいに、意味もなく朽ち果てたまま取り残され、道のわきの草むらにいまも転がっていることだろう。

そのむかし、いってみれば北竜の村は、まだまだ歴史の見える村だったはずである。戦争がおわってみれば、枕の下に現金をたんまり溜めこんだ人間は、大型トラックを買い込んで運送業をはじめた。北海道は広い。これからは農業だけじゃ食っていけない、人も物資も情報も運ぶ運送業が繁栄するだろうと踏んで、農家のおやじが農業を人にゆずって新事業をはじめたりする。

そしてある者は製材所をつくり、ある者は耕運機の運転をはじめる。

父は、笑うとあごに笑窪(えくぼ)をつくったが、それが恥ずかしいといって髭を生やし、元機関銃兵の顔をして、新田開拓に汗をかいた。田んぼではボルゾイ犬が父から離れなかった。馬にひかせて大きな木の根っこを掘り返すと、ボルゾイ犬がくんくん鼻を鳴らして根っこの臭いをかいでいた。なかから泥炭層があらわれ、父はそれをピートにした。ピートにはモルトウイスキーの香りがあると父はいった。ピートには何万年という時間の堆積がある。

「北海道の土には匂いがあるんだ」と父はいった。土のなかから、ときどき赤っちゃけた緋色の小石が出てきた。エゾマツの根っこからは古代の便りがあらわれる。そしてその臭いは生き物たちをいい気分にさせる。

ピートだけじゃない。

北海道は、はるか6万年のむかしから、アジア大陸と陸つづきだったころ、恐竜たちがやってきたように、北海道の地に流れついていた人びとがいてもおかしくない。現に、歴史が浅いアメリカでさえも、ネイティブ・アメリカンが1万年もむかしから住みついていたというりっぱな口承史(口伝による物語史)がある。

北海道にネイティブ和人がいても、けっしておかしくない。

そういう北海道の、ずっとずっとむかしの地を、われわれのはるか遠い先祖たちは、未踏の地を開拓し、書きことばなきネットワーク社会を形成していたかもしれないのだ。恐竜しかいなかったという説には、ぼくはどうしても納得できなかった。

もしかしたら、北竜村の地の下深くに、祖先の骨が累々と眠っているかもしれないぞとおもった。数10年前、アメリカ・サウスダコタ州で、化石ハンターのスーザン・ヘンドリックソン女史によって、6500万年まえの肉食恐竜として過去最大のティラノサウルスのサンプル「Sueスー」の化石が発見された。

スーの頭は、完全なかたちで見つかり、オークションにかけられて、なんと30億ドルという桁外れの値段がつき、話題になった。化石まで不動産の対象になるアメリカは、日本ではちょっと考えられないけれど。土地を所有する地主によってオークションにかけられた。

――そんな村であることなんかちっとも考えなかった北竜の子どもたちは、泳ぎながら、過ぎていく夏は、あっという間に過ぎていくことだけはちゃんと知っていた。

ぼくが小学6年生ぐらいのころだった。

川べりの砂場に小さな湾をこしらえて、水だめをつくり、そこにトマトを浮かべていた。食べるころにはちょうどよく冷える。泳いだあとで、それをみんなで食べるのだ。ぼくの家から歩いて10分くらいのところに浅野さんの家があった。

鍛冶屋と精米所と農家兼業のおもしろい形をした家だった。はじめは農家で、つぎに鍛冶屋をはじめ、そして長男が大きくなると精米所のスペースを増築し、だんだん建物がふくらんでいって、おかしな家になった。

浅野さんの家に、ぼくの先生がいた。

若くてきれいな女の先生で、やがて、同僚のハンサムな男性の先生と恋に落ちた。同僚の女の先生と恋敵になり、浅野先生はやぶれてどこかへ転勤していった。浅野先生は、小学校でも超美人の若い先生で、転勤になる少しまえ、ぼくらの担任の先生が病気になり、そのあとがまに浅野先生が担任になった。担任になってすぐ、三谷のぼくの家にあいさつにやってきた。

学校の先生がわが家をおとずれるなんて、かつて一度もなかったので、ぼくは、緊張した。父は恐縮して、直立不動の姿勢であいさつをしていた。家に入り、お茶を飲みながら、父は何か話していたが、母は病気で、寝室でずっと寝ていた。子守りのお姉さんが、そのあたりをうろうろしていて、隠れていたぼくを、居間に引っ張りだした。ぼくがお辞儀をすると、

「よろしくね?」と先生はいってから、ぼくの顔をじっと見つめた。ぼくは、ぶるっと身震いした。

そのときのことはもう覚えていないけれど、それから、先生は外に出て、玄関のステップで、また深々とお辞儀をした。そのたびに、父は直立不動の姿勢で、敬礼でもするみたいな勢いで、「よろしくお願いいたします!」といった。それから、庭先のパドックのほうを見ると、そこに馬が突っ立っていた。ただ突っ立っていたのではなく、やつは妄想していたようだった。巨大なモノを大きく伸ばしている最中だった。

なんてこと、するんだ! こいつ! とおもったが、あとの祭。

先生はちらっと、馬の巨大の一物に、一瞬、釘づけになると、恥ずかしそうにうつむいた。

「こんなところを、お見せしまして、……どうも、すみません」と、父が謝った。

「――いいえ、……」とかなんとか先生はいったようだったが、浅野先生は大いに面食らって顔が真っ赤になり、どんなにつくろったことばも、ほとんど台無しになった。

その浅野先生の妹さんに真知子ちゃんという、ぼくの一級下の年の離れた女の子がいた。彼女は小学5年生だった。ぼくは真知子さんといっしょに遊んでいた。泳ぐときも、いっしょだった。

彼女は小学生のころからブラジャーなんかしていた。小学生でブラジャーをしている女の子なんかめったにお目にかかれなかった。彼女のおっぱいが大きくふくらんできたからだろうか。バストが特別大きいとはおもえなかったが、もしかしたら、早く大人になりたくて、先生のブラジャーを、おさがりでもらっていたのかもしれない。

ぼくの家のまわりには、福田くんをのぞいて、みんな女の子たちばかりだった。

女の子の胸といえば、フランスの作家カミュの「異邦人」には、こう書かれている。

「彼女は、階段を下りてきた。その軽やかな重みははずんでいた」と。ジャン・ルグランの「ジャックの日記」には、「お医者さんごっこをするのは、女の子たちの大好きな遊びだが、両親には決していい顔をされなかった」と書かれている。ぼくらは納屋で、ときどき福田くんとふたりで、女の子たちとお医者さんごっこをしていた。ある日、子守りのお姉さんに見つかってひどく叱られたが、彼女はこういった。

「ゆき坊も、もう男になったようね!」と。その意味を、ぼくにはわからなかった。

隣りの富井家の初子ちゃんは、夏祭りになると、出稼ぎの女の子から口紅をもらって、喜んでつけていた。富井家とは反対側にある佐藤家の順子ちゃんは、夏にはイチイの実をたくさん食べて、口のまわりを真っ赤にしていた。ときどき指で、塗りむらがないように、手鏡を使って丁寧に塗っていることがあった。

ぼくは馬に鞍をつけ、アブミをつけると飛び乗って、パドックをあとにした。すると、

「わたしも乗りたい!」と、順子ちゃんが叫んだ。ぼくは馬をバックさせ、野積みしている丸太のそばで、彼女を後ろに乗せた。うわーっと彼女は叫んだ。そしてぼくのからだにしがみついてきた。彼女は可愛い女の子だった。

「いいか、手をはなすんじゃないぞ!」というと、彼女は「うん」といって、さっきよりもぎゅっと抱きついてきた。このとき以来、ぼくは彼女のことを好きになった。

ぼくは、やわらの街まで行こうとしていたが、順子ちゃんは人に見られたくないといって、しぶった。そしてぼくらは街とは反対側の田んぼ道をすすみ、恵岱別川の川岸へと向かった。みんなでよく泳ぎに行く道だ。馬は嬉しくなったのか、ウォーク(並足)から、いきなりトロット(速歩)になった。

「きゃー!」といって、順子ちゃんは叫んだ。たぶん、彼女の顔がぼくの脇腹のあたりにあった。彼女はますます強く抱きしめてきた。そしてぼくはふたたびウォークにすると、「怖い、怖いわ!」といった。ますます可愛いなとぼくはおもった。彼女は大きくなって、小学校の先生になった。