ニコルソン・イカーの「しもし(Vox)」を読む。

 

ニコルソン・ベイカー「もしもし(Vox)」(岸本佐知子訳、白水社、1995年)。

 

「いま何着てるの?」と彼は訊いた。

「グリーンと黒の小さな星がついた白いシャツでしょ、それに黒のパンツ、グリーンの星と同じ色のソックスと、9ドルで買った黒のスニーカー」と彼女は言った。

「いまきみがどんな風にしてるのか、知りたいな?」

「ベッドの上に寝っころがっているところ。ベッドは珍しくメイクしてあって、これは今朝やったの。何か月か前に母が送ってくれた、昔うちで使っていたようなシュニールのベッドカバーがずっと新品のままで、何だか申しわけないような気がしていたんだけど、今日の朝になってようやくそのカバーでベッド・メイクしたの」

ニコルソン・ベイカー「もしもし(Vox)」、岸本佐知子訳、白水社、1995年

 

ニコルソン・ベイカー。

 

――こんな書き出しではじまる米の作家ニコルソン・ベイカー中期の作品です。Nicholson Bakerは1957年の生まれですから、ちょうど60歳というところ。彼の作品はひじょうにショッキングな小説が多くて、びっくりさせられています。それもむかしのことです。

いま彼は、何を書いているのか、ぼくにはわかりません。

初期の傑作「中二階」という作品はすごかったなとおもいます。

ひとりの男がエスカレーターをのぼっていく。ただそれだけの話なのですが、のぼった先で何か起きるのか、とおもうけれど、何も起こりません。多くの読者は、きっと何か起きるにちがいないとおもって、先を読みすすむわけですが、一向に事件らしい事件も起きず、文章はたんたんと書かれていて、それなのに、息もつかせずスリリングな物語を読まされるというわけです。

これって、米短編の泰斗アンブローズ・ビアスじゃないけれど、彼の「いのち半ばに」に描かれているような、戦慄と戦いに明け暮れるある南部の兵士が処刑される瞬間を描いたものと、その戦慄の部分だけは、なんだかとても似ているような気がします。

一瞬を切り取って、あるものを、迫撃砲のように標準をさだめて狙い撃ちする処刑のシーン。それは非日常の世界を描いた物語なのです。処刑される男は、足元に流れる川を見て、おれはきっと生き抜いてみせるぞ! とこころに誓います。

「ねらえ!」の号令のあと、すこしたって、

「撃て!」の号令が発せられます。

そして、銃殺刑が完了するまでのほんの一瞬、彼は橋の踏板を蹴って、川にとび込みます。後ろ手にされた男は、そんなことはどうでもいいとばかりに、水深くもぐり込み、息をこらえて泳ぎます。そして、どんどん泳ぎ、男はふるさとを目指して泳ぎきります。

そして岸にあがり、林のなかを一目散に走り、何日もかけて彼はふるさとにたどり着きます。そして、わが家で妻の姿を見て、おーい、と声をかけます。妻は振り返ります。妻に抱き着こうとした瞬間、――彼は銃殺刑にあうという物語なのです。こんなに短い小説なのに、男の生きようとする本能は、まるで永遠の一瞬のように頭のなかに去来します。去来した物語だけを描いた小説。

アンブローズ・ビアスの「アウル・クリーク橋でのできごと」は、ぼくには忘れられない小説です。

この「中二階」も、はらはらどきどきがあり、それでいて、とてもユーモラスで、巨大なビルの中二階のオフィスに行こうとしている、ごくふつうのひとりの男の話なのです。

昼食のついでに、近くのコンビニエンスストアで、靴ひもを買い、ふたたびオフィスに戻っていく。そのオフィスにあがっていくほんの数10秒のあいだ、彼の頭によぎる出来事を描いたものです。

ぼくは、この小説を読んで、それから20年もたってから、「晩生内まで」という小説を書いてみました。

北海道の晩生内(おさきない)は、国道275号線にそった小さな街ですが、冬場、クルマのオイルが抜けてしまい、晩生内で立ち往生しているという男を、クルマで迎えに行くという話を書きました。そうして、運転しながら、「ぼく」は、むかしのことをいろいろ想いだすというストーリーなのです。

ニコルソン・ベイカーらしいなと気づかされるシーンは、いろいろあります。

人生を形づくっているものといえば、かなりの割合で、じつに細やかで、じつにあほらしいほどの些末な出来事や、モノの手触り感や、生活の手触り、――テクスチュアにいたるまで、――あらゆるモノに拘りながら、ああでもない、こうでもないといいながら何かをその都度決めずにはいられません。

たとえば、靴ひもが切れる原因について、ホッチキスのデザインの変遷について、ファーストフード店のストローが、紙からプラスチックに変わって不便になったり、牛乳の紙カートンのすばらしい機能性や、トイレの便座が家庭用はО型なのに、なぜオフィスではみんなU型になっているのだろうか、とか、ミシンを発明した人は天才であるとか、……まあ、そんな話がえんえんとつづられていくわけです。

――これが「中二階」を読んだときのぼくの感想です。

原題の「Vox」というのは、ラテン語で「声」という意味です。vox populi vox dei 「天声人語」でおなじみのことばですね。神の声、すなわち人の声。

「もしもし」は、彼の4作目にあたるそうですが、寡聞にしてぼくはくわしいことは分かりませんが、がらりと趣きを変えて、そこにはふたりの男女が登場します。アダルト・パーティ・ラインで出会った一組の男女がおたがいの声に惹かれ合い、「奥の個室」と呼ばれる1対1のラインに移動して、えんえんとことばの遊戯を繰り広げる、という小説です。

――ぼくはラインはやりませんが、スカイプの経験があります。

そこでは「会議」と呼ばれる仲間のひとりの紹介で、スカイプに加わったことがありました。

けれども、夜中のためか、10人いれば、うち1、2人は眠っていたりして、おもしろいとはおもえませんでした。だいたいいつも1対1でやります。まあ、それと似ているかもしれません。

「いま何着ているの?」からはじまって、最後にヘッドセットのスイッチを切るまでが、リアルタイムで克明に描かれていきます。

小説みたいに、説明の部分は少しもなくて、そこはとってもリアルです。ふたりは大学を出ていて、そのふたりは「隠しごと」はいっさいしないというルールを取り決めてやり合うわけです。

ふたりの会話は、セックスのまわりをぐるぐるまわって、ときどき脱線したり、別の方向に話がすすんだりしながら、

「20分ぐらいかけて、少しずつ明るくなっていくんだ。いまはまだうんと深いオレンジ色の光だ。もちろん、こんなにあくせくした毎日じゃ、めったに眺める機会はないけれど、でもたまに見ると、本当に美しいと男う。あんまりゆっくりした変化なので、光の強さが増してだんだん明るく輝いて見えるのか、それとも空が暗くなっていくせいなのか、わからない――もちろんその両方なんだけれど、どっちが主でどっちが従なのか判別できない。そしてある一瞬、たぶんあと5分ぐらいしたら、街灯の色と空がまったく同じ色、あのグリーンとスミレ色と黄色を混ぜあわせたような色になる瞬間がある。すると、通りの向かいにある街樹の葉のなかのその部分だけぽっかり穴が開いて、その向こうに空がのぞいているように見えるんだ」

――こういう会話がたくさんあって、えんえんとつづきます。

これは、ことばを使った一種のゲームのようでもあり、ことばだけで、おかだいに刺激し合い、「仮想の愛」をつくりあげていく。「もしもし」はまぎれもなくセクシーな小説ですが、それは、「セクシーであるように」という意味なのでしょう。

どう見ても、そこには仮想のゲーム以上の発展はありません。それはそうでしょうとも! ふたりは顔を突き合わして会話をしていても、けっし手触れることもできないわけですから。ストイックなまでの展開なのです。そういうストイックなものがあればあるほど、気分はよりセクシーになる、というのでしょうか?

読みおわって感じたぼくの感想は、いつも最後の一線を越えられないストイックなもの、それをはばむ巨大な壁に立ち向かう永遠の「声」としてひびきわたります。

ニコルソン・ベイカーのいいたかった物語は、これではないか、とぼくはおもいました。――ところで、ぼくはさっき、ヘッドセットを使う話を書きましたが、彼らはパソコンでやり取りしていないようですから、手のひらサイズのスマホだとしたら、イヤホーンを使っていたのでしょうか。ぼくにはわかりません。

そして時間がたち、書斎の本棚をながめていると、そこにもう1冊、おなじ作者の第2作目の「フェルマータ」(岸本佐知子訳、白水社、1995年)がありました。ぼくは意外にもニコルソン・ベイカーの作品を3冊読んでいることがわかりましたが、最後の本は、よくおぼえていません。冒頭に、「この自伝を、ぼくは《フェルマータ》と名づけるつもりだ」と書かれています。それで、おもい出しましたが、こっちのほうは、また別の機会にでも……。