Green Sandの光る去。2

 Roxette - Fading Like A Flower - tradução

 

 

透徹した眼差しで、血族を描くアリス・マンローの「林檎の木の下で」を読む。

スコットランドの寒村から新大陸へとやってくる、3世紀におよぶ時を描く壮大な物語を読んだ。アリス・マンローの渾身の作。原題はThe View from Castle Rockキャッスル・ロックからの眺め)といい、そのタイトルが付された物語も本文に収録されている。

この小説は、ぼくはすでに読んでいて、ちょうど、北海道の「北竜町をつくった人びと」という記事を書いていたときを前後して読んでいる。

たぶん、この歴史ある小説を読んで、ぼくは自分の生地のことをおもったのだろう。

アリス・マンロー自身の持っているビューアーに写る風景は、途轍もなく大きくて、巨大な一本の木のように見える。彼女は、ほかの作家が描く、現在、北米で起こっている政治や思想、権力、金や歴史といった物語には見向きもせず、ただ自分の信じるルーツを大事にして、こつこつと自分の境地を切り開いていった作家である。ぼくは彼女の本をたいして読んでいないが、どれを読んでも、ひとつの一本の木を描いているな、という印象を持つ。

この小説は、一族に流れるスコットランド系の血筋をたどり、自分の人生を振り返る、という物語になっている。このような切り口で語る物語は、彼女の作品にはとても多い。

けれども、彼女の語る物語は、ただ一点、自分の視覚を通して眺められるシーンを克明に描くことに心血をそそぐ。カナダの作家で最もノーベル賞に近い短編の盟主といわれ、この本に収録されているどの物語も、自伝的だが、やっぱり彼女はノーベル文学賞にふさわしい作家で、2013年に受賞した。

――と、ここまで書いて、ぼくは以前、マンローのこの本について、すでに何か書いたような気がした。書かないはずはないのだ。そうおもいながら、また本に目を転じる。ああ、もしかしたら、マンローの「イラクサ」について書いたのだろうか、とおもい直す。

ぼくは読む予定の本を、いつも用意しておき、必要に応じて、あるいは寝しなに、ひっくり返って読むクセがあり、いつの間にか途中で眠り込んでしまう。そうして読む本がたくさんある。ときどき付箋をつけて、何かの目印にしているのだが、一ヶ月もたつと、その目印がどういうものか、もう忘れてしまうのだ。

もう忘れてしまった目印が、いっぱいついている。

そのひとつが、「生砂(グリーン・サンド)」ということばと、「緑の砂(グリーン・サンド)」ということばである。

「まだきれいになっていないんだ。あれをホイールアブレーターという機械にかけるんだよ。風が吹きつけて出っ張りをぜんぶとってしまうんだ」

つぎは、大量の黒い粉末、というか黒い細かい砂だ。

「石炭の粉みたいに見えるけどな、なんて呼ばれるかわかるか? 生砂(グリーン・サンド)っていうんだ」 

「緑の砂(グリーン・サンド)?」

「鋳型に使うんだ。砂に結合剤を加えてあるんだよ、粘土みたいにな。アニマ油を使うこともある。だけどこんなこと、面白いか?」

わたしは面白いと答えた。――という部分だ。Green Sandという語は、きらきらしたリゾートビーチを連想する。

この部分は、たぶん創作ではないだろうとおもう。マンロー自身が子供のころ、じっさいに父とこのような会話を交わしたのだろうとおもう。こんな他愛もない話ながら、イメージが立ち昇ってくる。こういう文章が書けるというのは彼女の特技である。何も飾らない。何もつけ加えない。生(グリーン)のままの光景である。

ところで、このGreen Sandという地質学の専門用語のことだけれど、ぼくがこれまで本を読んできて、そのことばにたびたびお目にかかっている。

なぜか大文字でつづられる。たいがいは恐竜にかんする本のなかで出会っている。たとえばデニス・ディーンの「ギオン・マンテル伝 恐竜を発見した男」(河出書房、2000)とか、エドウィン・コルバートの「恐竜の発見」(早河書房、2005)という本のなかで、よくお目にかかっている。

地質学的には「緑色砂岩」とか「緑色砂岩層」とか訳されていて、なかでも、最も読まれているジョン・ウィルフォードの「恐竜の森」(河出書房新社、1987年)は、ピューリッツア賞に輝いた。

1822年、イギリスのマンテル夫妻が発見した先史時代のふしぎな歯の化石。トカゲに似ているが、それよりもずっと巨大な歯、それが世界ではじめて発見された恐竜の化石なのだ。人類が恐竜の骨に出会ってまだ200年足らずなのだ。記事には書かないが、ぼくは恐竜には、縄文文化とおなじくらい興味を持って、いろいろ読んでいる。

それから、もうひとつおもい出すのは、世界でいちばん短い短編を書いたグアテマラのアウグスト・モンテローソという作家の「恐竜」という作品である。

「彼が目を覚ましたとき、恐竜はまだあそこにいた。(Cuando despertó, el dinosaurio todavía estaba allí.)

たったこれだけの一行の作品である。

簡潔で奇抜で、おとぎ話のような世界で、時間的な視点が奇抜なのだ。「彼」というのはだれだろう? もしも自分だったら、とおもうと愉快である。

――TVもなければ、月へ行くロケットもなく、避妊のピルもない。鎮静剤も、ポケットに入る電卓も、パソコンも、核ミサイルだってなかった時代。――そのころのぼくの記憶には、蒸気機関車とおとぎ話があっただけ。

子守りのスーちゃんに泣きついて、おっぱいで目のなかのゴミを流してくれ! って頼んだ変なおもい出が甦ってくる。

スーちゃんはまだ子どもだったので、母のようにおっぱいは出なくて、ぼくは残念におもったものだ。――記憶の連鎖。それが因果の連鎖となり、ふしぎにも記憶はひとかたまりにならず、ぜんぶDNAの塩基配列みたいにつながって、その気になれば、いつだって引き綱みたいに、芋づる式にたぐり寄せることができそうなのだ。それがぼくの記憶だ。

マンローは、カナダの一地方を舞台にした数々の作品を発表しつづけ、アメリカの「ニューヨーカー」にも作品が掲載されて、国外での高く評価されているそうだ。やがて全米批評家協会賞をはじめWH・スミス賞、ペン・マラマッド賞、オー・ヘンリー賞など多くの文芸賞を受賞し、2005年には、「タイム」誌の「世界でもっとも影響力のある100人」に選ばれている。2009年に国際ブッカー賞を受賞。

ときどき、彼女の本を事務所にもってきて、漫然とページを開く。心地よい文章が並んでいる。

仕事で頭がしびれているときなど、あるいは、だれかにむかしの話をつづるときなど、だれかの声を想い出したいときなどに、この本を広げると、たまらない癒しになる。 ぼくにとって、記憶の再生にはもってこいの本なのだ。