来の紙。

 

 島根県安来市「足立美術館」にて。

 

きょう、北海道の友人、松永毅さんから、とつぜん「同窓会」の案内がとどきました。何年ぶりだろう、いや、何10年ぶりだろうかとおもいました。今月末、都内で中学時代の同窓会をしようという話があったばかりなのに、北海道でもちゃんとやるそうだ。その話は知らなかったので、ぼくはちょっとびっくりした。

発起人にしるされている人たちの名前を見ると、全員なつかしい人たちばかりだ。女性のほうは姓が変わり、だれがだれなのか、よくわかりませんが、8月29日から30日の2日間、ぼくが生まれた北海道・北竜町でおこなわれるという案内でした。

今回は、どうあっても出席しないわけにはいかないでしょう。

そんな気持ちになりました。

О・ヘンリーの「20年後(After Twenty Years)」という小説を想いだします。あれはしかし、20年後だとおもい、しかも同窓会みたいで同窓会の話じゃない。

 

「なんでもないよ、お巡りさん」と男はいった。「友だちを待ってるだけ。20年前の約束なんだよ。妙な話と思いなさったね? そうだな、ちっとも後ろ暗いことじゃねえってのを確認しておきたいんだったら、説明してやるよ。そのころはこの店が立ってるところにレストランがあってね――“ビッグ・ジョー”ブレイディーのレストランがね」

5年前までの話ですね」と警官。「それから取り壊された」

戸口にいた男は葉巻に火をつけようとマッチをすった。その火灯りが男の顔を照らし出した。顔色は青白く、あごはしゃくれ、目つきはするどく、右の眉のあたりには傷跡があった。スカーフピンには大粒のダイアモンドが妙な按配でくっついていた。

20年前のきょう、おれはここにあった“ビッグ・ジョー”ブレイディーの店で大の親友ジミー・ウェルズと飯を食った。おれもあいつも、ここニューヨークで育ったんだ。お互い兄弟みたいにしてね。おれは18、ジミーは20だった。つぎの日の朝、おれはひと山当てようと西部に出発した。ジミーはニューヨークをどうしても出たがらなくてな。あいつにとっての世界はここだけだったんだ。とにかく、おれとあいつは、あの日あの時刻からきっちり20年後にもう一度会おうと約束した。そのときにおたがいがどんな立場になっていようと、どんなに遠く離れていようと、かならずまた会おうと。20年後にはおたがい道も定まって財産もできてるだろうと計算していたわけだ。それがどういうものかは別としてね」

「かなり興味深い話です」と警官は言った。

「再会までの時間がちょっと長すぎるような気もしますけどね。その友だちは、別れた後に手紙を書いてこなかったんですか?」

「まあ、しばらくはやりとりもあったんだがね。12年するとお互いに消息がつかめなくなったのさ。ほら、西部はかなりでっかいところだし、おれもあちこちかなり活発に渡り歩いてたからな。だがおれはジミーがおれと会うためにここにくるのがちゃんと分かってるんだ。生きてさえいればね。あいつは誰よりも誠実なやつだったんだから。あいつは絶対に忘れっこない。このドアの前にくるまでの一千マイルも、あの昔の相棒に会えるんだったらじゅうぶんに報われるってもんだよ」

О・ヘンリーの「20年後」なんかより、今回のぼくらの同窓会は、50年後だぜ! いや、案内にもあるように、ちゃんと計算すれば、「58年後」なんだぜ! とおもいました。人の顔さえ変えてしまう、気後れするほどの年月。

全員が74歳だって? そうだとも! 全員が74歳の顔で会おうということになったわけです。昭和33年3月に卒業した仲間たち。それ以来、ほとんどいちども会うことがなかった仲間たちだ。

気になる女の子たちも、いま、74歳のおばあちゃんになっているということです。アリス・マンローの「林檎の木」をおもい出させるような壮大な物語じゃないか、とおもってしまいます。

むかし、おやじがいっていたことを想いだします。

「おまえは、東京へ行け! 10年たったらもどってこい!」と。だが、ぼくはふるさとにはいちどももどらなかったのです。

「10年後、20年後には、確実に時代がかわる。そうすりゃあ、おまえは親のことも忘れるだろう」とも父はいっていました。父の名言はあたりました。ぼくは東京の大学に進学し、ふるさとの多くの友を忘れ、やがてぼくは、ロンドンへいきました。東京オリンピックは、ロンドンのピカデリーの近くで見ていました。

かつてグーグル(Google)のCEOラリー・ペイジが、こんなことをいっていました。いまから10年後、20年後には、10人中9人は、ほぼ確実に現在とはちがう仕事をしているだろうといっていました。ビル・ゲイツも同様のことをいっていたようにおもいます。自分がどんなふうに望もうと、それは確実に起こるのだといっていました。理由はかんたんで、人工知能などの革命的な技術の発達で、人間の多くの仕事が、IТに取って代わられるだろうといっていました。

1964年、東京オリンピックが開催される数年前、ぼくは北海道の農業後継者になることなどとうに断念して、この惑星を飛び出したのです。そしてぼくは、3つの大陸を経巡り、5つの海峡を越え、地球上の大きな非ユークリッド幾何学の三角形の内角地帯をあるき、いまようやっと、埼玉県草加市に根を張って夫婦だけで暮らしています。

そして平成25年のある日、ぼくは北竜中学校の前田校長先生に手紙を書きました。以下、その文面を転写します。

 

先日、卒業生名簿とお手紙が届きました。ありがとうございます。

わたしは、北竜中学校卒業生名簿にありますように、北竜町の三谷19区の農家の長男として、昭和17年に生まれています。で、定時制の北竜高校(沼田高校北竜分校)にすすみ、農業課程の勉強をするいっぽう、札幌南高校の通信教育部(普通課程)にも入学し、日曜日には沼田高校へ、夏の2ヶ月間は札幌に出て札幌南高校へ通学しました。ですから毎日が勉強で、それがたいへん楽しかった思い出があります。

なにしろ、北竜中学校時代にはぜんぜん勉強をしませんでしたので、父から「新聞ぐらいは読めるんだろうな」ときかれて、じっさいに読んでみたところ、ぜんぜん読めませんでした。農業人になるにしろ、サラリーマンになるにしろ、世の中に出るということは、たいへんなことだと思いました。

で、わたしは中学校最後の一年間は、猛烈に勉強しました。

猛烈といいましても、ただひたすら辞典(漢和辞典や英和辞典、百科事典)を読んだにすぎません。まったくの全方位独学でした。しかし、それは後年たいへん役立ちました。

わたしはある女生徒を好きになり、好きなその人のまえで、書道部の渡辺晋一先生はいいました。

「田中、おまえ、それを読んでみろ」と。

自分が書いた臨書の文字がまったく読めず、漢文の意味もわからず、大恥をかいたことが動機で、「勉強しなくっちゃ!」と密かに思いました。それで欲張って3つの高校へ通学することになったわけです。テキストは2倍。

北竜中学校の生徒だったころ、わたしは石川啄木の短歌集を読み、なんとなくわかったような気がして、自分もつくってみたくなり、3年生のときに新聞に投稿し、載せてもらいました。そのときはたいへん嬉しく思いました。3度ほど載せてもらいましたが、「北竜中学三年」と書かれていたのが嬉しく思いました。選者の人が長い批評文を書いてくれました。

 

今日もまた静寂な夜めぐり来て

床に一日(ひとひ)の疲れ擲(なげう)つ

 

しんしんと音なしに降る雪の夜を

耕馬(うま)もさびしく帰り来たれり

 

病む耕馬(うま)を曳きつつ通る堤防の

浅瀬は白し蛙鳴きてをり

 

この3首が載りました。

北竜高校は定時制でしたから4年間通いました。4年間のうちに、みんなにもついていけるようになりました。そのうちに新聞も読めるようになり、自分は長男ですが、田んぼが3町7反と少なかったので、農家を止めようという話が持ちあがり、ならば自分はもっと学問をしたいと思いまして、昭和37年に明治大学文学部に入学しました。大学を卒業する前々年、ベトナム戦争が勃発し、わたしが住んでいた東京・銀座には米海兵隊員がいたるところに闊歩し、ヤンキーたちの好むリズム音楽が街中に流れ、東京はアメリカ帰還兵たちの憩いの場となり、アメリカ文化をこの目で見ることができました。ちょうど東京オリンピックを控えていたときでもあり、かまびすしく破壊と建設を繰り返す銀座の街は、雑踏そのものでした。

明治大学文学部には、さいわいなことに、女優の松原智恵子さんが同じ学年で入学してきて、当時、早稲田大学の吉永小百合さんとともにテレビ・メディアにも取り上げられて知られるようになりました。松原さんは英文科、ぼくは仏文科でしたが、専攻は違っても、英文の講義も仏文の講義も、ラテン語の講義なんかでも同席する機会がありました。

彼女は撮影のたびに講義を休むので、ノートを貸してあげたこともあります。また、講義が終わると、彼女の時間があるときは、近くの安い喫茶店でおしゃべりなんかして時間を楽しみました。

大学を出て、社会人になってから数年たって、わたしはロンドン大学に入学しました。聴講生でしたから、学位は取らず、Т・ハーディ教授の「シェイクスピア」にかんする授業を傍聴する目的で、証券会社のアルバイトをしながら通学しました。

夏目漱石は2年間ロンドン大学のユニバシティ・カレッジに通いましたが、当時、ヴィクトリア女王の崩御があったりして、いわば世紀の大変革の時期だったと思いますが、わたしがロンドンにいたときは、戦後間もなくだったせいでしょうか、日本人を差別扱いすることがあり、びっくりしたものです。

ロンドン子たちには、日本人にたいして敵視する傾向が根強くあったころのことです。そこは大英博物館にも近く、勉強するにはいいところでした。近くのコヴェント・ガーデンは、映画「マイ・フェア・レディ」の舞台になったところですが、その後、野菜市場がなくなり、がらっと様変わりしましたが、ロンドン大学はぜんぜん変わりなく、むかしのままです。

で、帰国してからは、ずっと出版社や広告代理店に勤務し、ファッション記事の翻訳や、日本経済新聞、読売新聞などのコラムニストとして記事原稿を書き、各種婦人雑誌には連載記事を書いたりして、のちに単行本として出版するなどの仕事に携わりました。本は60冊以上出していますが、わたしの個人的に書きたいものではありませんでしたので、現在、テレビドラマにもなり得る小説を書きたいという情熱が沸々と湧きあがり、ならば当然、北竜町を舞台にしたドラマを書きたいと思いました。

わたしは、最後の7年間をテレビ局に勤務し、番組制作会社「㈱タナック」という会社をつくりました。ネイチャーリング・スペシャルなど、映像による感動作品を企画してきましたが、国のデジタル放送の対応の遅れがぐーんとひびいて、いい仕事にはなりませんでした。

で、いまごろになって、わたしは小説作品をいろいろ書いているところです。《やわら》が舞台になる小説は、もう1000枚以上にもなりますが、これは、わたしが13、4歳のころの話ばかりです。

わが家には、母が病気のために子守りが入れ替わり立ち替わり住みついていましたが、そのなかにロシア人の血を引く女の子がいました。わたしより8つほど年上です。彼女の名前はナターシャといい、日本名は「スーちゃん」といっていたのですが、正式な名前はわかりません。

ロシア人の子がいじめられているのを見た父が、堪らなくなって連れてきたらしいのですが、父はもう101歳で他界しましたが、そのときの記憶がぜんぜんなくなり、ほんとうのところはわかりませんが、小説では、そこはフィクションでまとめるしかなく、明治26年、吉植庄一郎さんたちが千葉県埜原村から自費自賄で北海道に入植して以来の、農業人の過酷な労働のエピソードなどを織り交ぜ、北海道農業の取組みの一端を紹介するなどして、作品に膨らみを持たせようと考えました。

で、わたし自身、50年もむかしの北竜中学校時代の記憶があいまいで、同級生のみなさんに電話取材などをさせてもらって、いろいろなエピソードを盛り上げたいと思いました。作品の主題は、ナターシャとわたし(田原金一郎)との情交や淡い恋慕の物語です。ニワトリや馬などが出てまいります。母が養鶏場をつくって成功するまでの話です。昭和42年、わたしの両親は離農し、札幌に出てきました。

わたしは、北竜町にはずっと愛着があり、わたしの原点は《やわら》です。

大学時代、北竜町に同人誌「荒土」(川田浩二さんが代表)が誕生し、新聞にも紹介されていましたが、そこには田中北斗さんや宮脇竜さん、中村耕人さんなどが加わり、わたしは小説とシェイクスピアにかんする文章を発表しています。

当時、山田雅風さんとはときどき顔を合わすことがあり、おなじ郵便局の仕事(アルバイトの長距離電報配達)をしていましたので、雅風さんの句はたいへん好きでした。

労働から生まれる句は、味わいがありました。

ぼくらはおなじ新聞に寄稿し、名前をならべることが多く、高校時代は俳句と短歌を寄せていました。それよりもわたしは小説執筆のほうに熱を入れていましたので、わたしは同人雑誌「学友文学」を創刊し、高校生が中心になった作品発表の場をつくりました。

いつでしたか、川田浩二さんのすすめで北竜町出身の作家、加藤愛夫さんの小説「いたどりの道」を読んだことがあります。これは実名で書かれた貴重な作品に思われ、わたしの知らない歴史が描かれていて、伝えられる口承史の裏づけにもなり、感動しました。

わたしの小説「ナターシャの指輪」は、ある女性の提言にしたがって、いくらか筋を変え、400字に換算して800枚の原稿を、書き直しているところです。出版社側では、いざとなりますと、原稿代筆の助っ人を差し向けてもいいという話ですが、そうもいきませんので、年内に完成し、推敲を終えて印刷にかかれるよう、がんばるつもりです。

本になりましたら、先生に謹んで進呈いたすつもりです。どうかご協力のほど、お願いをいたします。誠にもって繁簡よろしきを得ない文面となりました。このたびは、誠にありがとうございました。