る。

 

 岡部信くん、18歳。

 

マンションの裏庭は、林になっていて、それはいいのだけれど、さいきん木の枝がのびて、髙いところにある電線に引っかかっている。ヘルメットをかぶって木にのぼってみたが、とても手がとどかない。

「田中さーん、何やってるんですか? 落ちたら死にますよ」と声をかけてくれたのは、Sさんだった。命綱を巻いていないというのだ。

「Sさん、何がご用?」

「うはははっ。用なんてないけど、見ていられませんな」といっている。

「スマホなんか持って、何してたんですか?」

「スマホ? 人の電話を待ってるんですよ。ひと息いれましょうよ!」と、下でいっている。Sさんのいるところは小川に沿った車道だ。ここで枝を切ると、Sさんの頭上に落ちる。

「ここはクルマがとおるから、ダメですよ。ぼくもあとで手伝いますから、まあ、ひと息入れましょうよ」といっている。それから間もなくして、岡部信くんがやってきた。

「田中さーん、木をきってるんですか?」という。

「見ればわかるでしょ? そうだよ!」

「そこから何が見えますか?」とSさん。

「宇宙が見えるよ!」

「ははははっ」といってSさんはたばこをくわえて笑っている。

「そいつはオートバイのヘルメットか、田中さんには似合うよ」といっている。「だけど、命綱巻かないと、あぶないぜ!」といっている。そりゃあそうだ。

「ぼくは空師(そらし)じゃないからね、……」

空師の仕事を見たことがある。木にのぼってロープをかけ、枝や幹を伐っては、クレーンで安全な場所まで吊り降ろしていく。

「下に降りるよ」といって、ぼくは左右にのびいてる枝に軸足を乗っけて降りて行った。

事務所に入って、ふたりにコーヒーを振舞い、腰につけたのこぎりを外した。

「信くんは、何か用?」とほくはきいた。

「これ持ってきました」といって、リコーのコピー機のトナーをデスクの上に置いた。

「この人は、なんでもやりますから、おもしろい人ですよ」とSさんはいった。

「それは知ってます」と彼はいった。

「信くんは、歌手を目指しているんだって」とぼくはいった。

「歌手? そういえばなかなかマスクもいいねぇ」とSさんはいう。

「マスクだけじゃダメだよ。歌なんか、だれだって歌うじゃない。でも、彼、若いんだよ、18歳だって」

「そうなんですよね。ぼく、3次予選まではいくんですが、あとはよくないんです」といっている。

歌えるやつはいいよな、とおもう。

このあいだロッキーのすすめで、都内でみんなとカラオケに行き、ひさしぶりに歌った。早稲田のОBたちの集まりで、12人で歌った。三橋美智也の曲なんか歌って、みんななつかしいとかいって、自分を持ち上げるものだから、いい気になって8曲ぐらい歌った。

最後に歌ったのは、「丘を越えて」だった。みんなもいっしょに歌った。歌手・藤山一郎、作詞・島田芳文、作曲・古賀政男。――明大マンドリン倶楽部の定番曲でもある。早稲田の商学部33会のメンバーである。だからみんな80歳かそこらだ。「生きているのが奇跡みたいな人たち」そういったのは、メンバーのひとりだった。その人は、中島みゆきの「狼になりたい」を歌った。

それからSさんは、きょうは天気が悪いので、来週手伝いますよ、といっている。信くんは、「そしたら、ぼくもきますよ」といった。

「信くんは、仕事があるだろう」

「その日、仕事休みます」といっている。

「信くんは、どこに住んでいるんだい?」

「ぼくは八潮です」

「そうか、八潮にはいい図書館があるね」とSさんはいった。

「ぼくは、図書館には行かないので、……」といっている。だが、ケガでもされたら一生恨まれる。芸人は顔が命だ。そういったのはSさんだった。

「じゃ、ぼくは伐ったやつを片づける人になります」といっている。

「そのほうがいい」

ぼくはむかしのことを想いだした。

山のふもとを流れる恵岱別川沿いの斜面に、ヤマヨモギに覆われた小さな原っぱがあった。ぼくが北海道・北竜村の恵岱別へ最後に訪れたのは、昭和55年の夏だったなとおもう。

埼玉県越谷から札幌へと引っ越した年だ。

休暇を取って家族で北竜町へクルマを飛ばして行った日のことである。息子は9歳、娘は6歳。やわらの市街から三谷街道をとおり、舗装された道を西にまっすぐ走らせると、恵岱別に入ってまもなく左折して桂の沢へ入る。恵岱別川にかかる橋を渡って、細い砂利道をのぼって行った。

思い出深いカズおばさんの家を探した。

おばさんの家は、もうなくなっていた。あたりに野草がぼうぼうと生えていて、まるで別の土地みたいに見えた。

そこにクルマを停めて、しばらくあたりを歩いてみた。近くの沢づたいにのぼったところに、むかし、父が伐採した森がある。けもの道のような細い道をのぼりきると、カズおばさんの家が見えたものだ。そこにはもう何もない。おばさんの家の裏手に流れている小川が見えるだけだった。

レモン色のパーティドレスみたいな衣服を着た娘が、「お父さん、待って」といって後ろからのぼってきた。そのあとから、息子がのぼってきた。息子は小枝を持って、振りまわしている。やぶ蚊を追っ払っているのだ。

このあたりはブナの木が多く、キツツキのねぐらがあった。半ズボンを履いた息子は、膝小僧を出してやぶ蚊に襲われながらのぼってきた。

「お父さん、どんぐりあるよ! いっぱいあるよ」と、彼は叫んだ。

娘は目を丸くして振り返ると、お兄ちゃんのところに駈けていく。行ってみると、どんぐりがたくさん落ちていた。ふたりは宝物でも拾うように、夢中になって拾いはじめた。

「どんぐりなんか、いくらでもあるよ」というと、

「お父さんも、とって!」と息子がいった。

都会暮らしの兄妹には、見たこともない風景で、どんぐりがたくさん落ちている森が気に入ったようだった。

カズおばさんは長いあいだ、リウマチと心臓病に悩まされ、入退院を繰り返していた。その話は子供たちにはわからない。ずっとむかしのことだからだ。営林署に勤務していた連れ合いのおじさんは大酒のみで、50代の若さで脳溢血であっけなく亡くなった。カズおばさんは60代まで病気と闘いつづけ、ある日、痛めつけられた心臓が止まって亡くなった。

ぼくが小学6年生の冬のことだった。

そんな話をすると、息子たちは、カズおばさんの若いころの写真を思い出すみたいだった。桂の沢は営林署が管轄するブナ林の多い山で、クマゲラの棲息する有数の自然林である。大きな木は、直径が子供のひと尋分にもなっている。

「お父さん、上にもあるの?」と息子がきく。

「どんぐりか? あるよ」

そばにいた娘は、スカートをエプロン代わりにしてたくさんのどんぐりを抱えていた。

「お兄ちゃんのどんぐりは?」

「わたし、もってる」と娘がいう。

「スカート汚すと、お母さんに叱られるぞ!」というと、

「どんぐり、半分、お母さんにあげるから、……」と娘はいい訳をしている。

妻が手縫いで仕立てたドレスは、ぼくのネクタイでつくったもので、ピーコック・ファッションたけなわのころの幅広のネクタイ地でつくったものだった。色とりどりの生地でつくられ、友人のファッションデザイナーから大量にいただいたネクタイだった。いま、息子と娘の衣服に変身している。

若いころの母は、北竜村で養鶏場を営み、50CCのオートバイを乗りまわし、子供たちの衣服を手縫いでいろいろつくってくれた。あるときは布団地だったり、着古した和服地だったりして、3人の息子たちの着るものは、いつもカラフルなものだった。おしゃれ好きな母は、ぼくら子供たちにもおしゃれを強要した。

隣りの富井家の娘さんの衣服までつくり、村のお祭りには、それを着て出かけたものだ。母はいつも和服だった。

そのころいた子守りのナターシャは20歳くらいで、母の和服を着ていた。ぼくはちょっと恥ずかしくて、いつも離れて歩いた。これがいま妻にも引き継がれたわけで、思い切り派手な衣服で、息子は恥ずかしがらずに着ている。娘は、派手な色合いがお気に入りで、なんでも喜んで着ていた。

頂上に行くと、遠くの風景が見える。恵岱別から三谷方向の街道筋が見え、クルマが走っていた。

「お父さん、この切り株は、どうしたの?」

頂上から西の斜面の木々が伐採され、切り株だらけになっている。切り株と切り株のあいだにまだ成長していない木々が生えていた。

「ああ、あれはおじいちゃんたちが切ったんだよ。あとで木を植えたのさ」

「ふーん、そうなの。風景がへんだね」という。

人間の手が入った自然は、へんにいびつになって見える。そのころの農家は、薪が必要だったので、伐採の許可が降りた部分だけが切り倒され、ととのっていた自然が、いたずらされたみたいに見える。木を切った人びとは、あとで植林したのだ。

「キュキューン、…キュキューン」という鳥の鳴き声がした。あれは、ひばりだろうか?

星に打たれた音叉の響きみたいに聞こえてきた。

しばらくその声に耳をかたむけていると、捉えがたい失われたことばの断片のように聞こえた。もう亡くなった人のあの世からの声のようにも聞こえた。

「お父さん、どんぐり見つけた!」と息子が叫んだ。娘も駆け寄って地面にお座りした。子供たちの喜びようは、ぼくをびっくりさせた。ここに連れてきてよかったとおもった。