田浩二さん、りがとう。

 

 川田浩二さん。北竜町ポータルサイトから転載。

 

きょう、北海道・北竜町の川田浩二さんあての手紙を投函した。

なぜって、ぐうぜんだけれど、ぼくは北海道のいなかのことを知りたくて、北竜町のサイトをのぞいていた。そこに川田浩二さんの写真が大きく写っていた。この人は、ぼくに大きな影響を与えた。どれぐらい大きいかといえば、若いころ、3つの大陸を渡り歩いたあの勇気を与えてくれた人なのだ。とうぜん、川田浩二さんご自身は、そのことを知らない。知らなくていいと思っている。

10年ほどまえになるけれど、ぼくは彼に300ページほどの手紙を書いた。400字で945枚になる。ぼくは「破れて英雄になる」という表題をつけ、製本して送ったことがある。「これまで、ありがとう」という気持ちで。

N・ホーソンという人は、こんなことを書いている。

 

人間というものは一箇所に長続きしないようにできている。いわばジャガイモと同じことで、いつまでも連作していると土地がやせて、育ちが悪くなるのである。わたしの子供たちは、生まれた場所が違っている。どんな運命で生きるやら、もし親の意向がかなうなら、どこか見知らぬ土地で根を張ってもらいたい。

N・ホーソン「緋文字」の「税関」序より

 

昭和37年春、ぼくは東京に出てきて以来、ずーっと北海道にもどらなかった。もどったのは息子が小児ぜんそくにかかり、ドクターから転地療養をすすめられたため、北海道へもどった。

そこで7年間を過ごし、また上京して都内で仕事をし、平成15年に現在の草加市に移住し、いまにいたっている。

ぼくは家族と仕事のために、あちこち引っ越しをし、息子は、都内目黒区で生まれ、娘は、越谷市で生まれた。

ふたりとも札幌に住み、娘は平成266月に病いを得て天に召された。ぼく自身、若いころから見知らぬ土地で過ごし、見知らぬ人びとと出会い、見知らぬ国をへめぐり、3つの大陸を歩いた。

ぼくの親たち、伯母たち、伯父たちは、みんな北海道を出ることはなかった。ぼくの親は農業のかたわら、子供たち3人を育て、うちふたりの兄弟は、親の膝下をはなれ、東京で学生時代をすごした。

それぞれちがった人生を歩き、ちがった生き方をしてきた。むかしかたぎの父は、わが家で育った子馬を手放すときのように、ぼくにこういった。

「おまえは、東京へ行け! 一人前になるまで帰ってくるな」といった。長男であるぼくは、北海道を捨てたのである。人間が経験することはかぎられている。100年も200年も生きられない。だが、父は101年を生きた。

だが、川田浩二さんは、ずーっと北海道で、その土地に住みつづけ、いちどもその地を離れることなくご両親の切り開いた土地をまもり、農業に打ち込んできた。よく考えてみれば、北海道のその地は、明治26年5月(1893年)、千葉県印旛郡埜原村からわたってきた人びとによって開拓された、まったくの処女地であった。以来、ずーっと123年間、北竜町の農業基盤の礎(いしずえ)を築いてきたのだ。夏に咲き、秋には大輪の花をつけるひまわりのように、大地の華となって大きく育った。で、北竜町はいま「ひまわりの町」になった。

その地をいちども離れることがなかったというだけでも、ぼくには尊敬に値するとおもっている。

北竜町やわらをつくった名もなき人びとの記憶は、もう父の頭からも記録からも、どこからもすっかり消え失せてしまい、記憶をつめ込んだ人びとはみんな亡くなって、やわらの口承史は昭和30年を境にぷっつりと途絶えたように見えたころ、ぼくは上京し、べつの人生をあゆんだ。

村という社会では、ひとりひとりは脇役だ、ときには舞台にさえのぼらない人びととなって、主人公にはならないけれど、家にあっては、それぞれが主人公で、無数の舞台が用意されている。ぼくは、歴史というのは、そういう人びとのほうにこそあるのだとおもった。

北海道開拓を成し遂げた吉植圧一郎の名前はあがっても、21戸の家族たち、子どもたちのそれぞれの名前は、歴史の口の端にあがることはほとんどない。舞台の外にいる多くの人びとのために、農具や生活の小道具、それらをしつらえようとした苦心の跡があちこちにある。

娘が畑仕事を、あるいは納屋や家畜小屋で仕事を手伝おうとして靴につけた糞や泥、髪には、わらしべをいっぱいつけ、髪を振り乱して、ビートやじゃがいも掘りなど、収穫の仕事に精を出してはたらく女たちの記憶も、いまもきっとどこかに埋まっているだろう。

ふたたび春になれば畑の畝を掘り起こし、ふたたび種を植え、家畜のために食糧を確保し、馬やニワトリや豚や、羊を飼い、ある日とつぜんのように結婚して子どもをつくり、子孫をずっとつないできた。――そういう物語がある。

牧草地の牛たちは、土手の曲がり角をまわって小屋に帰るころ、夕闇が押し寄せて、恋も知らない生娘が、ある日とつぜんよそ者がやってきて、彼女をさらっていくように、どこかへ連れていった物語だってあるだろう。

人間は、おのが物語を語らずにはいられない。

彼女たちの恋の行方も、きっとどこかに残されているかもしれない。ぼくはそういう記憶を描きたいと、いまごろになって切におもう。想像するだけでもいい、物語らずにはいられないのである。でも、みんな忘却してしまい、歴史の回路は遮断され、航路標識のブイみたいに、意味もなく朽ち果てたまま畑の隅の草むらに打ち捨てられ、道のわきの草むらに、いまも転がっているだろう。

そのむかし、いってみれば北竜は、まだまだ歴史の見える村だったなとおもう。あちこちに人びとの記憶が生き生きとして点在していた。――この123年は、いま振り返るには、あまりにも遠すぎるのである。

ジュンパ・ラヒリという作家は、短編集「見知らぬ場所」を発表してから、しばらくして長編「低地」を発表した。それを読むと、ぼくは自分の生地のことをおもわずにはいられなかった。地球のどこであれ、人が生きるということは、その年月に応じた愛と苦難にぶちあたる。いいも悪いも、自分が選んだ道なのだから。

人の人生を一冊の長編小説にすることは可能かもしれない。おそらく可能だろう。けれども、自分とそっくりな人生はどこにも描かれていない。ときどきのっぺりとした地平か、ホライゾンの朝日が描かれ、すさまじいばかりの大気の寒さを感じ、身震いするページが描かれる。窓を開けたら、北海道のあたらしい一日がはじまるのだ。都会では、いちどとしてそんなことを感じたことはない。札幌の風景は、ビルとビルのあいだから、雪をかぶった山が遠くに見えるだけ。暑寒別岳のふもとにある春の田園の季節は、雪解けからスタートする。むかしは、いざとなれば前線の砦になるかもしれない北海道だった。多くの自衛隊基地をもっているのは北海道である。

戦後、カラフトからの引き揚げた100万人を超える人びとの子孫は、いま北海道を耕している。耕す文化の経済は、北海道からはじまった。そのことに気づいたぼくは、北海道の物語を書きたいと強くおもった。何もいまはじまったわけではない。10年もまえに構想だけは練っていたが頓挫していた。いまこそ、はじめようというわけである。――手紙は、そういう気持ちで書いたのだった。