伊直助は世継ぎを決めずにを斬られた。

 

 

歴史の見える街では、いまも古代の遺跡を見ることができ、2000年、3000年まえの古跡を見て、当時にあっても「現代」だったという、由緒あるたたずまいを見聞することができます。

ぼくは地図を見るとき、あることをしています。

あることというのは、透けて見えるスケルトン紙に、日本列島をトレースし、それを使って、同縮尺の世界地図の上に重ねて、ながめたりしていました。

そうすると、ヨーロッパの国々の国土の大きさがわかります。

日本とややおなじだったり、おもったより、日本よりうんと小さかったり、大きかったりして、頭のなかで記憶している外国の国土の大きさが、正確にインプットされます。

同様に、ぼくは同年代の世界の歴史を比較して考えることに、おもしろさを発見しました。

 

 井伊直助。

 

そんなことはあたりまえの話なのですが、日本の歴史と、世界の歴史を、年代ごとに重ねて比較するというわけです。

――というのは、どの歴史書も、だいたい世紀単位で、世界の歴史を蓋然的に書かれているだけで、それを読んで、わかったような気持ちがしていたものですが、じっさいには何もわかっていないことに気づきます。

アメリカの歴史は、たんにアメリカの歴史として理解していたに過ぎません。

これも、歴史を知る上での、ひとつの方法であることには違いありませんが、たんに時間軸に沿って、書かれている歴史書を読んでも、時代を知るという実感に乏しくて、ほとんどわかりませんね。少なくとも、多少なりとも実感をもっている日本と比べてみないと。……

つまり、日本史、アメリカ史、イギリス史、フランス史、ドイツ史というものの同時代史をよく見て、考えるということでしょう。

教育者は教えますが、「考えなさい」となぜいわないのでしょうか?  

どうしたらわかるか、それも考えなさいと。

自分で考える教育が、戦後は現場からなくなったような気がします。国語は国語、数学は数学として教えています。そうなると、たとえば、医者でさえ、消化器系はわかるけれど、心臓外科系のことはさっぱりわからない、ということになります。まだ若かったぼくの主治医はそういっています。

「そんなバカな」と思ってしまいます。

西洋医学は病気しか診ませんから、患者のからだのこと、病歴、食歴といったことに知恵がまわりません。ですからカスタマイズ医療が遅れているわけです。病気はカスタマイズしてこそ正確な治療方針が確定することができます。

この話は、教育されるほうにも責任があります。

テキストに書いてあることを疑いもせずに鵜呑みにして、同時代の意識がすっぽりと欠落させたまま記憶するだけ。これでは、ほとんど使い物にならない知識としかいいようがありません。

――そうやって地図を見る方法で、国力をささえる人口地図を比較して見ると、おおよそのその国々の規模が、地政学的にわかってきます。そういうことを考えている専門家もいることでしょう。しかし寡聞にして、ぼくは知りません。

江戸時代は、1603年から400年つづき、その最盛期は、オランダの250万人に比較して、日本は2000万人の人口を抱えていたことがわかります。2000万人というのは、当時の世界最大規模で、大国フランスの人口とおなじでした。

高杉晋作がイギリス人のクーパー司令官に豪語したように、軍隊は20万、30万を擁しているわが国には、「3000人規模の兵隊しかおらぬ貴国は勝てまい」と強調しています。

「だから、降参ではなく、講和である」と高杉晋作はいいます。

30万人の軍隊というのは事実ではなく、これはほんとうはウソなのですが、日本を大きく見せて威勢のいい出まかせをいったわけです。

よしんば出まかせであろうが、それが歴史なんです。おかけで日本は、事なきを得ました。当時イギリスの人口は、900万人を切っています。

――同様に、こうもいえるでしょう。

おなじ国の、時間軸に沿ったおなじ時代の出来事を比較して考えるという史観です。司馬遼太郎さんの書かれた「坂の上の雲」という小説は、あれは歴史書ではありませんが、同時代の日本の国情と、ロシアの国情を比較して、小説的に描かれています。

だからわかりやすいのです。

物語に登場する人びとの知らない側面が、こうして見ることによって、立ち現われてくる、というわけです。

万延元年(1860年)正月22日、外国奉行である新見豊前守を正使とする遣米使節団の77名が、米軍艦ポーハタン号に乗り込んで横浜を出帆していったとき、アメリカではどういうことが起こっていたのだろう、そういうことを考えます。

そのときの護衛艦である咸臨丸(かんりんまる)のことはよく知られていますが、肝心の米軍艦ポーハタン号に乗り込んでいった人びとについては、あまりくわしく知られていないようです。

遣米使節団の派遣ともなると、めったに行けないアメリカへ海を渡っていくことができるのですから、当時、開国を目指していた開明派というのがあり、思想的にそれに属していた永井尚志、水野忠徳などは、西洋文明にふれる絶好の機会と考え、いちはやく使節に内定され、内心わくわくしながらその日を待っていたに違いありません。

いっぽう咸臨丸に乗り込んだのは、勝海舟(船長)や福沢諭吉、木村摂津守などでしたが、そこにはジョン万次郎も同乗していました。

万次郎をのぞく全員はすごい船酔いで、技術者として乗り込んでいた米人ジョン・ブルック大尉の助けを借りて、ほうほうの体で、2月26日にサンフランシスコ港に到着しました。

咸臨丸は、わずか300トンの木造船で、3本マストの蒸気船です。これはわが国初のオランダにオーダーしてつくらせた軍艦です。

彼らの丁髷(ちょんまげ)を見て、アメリカ人はピストルかとおもい、日本人は日本人で、男女が口を吸い合うキスに、目を丸くしてながめます。

「あいつらは、人まえで、何をやっているのか」とたずねます。

しかし日本人サムライたちは礼儀正しく誠実で、海を渡った彼らの評判は、けっして悪くありませんでした。

こうして勝海舟たちが、サンフランシスコで、アメリカの文化や風俗に好奇の視線をそそいでいるころ、江戸では、徳川幕府はじまって以来の大事件が巻き起こっていました。

それは、万延元年の3月3日のことです。

大老井伊直助は、そのとき46歳を迎え、前の年には幕臣最高の官位を授かっていました。正室昌子とのあいだは、あいかわらず冷え切ったままでしたが、彦根の側室里和とのあいだに6人の子が生まれ、家庭的に不幸ではありませんでした。

彼は桜田門外にあった井伊の藩邸――といっても、幕府から屋敷を借りてそこに上屋敷を建てて住んでいたのですが、彦根藩35万石といえども、御三家につぐ家格で、近くには毛利邸や上杉邸があって、いわば高級住宅地です。

この日は、陰暦3月3日の雛の節句だというのに、――いまの暦にすれば、3月27日のことですが、――朝から大雪が降っていました。安政の大獄のすえ、反対派は手も足も出なくなっていました。

もう国交を結んで交易が行なわれていました。

しかし日本と米国との金1に対する折り合いが、まだついていませんでした。日本の金1に対して、銀は約5の比価に決めて交渉にのぞみましたが、外国では金1に対して銀15になっていました。この協定ができず、金銀が、諸外国へとどんどん流れていきます。

これは重大な問題です。――つまり、100枚(100ドル)のメキシコ銀貨を持ってくると、わずかな交換手数料をぬくと、300枚(300ドル)の1ドル銀貨に替わるのですから、こんな甘いぼろ儲けを見逃すはずもなく、ほんのわずかの間に、50万両という黄金がやすやすと外国に流れていきました。

ぼくは歴史は、時代を描いた物語だとおもって読んでいます。

ぼくは物語を、時代のあるひとつの側面から読み解くことにおもしろさを感じています。つまり、ぼくは経済というフレームで、それらの物語を読んでみます。そうすると、志賀直哉の「小僧の神様」ではありませんが、たかだか一貫の寿司を食べたくて、おもわず手をつけた小僧の気持ちがよーくわかります。小僧が手をつけたとき、主人がいいます。

「一貫、6銭だよ」と。小僧は伸ばした手を、引っ込めます。

「ダメだなあ、一度手をつけたものを、そこに置いちゃ!」

一貫の寿司が、4銭から6銭にいきなり値上がりしてしまった話が出てきます。そして、この物語の時代背景というものを知ると、たちどころに、小僧が見た世の中が読者にもちゃんとわかるというわけです。それをいいたくて、先日この話を人におしゃべりしました。

物語だけでなく、歴史もおなじではないでしょうか、そういいました。

一冊の娯楽小説も、こんなふうに読むと、少しは読書のおもしろさがふくらみます。いま、書店に行くと、この種の本はよりどりみどりです。

だれかとお話すると、だいたいは政治の話となり、なかでも、東日本大震災の復興・復旧の遅れをうんぬんなさいます。東日本大震災クラスの地震や津波は、わが国では一度経験しています。

「あれは何年のことでしたっけ?」となりますが、だれにもわからない。

お話にならないくらい大むかしのこととして、記憶にさえなくなっています。

そういうことから、ぼくは、同時代の世界の国々の歴史を横断的に俯瞰することのおもしろさを考えているところです。

同様に、時間軸に沿った、むかしと今の歴史的な比較です。

過去と現在の比較。――まあ、経糸と横糸を組み合わせる史観とでもいいましょうか、そういう歴史の見方があってもいいのではないかとおもっています。

井伊直助は、その日桜田門外の変で、惨殺されました。駕籠(かご)のなかで、銃弾を腰に受けて、身動きできませんでした。司馬遼太郎さんの史観は、ひと口にいうと、そういう史観です。

けれども、井伊直助の首は、いったん、体から離れましたが、あとでつなげます。そして、さも、生きているように寝所では、見舞いの客人に見せているのです。彼はまだ死んではならなかったのです。藩邸では、藩主が亡くなると、世継ぎが藩主となるのですが、まだその大事な世継ぎをきめていなかったのです。世継ぎを決めずに亡くなると、ヘタをすれば藩はおとり潰しとなります。彦根藩としては、どうあっても、亡くなったことをおおやけにするまでに、世継ぎを決めて置く必要に迫られます。

そんなことは、他藩のみんなも百も承知で、内々に、井伊直助は世継ぎを決めて亡くなったことにしたのです。――それが歴史です。

こんな話は小説にはあらわれませんね。

作家もまた、百も承知で、そんなことは書かないのでしょう。