ネルヴァの」のいた北の農場。

 


 都内の喫茶店にて。

  むかし、ぼくは、フランソワ・モーリャックの自伝風の小説を読んでいたら、冒頭にミネルヴァの梟の話が書かれていた。

主人公は年若く、父のうしろ姿を見て、父のようになりたいとおもう面と、そうでない面のあることに気づく。やがて死別するであろう骨肉の別れ――そのときがやってくることを彼は恐れていた。

人は、別れるために出会うのだと、彼はおもう。

父がこの世を去っても、父の志がただしく子孫に受け継がれていくことを願う。そして、ぼくが大学2年のとき、ヘーゲルの「法哲学」を読んでいたら、その序文にミネルヴァの梟が登場していた。

「ミネルヴァの梟は、たそがれとともにようやく飛びはじめる」ということばだった。ヘーゲル自身が晩年に書かれた作品である。

この2作によって、ぼくは「ミネルヴァの梟」とはいったい何だろう、それを知りたいとおもうようになった。そのときに書いたぼくの処女小説のタイトルは「ミネルヴァの梟」というものだった。

だいそれた哲学者でなくても、父は鍬をもつ手を休めて、ふと、そんなふうなことに思索をめぐらすことがあったのだろう。父は、なにかおもいついたとき、農具を放って、手帳に何か書く。

農業人は土を耕すことが仕事なので、土を掘り起こして畝(うね)をつくるのがじょうずである。

畝が3本できたら、詩行が3つできたのとおなじである。

詩は掘り起こされたもの、という意味をもっているようだ。人びとは、詩人じゃなくても、自分の畝をちゃんと耕し、掘り起こし、おのが耕地で、おのが文化、おのが詩行を立てているというわけである。

北海道のふるさと、――北竜町の風景はなつかしく、そういう畝の見えるところでもある。そして、多くの祖先が畝をつくりつづけ、いまもその畝が連綿とつらなって見えるというわけである。

農業人の表現力は、詩でもなければ音楽でもなく、絵でもない。

ひたぶるに、畝づくりに発揮されてきた。

だから、農業人の魂を見たければ、彼らのつくった畝を見るしかない。――これは、譬喩(ひゆ)だけれど、人びとは人びとの畝というものをちゃんともっているというわけである。

「あなたの畝は、何?」

ミネルヴァの梟は、そういう夕暮れどきに訪れる。

1日の終わりや、年の終わり、人の晩年になって哲学が実る。

そういうことだろうとぼくは考えた。

小説家は、実るまでのさまざまな過程をいろいろと書く。哲学者は頭のなかで行動しないものとして書く。ヘーゲルの「歴史哲学」は奇妙な本だ。ヨーロッパでうんざりした人間たちが、アメリカにあこがれる国として描いている。そうしてヘーゲルの本のなかから、そろそろ新世界アメリカが歴史に登場するのである。

ヘーゲル哲学は、「……であるべきだ」とか、「……ねばならぬ」ということばがやたらと出てくる。ヘーゲル学派はおしなべてそういう連中の書いたもの、とぼくはおもっていた。シェリングとは仲がよかったのに、ふたりは競い合い、鬼才シェリングは、だんだんとヘーゲルのように衆目をあつめることなく、しぼんでいったように見える。

ナポレオンの軍隊が、ヘーゲルのいたイエナを占領すると、馬に乗ったナポレオンを見て、「馬上の世界精神」といって彼を歓迎したというのである。ヘーゲルという人の頭の構造が、一般市民とはずいぶん違っていたようだ。なにはともあれ、彼の「歴史哲学」は、次代の精神をつかんでいたことは間違いなさそうだ。

コレラはそのころ(1831年)下火になり、市民の多くは、ほっとしていたころ、ヘーゲルは最後に時期にあたる、最後の犠牲者となった。享年61だった。

北海道の村の農民たちは、そういう哲学とは無関係だった。腹のたしにならない学問には縁がなかった。最大の関心事は天気だった。天気はどうしようもない。作物の生育にとって、一日も無関心ではいられない。

だから、天気を相手に、彼らはさまざまなことをした。寒くなれば水田の水の量を多くして作物を寒さから守ったし、それでも足りなければ、春先の床冷えのする早朝、あちこちにもみ殻をいぶして、温度を上げようとした。そんなことをしながら、年をとると、経験の少ない者に、――たとえば台風に強い苗を植えさせ、茎の生育をいくぶんでも抑えるために窒素肥料を減らした。実を豊富につけるために、リン酸・カリをあんばいよく配合した。

そして、ある者は、稲と稲の株のあいだを広くし、根を張りのばす稲特有の分けつや、株張りを注意深く見守り、養分がよりいきわたるようにした者もいた。

そんなとき、詩が生まれる。

北竜町には詩人がたくさんいた。全員が農業人なのだが、詩人でもあった。アイルランドの詩人イェーツは詩しか書かなかったが、北竜町の詩人は、畝をつくり、作物を育てた。みんな、若くて活躍していた全盛時代に、畝とともに詩をつくっていたのである。

北竜村の前身「やわら」は、明治26年、千葉県・埜原村(やはらむら)からやってきた21戸の農民たちだったと資料(昭和30年発行「北竜町農業協同組合十周年記念誌」)には書かれている。「埜原」と書いて「やわら」と発音していたと千葉県庁市町村課の担当者はいう。げんざいの千葉県印旛郡(いんばぐん)本埜村(もとのむら)がそれであり、新利根川の南にある。

石狩平野の北端、暑寒別岳(しょかんべつだけ)の北東部に位置し、北海道でもっとも広い、肥沃な大地をかたちづくっている。

石狩川水系の雨竜川と傍系の恵岱別川は、ともに二級河川だが、ぼくたちは、田んぼのすぐ裏手にある川べりへ行って、泳いでいた。――その川は、年々大きく蛇行して姿を変えていき、ときには田畑を侵食して、手がつけられないほどあばれまわったこともある。その恵岱別川が、隣りの村とをへだてている。

ぼくが子どものころ、水田の一部が濁流で無惨にも削り取られ、濁流が押し寄せてきたときは、一時はどうなることかとおもった。水田はみな水没し、家畜小屋に閉じ込められた動物たちは、水を見て、おどろいたように鳴いていた。

ときにはオオカミのように激しく荒れ狂う河川と、眠った猫のようにおとなしい河川の姿がある。ぼくらは、自然の驚異のまえに、立ちつくすばかりで、それでも、川には感謝の気持ちを持ちつづけるのである。川が近くにあるから、団長は「よーし、ここに決めるぞ!」といったのだろうか。

渡辺農場、三谷農場、川端農場、板谷農場、広瀬農場、岩村農場、恵岱別農場(阿蘇農場)というふうに、それぞれの農場は、第一次入植たちの名前をとって名づけられている(「恵岱別」は地名)。

父がむかし、恵岱別にあった吊り橋が切れて、婦人が川に落ち、濁流に飲み込まれて流された話をしてくれた。昭和30年ぐらいが最後の砦だったようだ。当時を知る人びとがまだ生きていたからである。「10年誌」には三谷農場を代表して、富井直さんが文章をお書きになっている。それから、昭和42年に亡くなられた。

やわらをつくった名もなき人びとの記憶は、もう父の頭からも記録からも、どこからもすっかり消え失せてしまい、記憶をつめ込んだ人びとはみんな亡くなって、やわらの口承史は昭和30年を境にぷっつりと途絶えたように見える。村という社会では、ひとりひとりは脇役で、ときには舞台にさえのぼらない人びととなって、主人公にはならないけれども、家にあっては、それぞれが主人公で、無数の舞台が用意されている。

ぼくは、歴史というのは、そういう人びとのほうにこそあるのだとおもっている。

吉植圧一郎社長の名前はあがっても、21戸の家族たち、子どもたちのそれぞれの名前が、歴史の口の端にあがることは、ほとんどない。舞台の外にいる多くの人びとのために、農具や生活の小道具、それらをしつらえようとした苦心の跡がどこかにあるはず。

娘が畑仕事を、あるいは納屋や家畜小屋で仕事を手伝おうとして靴につけた糞や泥、髪にはわら屑をいっぱいつけ、髪を振り乱して、ビートやじゃがいも掘りなど、収穫の仕事に精を出してはたらく女たちの記憶が埋めこまれている。

ふたたび春になれば畑の畝を掘り起こし、ふたたび種を植え、家畜のために食糧を確保し、馬やニワトリや豚や、羊を飼い、ある日とつぜんのように結婚して子どもをつくり、子孫をずっとつないできた。――そういう物語はゴマンとある。

牧草地の牛たちは、土手の曲がり角をまわって小屋に帰るころ、夕闇が押し寄せて、恋も知らない生娘が、ある日とつぜんよそ者がやってきて、彼女をさらっていくように、どこかへ連れていった物語だってあるだろう。

人間は、物語を語らずにはおられない。

彼女たちの恋の行方も、きっとどこかに残そうとしていたかもしれない。ぼくはそういう記憶を描きたいとおもう。想像だけでもいい、物語らずにはおられないのである。でも、みんな忘却してしまい、歴史の回路は遮断され、航路標識のブイみたいに、意味もなく朽ち果てたまま畑の隅の草むらに取り残され、道のわきの草むらに、いまも転がっているということなのだろうか。

そのむかし、いってみれば北竜は、まだまだ歴史の見える村だった。あちこちに人びとの記憶が点在していた。――この100年は、いま振り返るには、あまりにも遠すぎる。