に乗って北海道の沢をのぼる。


  人にはさまざまな想い出というものがあるようです。ぼくの想い出の多くは、北海道のいなかで過ごしたことがほとんどです。ぼくが成人する少し前、昭和37年の春まで北海道のいなかで過ごしました。年齢を重ねるごとに、むかしのことを想い出すことが多くなりました。

「ぼくの家は、貧乏しておりまして、……」というと、たいていの人は、

「うちもそうでしたよ」とおっしゃる。いま、60代、70代、80代の方々は、ほとんど例外なく、むかしは貧乏でしたという話ばかりなさいます。

「どれぐらい貧乏でしたか?」とたずねると、

「お金がなくて、米を持って店に買い物にいきましたよ」という人もおれば、「秋の収穫を見込んで、つけで、病院通いをさせていただいた」とか、「入院させていただいた」とか、病院に行けないので、産婆さんを呼んで家で「出産」したとかおっしゃる。わが家もそうでした。

「田中さんの貧乏も、そうでしょ?」ときかれる。

「そのとおりですね。でも、わが家には電気というものがありませんでしたから、蝋燭や、ホヤつきランプの灯りで暮らしていましたよ」というと、たいがいの方はびっくりなさいます。ぼくの家は、現在の北竜町・三谷区にあり、やわらの街にほど近いところだったのですが、そこは開墾されたばかりの土地で、三谷街道からかなり引っ込んだところに建っていたため、その一帯はまだ通電されていませんでした。

ぼくが中学生になるまで、電気のない生活をしていました。

暖房も薪(まき)ストーブで、薪になる材料は、冬場、山から伐りだして薪にしていました。一家がまともに暮らしていくために、ぼくは小さいころから山林に入り、大木の間引き伐採を手伝わされました。巨大な丸太です。秋の収穫期を迎えると、季節労働者の娘さんたちを雇って、わが家で寝泊まりしながら、みんなで稲刈りに精を出したものです。ぼくは学校から帰ると、ランプのホヤを磨き、馬の餌をつくり、ときどき厩舎の寝藁(ねわら)を替えてやります。それを堆肥にして、野菜づくりに利用します。その仕事は、子供にとっては、けっこうな重労働でした。フォークで重い堆肥を持ち上げるのはたいへんでした。

「馬ねぇ、……。田中さんの話のなかに、よく馬が出てきますね」

「北海道の、どんな農家にも、馬がいましたから」

「もしかして、学校に馬に乗って通学?」

「そのとおりですよ。ぼくは農閑期、馬を連れだして、あちこち乗りまわしていましたよ」

「いまでも、乗れますか?」

「ええ、たぶん乗れます。草加の街を、馬に鞍をつけて乗って歩いてみたいですね」というと、

「いいでしょうな。道産子ですか?」

「いいえ、道産子には乗ったことがありませんね。わが家の馬は、測ったことはありませんが、おそらく馬体重は600キロ以上もあって、……。ケツの大きな馬ですよ。輓曳(ばんえい)競争に出るような馬、ほら、見たことがあるでしょう? 馬格が大きくてね、北海道の農耕馬は、当時、15万頭もいまして、戦争に徴用されたりして、その後少なくなりましたけどね。北海道には競馬馬をつくる牧場がありますから、競馬馬のことかとおもわれますが、農耕馬は、それとはぜんぜんちがいます」

「ほう、輓曳競争ですか。北海道が発祥ですかね?」

「いえいえ、発祥はヨーロッパの、ベルギーとか、フランスですよ。もとより、北海道農法はオランダ農法ですし、アメリカ農法はおもに畜産です。それはオランダもそうですが、オランダは土木工学というすぐれた農法がありましてね、……。たとえば、《ブロック》、これはオランダ語なんです。オランダ語が、やがて英語になった」

「――それにしても、ランプの時代を知っている人、いま、どれぐらいいるでしょうな?」

「けっこういらっしゃるとおもいます。――5分芯の灯りって、わかりますか?」

その人は小首をかしげます。

「さーて、……」

「ふだんは3分芯の灯りをともし、食事どきになると、家族が全員丸いちゃぶ台を囲んで食事をします。そのときの灯りです。来客があると、芯を全開にし、部屋を明るくします。すると、部屋のすみずみまで見えます。お客に見せたくないものまで見られてしまいますから、父は、壁にかけた黒板の上に、作業服か何かを引っ掛けて隠したりしました」

「黒板ですか?」

「そう、黒板です。秋の獲り入れが終わるころ、村の親戚のだれかさんの家での婚礼に、何円つつむか、まあ、そんな金銭まで細々とメモしてありまして、運悪く食客に見つかると、どこのだれを嫁にもらうのかとか、そういう話になります」

「ほう」

「相手は、江部乙の農家の娘さんで、その子のお腹には子供が宿ってしまったとか、まあ、そういう話なんかしていました。婚礼というのは、いわばちゃんとした儀式で、夜這いをして相手を孕ませたという話は、英雄譚みたいにして、たちまち村にひろがります」

「夜這いの成功譚は、昭和30年代後半まで、だれもが認める話でしたからね、むかしは」

「水戸でもそうですか?」ときいてみた。

「そうですよ。ぼくら夫婦は違いますが、仲間には、そうしていっしょになったやつがおりましたよ」

「ぼくが知る話では、季節労働の娘さんと結婚した人がいました。恋愛じゃなく、できちゃった婚です。相手の娘さんはまだ17、8歳。ご亭主は27、8歳ぐらいでしたか」

ぼくが小学6年生のころ、馬の世話をすることが条件で、農閑期には馬を連れだしてもいいと父にいわれ、ぼくは馬の背に乗って、三谷街道をへて恵岱別まで行ったことがあります。暑寒別岳の雄渾な青い姿を仰ぎながら、街道を左折し、恵岱別川の橋をわたって、クマが出るという桂の沢を登っていったことがあります。そこは隣りの雨竜村に通じます。

その道は、ぼくはよく知っていました。

木を伐採した山です。一本道を登っていくと、顔見知りの人たちと出会います。名前は知らなくても、みんな仲間。そんな感じでしょうか。目的地に着いたら、ぼくは馬に水を飲ませたくなった。ある小ぢんまりとした家の前に馬をとめます。庭先に子供がつくった、おかしな案山子(かかし)なんかが、さびしそうに突っ立っていて、馬とぼくを招きます。庭にはカケスもやってきます。

家のなかから出てきた人は、お腹の大きな女性で、水がほしいというと、

「あら、遠くから、よくこれましたね」といって、おばさんはにこにこしながら、厩舎の飼い葉桶のそばにある大きなバケツに、井戸水を汲んで用意してくれました。家の奥には小川が流れていて、小さな尾根から、ちょろちょろ岩清水も流れていて、とっても空気のいいところです。まだ幼い子供たちがいて、ぼくのほうをじっと見つめています。写真に写った子のように、ふたりとも身動きしません。

「どうぞ、休んでいきなさい」といって、その人は、ぼくをなかに招じ入れます。

「いま、おいしいもの、茹であがるわよ」といって、ストーブの上の大きな鍋の蓋を取って見せます。とうもろこしです。その人は「馬にも、ご馳走しなくちゃね」といって、厩舎のわきの畑から、デントコーンの大きな茎を引っ張ってきます。これには馬の好きな水分がたっぷり含んだ繊維が詰まっていて、うちの馬の大好物でした。

「おじさんは、出かけたの?」

「そうよ。馬に乗ってね」

「おばさん、生まれそうだね」というと、にこっと笑って、

「あとひと月したらね」といっている。「こんどは、男の子ほしいわね」といっている。ふたりの子供は女の子で、まるまると太っていた。まだ学齢期に達していないようでした。

「うちは、男ばかり3人もいるよ」

「そうだわね。ゆきちゃんのお母さん、元気?」

「深川の病院にいるよ」

「そうなの、……。ほら、できた。めしあがれ! そんなに悪いの?」

ぼくは、子供たちといっしょに、できたてのとうもろこしを食べ、ご機嫌でした。それからぼくは、おじさんが帰ってくるまで、おばさんといろいろな話をした。母の病気の話でした。おじさんが帰ってくると、おばさんはタライに水を入れて持ってきた。おじさんはそれで足を拭く。

「お母ちゃんの具合、どうだ?」と、おじさんがきいた。さっきとおなじ返事をすると、ぼくは父の書いた手紙を手渡した。なんでも、ベッドをつくりたいという話が書かれていたらしい。板にする木を伐採したいと書かれていた。おじさんは営林署の仕事をしているので、その木を決めておいてほしいと書いてあったようだ。

すると、おじさんは、毛筆で何か書いてよこした。

「お父ちゃんに、これ、渡してな」といった。

母の病いが進行し、医者の話では今後寝たきりになるかもしれないらしい。父は、寝室の腰壁の上の窓辺から、季節の草花をながめながら寝ていられるように、脚の高いベッドをつくりたいらしい。おじさんには、その材料となる大木を選んでおいてほしいというような手紙だった。

その冬、おじさんが選んだ木を伐採し、それを製材所で板にして、父は時間をかけてベッドをつくった。念入りにつくったので、とても頑丈だった。それから母が退院し、母のベッド暮らしがはじまった。子守りの女の子を雇い入れ、それから8年間、母はベッドで過ごした。

おばさんは、3人目の子を産んでから、リウマチと心臓病にかかり、あちこちの病院に入院し、ほぼ20年間、家には戻らなかった。そしておじさんは、チェーンソーによる白蝋病という恐ろしい病いにかかり、仕事ができなくなり、きこりの仕事をなげうって、年金とささやかな大工仕事でほそぼそと暮らした。

ぼくが成人したころ、父の弟であるおじさんは、脳溢血であっけなく亡くなった。――それからは、ぼくは社会人になり、自分の子供らを連れて、その山に行ったのが最後で、もう桂の沢のことは何もわからなくなりました。おばさんは、20年後、心臓病が悪化して亡くなりました。そのときに生まれた長男は、札幌に出て一家を構え、もう定年を迎えているころだろう。あの山は、ぼくにとってはふるさとの山で、忘れがたい山です。