D・H・ロレンス。――女のFigs(いちじく)の世界

 


 

「D・H・ロレンス絵画集」(杉山泰監修・解説、鎌田 明子訳、河野 哲二作品解説、本の友社)

 

ふたたび、D・H・ロレンスの画集を見た。

これまでは、ロレンスの小説を中心に彼の生き方をずっと追ってきた。おもに、野島秀勝の「迷宮の女たち」(ТBSブリタニカ、1981年)に所収されている「罪なきイヴ」に描かれているロレンスとフリーダをめぐる愛情あふれるぶつかり合いは、もうひとつの物語だとおもった。

ぼくは野島秀勝の本と、西村孝次の「ロレンス像」に多くのことを学んだ。学生時代からロレンスを読んできた。ロレンス評伝は他にもいろいろと書かれているが、西村孝次のロレンスの「人と生涯」は、とても参考になる。彼の肉声をなつかしくおもっている。


 フリーダ。

  きょうも「ロレンス画集(The Paintings of D.H.L)」に目を通した。絵のなかに、ロンドンでの個展で、わいせつのかどで押収された絵が、25点のうち14点におよんだというエピソードも知っている。そして、「三色すみれ」のなかの14編までがtroublesomeとして検察側に削除することを命じられたことも。

ロレンスの生涯をながめると、彼は詩人でもあり、画家でもあり、魅力あるいくつかの詩とともに、もう一度見てみたい絵を、さいきんいろいろおもい出す。

44年間の生涯に、詩集は9冊出している。1913年、28歳のときに出した定型詩集「愛の詩その他(Love Poems and Others)」以降、韻を踏んだ「恋愛詩集(Amores, 1916)」、「新詩集(New Poems, 1918)」、「入り江(Bay, 1919)」、そして、「見よ、ぼくらはやり抜いた!(Look! We Have Come Throught!, 1917)」、「鳥と獣と花(Birds, Beasts and Flowers, 1923)」、「三色すみれ(Pansies, 1929)」、「いらくさ(Nettles, 1930)」、その他、自分で編集した2巻本の全詩集(Collected Poems, 1928)というのもあるらしい。さらに死後1932年に「最後の詩集(Last Poems)」が出版された。

しかし、これで全部ではない。

雑誌におりおり発表されてきた詩は収録されなかったといわれている。いわゆる未収録の詩の草稿は、現在、ノッティンガム大学に所蔵され、「ノッティンガム・ノートブック」と称されて、ノートに書き込まれた初期の詩稿などもあるという。しかし、ありがたいことに、ロレンスの詩は、1964年に、ピントー、ウォレン・ロバーツ共編の総合詩集(The Complete Poems of D.H.Lawrence)には一望のもとにながめられる。

ぼくの好きな詩をあげるとすれば、「見よ、ぼくらはやり抜いた!」のなかのいくつかの詩だ。なぜなら、ロレンスがはじめてフリーダと出会い、衝動的に愛を感じ、たちまち恋に落ちて、ふたりは追われるようにしてヨーロッパに奔(はし)った。 

ヨーロッパのあちこちを転々としながら、彼のいうところによれば、「愛と男の世界における、いくたの戦いの敗北ののち、主人公は既婚の女と運命をともにする。女はやむなく子供たちを残し、ふたりは手をとり合って諸国へ奔る。愛と憎しみの戦いは、ふたりと、彼らを取り巻く世界のあいだでつづく。……」

この詩集は、新しい天地を発見した詩人の、愛と憎しみ、歓喜と不安、男女の情熱的な闘いと赤裸々な記録、としても読めるのである。

 

あなたは呼ぶ声で、 わたしは答える声

あなたは願望で わたしはそれの実現

あなたは夜で わたしは昼

上田和夫訳

You are the call and I am the answer,

You are the wish, and I the fulflment,

You are the night, and I the day.

 

――と、このように彼はフリーダに呼びかける。「ヘネフにて(Bei Hennef)」と題されたこの詩は有名である。ある人はロレンスはイマジネーションの強い「イマジスト詩人」と呼んでいるが、そこには願望がある。新しい人とともに歩く未知の航路は、もうすぐおわる! 「ほら、そこに」とおもう気持ちが、リズミカルに照応している。

――まともに読むと、うちの神さんがいつも自分を呼びつけ、ぼくが答えている図にちょっと似ている。「あなたは願望で わたしはそれの実現」かとおもう。そうおもうと、四角張ったことではなく、丁々発止、フリーダと山びこみたいにやっていたのだろう。

 

ぼくではない、ぼくではない、ぼくを吹き抜ける風だ!

さわやかな風が「時」の新しいほうへ吹いている。

上田和夫訳

Not I, not I, but the wind that blows through me!

A fine wind is browing the direction of Time.

 

ロレンスの新しい天地(New Heaven and Earth)とは、自分たちの安楽に暮らせる場所という意味もあるだろうけれど、ぼくには、女の偉大なる未知の世界、――聖なる秘密、愛することの肉体的な宇宙、選ばれたフリーダとの深い共生(compassion)を意味しているのだとおもう。目の前にいるフリーダだけでなく、かつての「息子と恋人」のなかにも描かれた初恋の女性ジェシー・チェインバーズ(Jessie Chambers, 1887-1944年)を入れてもいいだろう。

「いちじく(Figs)」という詩がある。女性は果物が好きである。「くだものはみんな女性なのだから、それらには種子があるのだ。そこでそれらがはじけて種子が見えると、われわれは子宮をのぞきこみ、その秘部を知るのだ」といい、「くだもの(Fruits)」の連作として「いちじく」という詩が書かれた。

いちじくの実はいかにも女性のような果実であり、女性の部分をあらわしているといわれている。それは「変形し内部に向かう、女性の秘密をひめた果物(fruit of the aemale mystery, convert and inward)」といっている。「いちじく、ひそかに内部に向かう、女性の神秘の果実、秘められた裸身をもつ地中海の果実、/そこでは、なにごとも目に見ることなく起こり、開花し、受精し、/結実も、/おまえ自身の内部でおこなわれるが、けっして目に見ることはないだろう」ともいっている。

「ぶどう(Grapes)」でもおなじようなことをいっている。

この秘密は、別の世界へといざなう。ぶどう酒は夢を運ぶ。詩人にとって、ノアの方舟を連想させるような羊歯(しだ)の匂う太古の辺境へと運んでゆく。そこはかつて、神も黒い肌をしていた。

「目を閉じて、下りて行こう/巻きひげのからんだあのぶどう酒の道、そして別世界へ(Closs the eyes, and go Down the tendrilled avenues of wine and the otherworld. )」と書く。

このように、ロレンスの詩は、生の原初の世界へといざない、本来の人間の意図したかつての清らかな世界を呼び戻そうとしている。もうとっくに忘れてしまった大過去。脳細胞の古層にさえ、記憶としてとどまってはいないだろう。過去の記憶、……それは、「いちじく」にも似て、女性たちの子宮の奥深くに宿った太古の世界である。彼女たちは、みんなだれであれ、太古の記憶を大事な秘密みたいにして内部に持っているのだ。非自然の、鉄の時代にあっても、「いちじく」の秘密は可憐な生命を育み、アスファルトとコンクリートの建造物の陰で、必死になって生きているのだ。

ロレンスの詩の多くは、フリーダへのまなざしで書いている。壊れ物としての自分。光を浴び過ぎて、まぶしく彼女を見つめながら、愛と憎しみをぶつけ合って彼は彼女にやぶれたみたいにして詩を書きつづけるのである。

野島秀勝がいうように、「フリーダとは愛憎のコンプレックス」(「罪なきイヴ」374ページ)が、「互いの胸をえぐり、互いの存在を脅かす恐喝の匕首と化す」のである。野島秀勝の描くロレンス像は、秀逸である。

 

はあ お前はおれを愛して

陶酔するのだから

おれを憎んで陶酔するのは必然だ

(「メダルの両面」より

 

大地母神は豊饒の「女」であると同時に「歯のある女陰(ワギナ・デンタータ)」なのである、と野島秀勝はいう()。ロレンスは愛の囚われ者からの脱出を願い、同時に囚われる歓びをうたっているのである。

そして、ぼくをとらえて離さないのは、長詩「死の舟(The Ship of Death)」だ。死と復活の主題をつらぬいた最後の結論に見える。

 

もう秋だ、落ちる果実

そして忘却への長い旅。

Now it is autumn and the falling fruit

And the long journey towards oblivion.

 

「われらは死にかけている、われらは死にかけている、いまわれらのできることは/死ぬことをうべない、もっとも長い旅に/魂をはこぶために死の舟を造ることだ」というのである。

D・H・ロレンスの一生は、文字どおり旅の生涯であった。旅のおりおりに詩を書きながら、いつの日にか復活を夢見ていたことだろう。彼の生涯はこういうことを考え、悩み、書くことに多くの時間が費やされた。