海は、ラマ作家だった。


 カモメとお別れした日。

  先日、仏教の話が長引き、最後にぼくはどうしても空海の話をいいたかったのです。そのとき、尻切れトンボになった話を、ここにあらためてしたためてみたいとおもいます。

――さて、空海にはいろいろと謎が多い。その話を書きます。

入唐していきなり唐語を話したり、むずかしい仏法を唐語で問答してみたりと、いくら天才とはいえ、唐語を身につけていなければ話せなかったはずです。ところが、流暢な唐のことばをあやつって、唐人たちを驚愕させているわけです。空海は漢籍に秀でていたばかりでなく、人の心を打つ、作家でもあったようです。彼の「三教指帰(さんごうしいき)」、あれはシェイクスピアのドラマみたいなものです。

しかし、唐語を自在にあやつって問答するほどの該博な知識をどこで身につけたのだろうとおもいます。多くの謎は、そこにあります。

文章家としての空海は、ぼくの関心をつよく引きつけました。ことばの深淵といったものについて、述べた空海の教えです。もとより辞典までつくっているのです。

仏教はインドから中国に伝わったものであり、経典の原典は、ご存じのようにサンスクリット語で書かれています。空海の時代は、密教はまだ中国に伝わったばかりのころでしたから、密教の勉強をするために、直接サンスクリット語を読みます。長安の醴泉寺(れいせんじ)というところで、空海はインド僧・般若三蔵や牟尼室利三蔵からサンスクリット語を習ったといわれています。

それも恵果(けいか)に会うほんの2、3ヶ月前というのですから驚きです。空海が恵果と密教について問答ができた。それはすごいことです。恵果はサンスクリット語の深い知識を身につけていたと想像されます。

恵果という人物は、サンスクリット語のできない学僧を相手にしなかったと伝えられており、かなり高度のサンスクリット語を身につけて臨んだとおもわれます。空海の唐語は、唐に足を踏み入れたとき、いきなりその天才ぶりを発揮しています。唐人にも書けない文章の達人であったのは確かでしょう。

今日、長安には、その当時の若き日の空海がしたためたという書簡が残っているそうです。しかも、空海はサンスクリット語を、すでに身につけていたとする説もあります。

鑑真(がんじん)が日本にやってきたとき、たしか24、5人もの弟子といっしょだったはずです。そのなかに、サンスクリット語に精通した唐僧がいたであろうことは容易に想像できます。

道昭(どうしょう)のように、インド帰りの玄奘(げんじょう)から親しく教えを受けて帰朝した人もいたので、その気になれば当時の日本でも、サンスクリット語を学習することは、まったく困難だったわけではないかもしれません。

空海入唐まえの7年間は、いわば空白期間といわれ、謎になっていますが、そのような勉強をしていたのかもしれません。

空海が京の大学に入ったとき、鑑真は亡くなっていますが、その弟子・如宝(にょほう)がいました。如宝は、そのころ60歳前後だったとおもわれます。この人は84歳で亡くなっていますから、如宝が、空海と出会う可能性がまったくなかったとはいえません。

 中国は文章の国であり、文章が人を動かすことを空海はよく知っていた。大学では儒学と書道を習い、もっぱら字を書く技術を習ったでしょうから、彼の書の技量もかなりのものだったに違いありません。空海は幼いころ、お母さんから写経をならい、「一字一拝」をする。1字を書いて1拝するという仏道を身につけました。

空海が24歳のときに書かれたという「三教指帰(さんごうしいき)」は、有名なドラマですが、これは、空海にとって信仰宣言ではあったけれども、漢文で草した独創的な戯曲作品です。

三教というのは、儒・道・仏のことで、その優劣を論じて仏教を最上としたものです。これを戯曲ふうにまとめて著したものです。この形式はすでに中国にあり、司馬相如(しょうじょ)の「子虚(しきょ)の賦」などがそうで、おそらく空海は、この作品を見習って創作したらしいという説が一般的です。

「三教指帰」にはおもしろいことに、兔角というふしぎな人物が出てきます。

角のあるはずがない兔に角をつけたもので、ありえない人、――架空の人として登場します。蛭牙公子も、蛭は吸いつくもので牙で噛むものではないので、ありえない人物として登場し、また亀毛という名も、亀の甲羅には毛がないことから、やはり架空の人物として登場し、それらは実際にはありえないことで、それを明らかにしていくという筋立てのドラマになっています。

仏教を代表する仮名乞児は、もともと名もない乞食の修行者として登場します。で、ドラマの最後に3人はつぎのような十韻詩を唱和して幕となります。

 

  居諸(きょしょ)(月日)冥夜(めいや)を破り三教癡心(ちしん)を裹(かか)ぐ

  性欲(しょうよく)に多種(たしょう)あれば医王薬鍼(やくしん)を異にす

  鋼常(こうしょう)は孔(こう)(孔子)に因りて述べ受け習って槐林(かいりん)に

入る

  変転は耶公(たんこう)(老子)の授け依り伝えて道観に臨む

  金仙(きんせん)一乗の法 義益(ぎやく最も幽深なり

  自他(じた)兼ねて利済し誰か獣と禽とを忘れむ

  春花は枝の下に落ち秋露は葉の前に沈む

  逝水(せいすい)住(とど)まる能わず廻風幾か音を吐く

  六塵は能く溺るる海 四徳(しとく)は帰する所の岑(みね)なり

  すでに三界の縛(ばく)を知んぬ何ぞ纓簪(えいしん)を去てざらむ

 

儒教を「鋼常」としてとらえ、道教を「変転」と規定して、仏教を「金仙一乗仏」とたたえます。この対句がみごとです。

春花と秋露、枝下と葉前、逝水と廻風、六塵と四徳、海と岑というふうに。しかもこの10行すべてに韻を踏んでいます。「心」「鍼」「林」「臨」「深」「禽」「沈」「音」「岑」「簪」――これが各行の最後の文字となり、ぼくらが現代の日本語で読んでも韻を合わせていることがすぐにわかります。

むかし習いおぼえた漢詩用語でいえば、この10字は「平声侵韻(ひょうしょうしんいん)」に属していて、じっさいの作詩技術からいっても、これをつくることは容易ではないでしょう。しかも、これは唱和の部分だけじゃなく、「三教指帰」全体がこうした韻を踏んで書かれているわけです。

 

   屍骸(しがい)は草の中に爛(ただ)れて以て全きことなく、神識(しんしょく)()は沸ける釜に煎られて専(もっぱら)にすることなし。或いは嶄巖(ざんがん)たる刀獄(とうがく)に投げられて、流血潺々(せんせん)たり、或るいは嶕嶫(しょうぎょう)たる鋒山(ほうせん)に穿たれて胸を貫いて愁焉(しゅうえん)たり。或るいは萬石の熱輪に轢まれ、或るいは千侭(せんじん)の寒川(かんせん)に歿す。或るいは鑵湯(かくとう)腹に入って常に炮煎(ほうせん)を事とし、或るいは鉄火喉に流れて暫くも脱(のが)るるに縁なし。……

 

それぞれの段落部分にあたる「全」「専」「潺」「川」「煎」「縁」はすべて平声先韻に属します。

こんなふうな韻を踏む作詩方法は、唐からすでに伝わっていたらしいのですが、しかしこれを実際につくるとなると、けっして容易ではないようです。天平時代には漢詩集がいろいろ出ていて、知識人のあいだで自己表現する詩の創作が流行していたらしく、たとえば「懐風藻(かいふうそう)」というものが編まれ、ひろく読まれていたといわれています。

しかし空海にあっても、「三教指帰(さんごうしいき)」のような長編詩はめずらしく、しかも、それがすべて韻を踏んでまとめられているというのは稀有のことです。

当時、中国密教界の最高峰は、青龍寺の恵果阿闍梨(あじゃり)でした。

密教には大別して、「金剛頂経」によるものと、「大日経」によるものとがあり、前者は金剛畏(ヴァジラボーディ)から不空(アモーガヴァジラ)に伝わり、恵果が不空(ふくう)から受けます。後者は善無畏(シュバカラシンハ)から玄超(げんちょう)を経て、恵果が受けたといわれます。

恵果はこの両方をひとりで受けたともいわれています。

空海は恵果からさらに両界の伝法阿闍梨位の灌頂(かんじょう)を受けています。しかも、空海が青龍寺の門をたたいたとき、恵果は彼を待ち受けていたかのように、空海に伝えたわけです。伝法阿闍梨位の灌頂を授けて3ヶ月後に恵果は亡くなります。

逆にいえば、恵果は遷化(せんげ)のちかいことをみずから悟っていたので、恵果は生涯最高の弟子である空海の灌頂を急いだらしいというのが、所説一致した見解です。

 

わたしはかねがね不思議に思っていたが、日本から数々の高僧がやってきて、長安や洛陽で仏法を学び、数々の経典をもち帰ったが、それはみな法相であったり、律であったり、三論であったり、華厳であったりして、だれひとり真言密教を学ぼうとはしなかった。また密教経典をまとめてもち帰らなかった。が、あなたはそれを求めてわたしのところへきた。

あなたこそわたしの望んでいた人だ。唐ではとっくに密教が全盛なのです。あなたの国の上下の人びとにも必ず迎えられるでしょう。すべてあなたに伝授しましょう。

 

と、そういい切った恵果も偉かったけれど、その期待にそむかず、恵果のいう真言密教こそ自分の求めていたものだ、もはや20年も唐に滞在する意味がない、用意した滞在費をはたいても、恵果の与えてくれるすべてを拝受することを決意した空海も、まことにりっぱであったとおもいます。

20年の留学を約束した予定を、2年弱にちぢめ、空海は806年(延暦25)10月に帰国します。このときに乗った船は、遣唐使船として最期の最期の船で、もしもこの船に乗ることができなかったならば、空海は、永遠に日本にもどることはなかったでしょう。

最澄が唐から運んだ経典は、204部・355巻にたいして、空海のほうは216部・461巻にのぼり、最澄がもち帰った灌頂の法具をはるかに上まわる儀器や曼陀羅図まで積んできていました。しかも経典や注釈書には、最澄が望んでも手に入れることができなかった新訳の「理趣経」や「理趣釈経」などが多数含まれています。

最澄はその目録を見て、真言密教を欠く自分の教理は完全ではないと思ったことでしょう。せめて、経を読んでおく必要を強く感じたのはとうぜんの話です。