韃靼海峡をこえた蝶のように。
三谷農場の入口に建つ浅野さんの家が小さく見える。
煙突から白い煙が立ちのぼっていると、ふいごで蹄鉄(ていてつ)をつくるおじさんの仕事ぶりが見えるようだった。真知子さんとお医者さんごっこをした小屋のなかで、娘たちの《小昼(こびる)》の用意をする母の手伝いをする。弟たちはまだ小さいので、スーちゃんに連れ添われて、あぜ道や農道のあたりをうろうろしている。
恵岱別川は、すぐそこ。
これ以上暑くなれば、泳ぎにいく。
郭公鳥(かっこう)の声が遠くから聞こえてくる。
「ピーピー、ヒョロロー」と鳴く、トビの鳴き声なども聞こえてくる。ぼくらは、トビのことを「トンビ」と呼んでいた。
トンビの巣を見た。
父が教えてくれた。
田植えがはじまるころ、恵岱別川のそばにあるマツ林で営巣しているのを発見したことがある。マツの小高い枝の分かれ目に巣をつくっていた。たまごはふたつぐらいあって、おもしろかったのは、巣のなかに、どこから持ってきたのか、ふるびた軍手なんかがあった。トンビは人間のものまで、使えるものはなんでも運んで、ベッドづくりに励む。樹皮や小枝で、じょうずに巣をつくる。
風がはこんだ星の運命。
チリ芥(あくた)のように、迷うひとびと。
この世は乱舞しておどるだけのステージなのだ。
人には人の、石よりも鞏固(きょうこ)なこころざしがある。
それで岩を割り、鉄をなめし、
おのがはたけを、耕す。
女の子と大きくなたら、そのうちに、
大きな家を建てようなんていって。
(田中幸光「郭公のすぐそばで」より)
幼いころ、自分は納屋からひらひら舞い上がっていく夏のモンシロチョウをおもい出す。ぼくは、やつを目で追っていく。やつは、用水路のくさむらのなかにもぐりこんでいった。村の風景が紗のヴェールのかかったような西日のなかで。
母がオートバイに乗って、街のほうから帰ってきた。農協から大量の荷物を積んで運んできた。それをパドックに置くと、
「アイスキャンデー食べたい人、この指とーまれ!」といって、人差し指をぽんと立てた。
そのときだった。
「……ただいま、日比谷公会堂で、日本社会党党首の浅沼稲次郎氏が、暴漢に襲われ、刃渡り35センチの短刀で刺されました」という臨時ニュースのアナウンスが、ラジオから聞こえてきた。父は、ラジオのスピーカーをがんがん鳴らし、仕事をしながら、相撲の実況中継を聴いていた。
NHKラジオの実況中継はとつぜん中断され、この殺傷事件が報道された。
彼は、胸と腹を刺され、病院に運ばれたが、間もなく死んだ。刺したのは、山口二矢(おとや)という元日本愛国党員だった。演壇のそばには、自民党総裁の池田勇人、民社党委員長の西尾末広らがいた。
昭和35年10月12日のことだった。
ぼくは、高校3年生だった。
浅沼稲次郎は、かつて社会党の訪中使節団団長として中国に渡ったとき、「アメリカ帝国主義は、日中両国人民の共同の敵である」と発言し、話題になった人物である。
母は、アイスキャンデーを食べながらいった。
「また戦争がはじまるのかい?」
「戦争は、もうこりごりだ」と、父がいって、たばこをポンと捨てた。
ぼくは、東京の大学に進学することを決意していたが、親にはまだいえなかった。
白いモンシロチョウを見ると、昭和35年のこのシーンをおもい出す。キャベツの葉っぱの裏には、よくモンシロチョウの幼虫がへばりついていた。可愛いやつだ。蝶のいのちは、すごいとおもう。韃靼(だったん)人のこころを鼓舞する生き物だった。
安西冬衛は《一匹の蝶が、韃靼海峡を越えて行った》という1行詩を書いている。青い海原を1匹の蝶が、ひらひら翅を動かして、渡ろうとするのだ。とんでもなく、フォトジェニックな飛翔(ひしょう)ではないかとおもう。
少年には、とんでもなく大きな夢を抱かせる詩に見えた。少年は、いのちって何だろうとおもう。そのときの驚きと、決意のすごさを、いまおもい出している。
時の紗幕(しゃまく)の向こうで、1匹のモンシロチョウが動きを止めた。
それと同時に、アブラゼミの啼き声が止まり、ころりと樹から落ちた。
そのとき納屋の窓から、ひらひらと《たましい》が舞い上がった。
「大きくなったら家を建てようよ」と、ぼくは本気でいった。
「ええ、でもあなたは、東京へ行くんでしょ?」
「行くよ」
「さみしいわ」と彼女はいった。
明治26年5月、北海道・北竜村をつくった人びとのことがおもい出された。彼らは、北海道へ行くといって、印旛郡埜原村を出たのだ。まるで一匹の喋々のように。