将功なりて骨枯る。3

「谷山=志村予想」を通して、「フェルマーの最終定理」の証明へ。




1986年、若き新進気鋭の数学者アンドリュー・ワイルズは、「谷山=志村予想」という道を通って「フェルマーの最終定理」を証明できる可能性があることを突き止めました。

そのときアンドリュー・ワイルズはケンブリッジ大学で博士号を取得し、大西洋を渡って米国のプリンストン大学に移り、今ではそこの教授になっていました。

ワイルズは、当初「谷山=志村予想」が証明可能だとはおもっていませんでした。それよりも自分が生きているうちに証明を目にすることはないだろうと考えていたようです。「谷山=志村予想」はずいぶん昔から未証明のままだったし、だれも証明することはできないだろうと思っていたらしい。

しかし当時、世界の数学の主流はそこにあったと述べています。

ところが1989年3月8日、「ワシントン・ポスト」、「ニューヨーク・タイムズ」紙の一面を見てワイルズは衝撃を受けました。見出しには「フェルマーの最終定理」が解決されたと出ていたからです。

解決したのは、なんと38歳になる東京大学の数学者、宮岡洋一でした。

世界一の難問に解法を見出したというのです。

宮岡の専門は「微分幾何学」でした。ところが彼はその時点ではまだ論文に出したというのではなく、ボンで開かれた数学研究会の会議であらましを説明しただけでした。これまた「微分幾何学」というまったく新しい分野から「フェルマーの最終定理」に挑んだものでした。会場にたまたま居合わせたドン・ザギエルという数学者は、宮岡の説明を聞いてわくわくし、何人かの専門家はそれでうまくいきそうだと見ていたようだと、後に述べているとおり、微分幾何学という新領域からの攻め方が新鮮におもえたようです。

しかし、これもまた、不発に終わりました。

ところが、「フェルマーの最終定理」のほうではなくて「微分幾何学」の領域で、多大な貢献をする結果となりました。

さて、「リーマン幾何学」が提唱するもの、それはいったい何でしょうか。

かつて、リーマン幾何学が提唱した「非ユークリッド幾何学」の謎を、偶然にも証明したモデルとなったことは驚きに値します。

ユークリッドは古代ギリシャのプラトンに学び、ピュタゴラスの時代よりも300年ほど後の数学者です。19世紀に、ユークリッド幾何学では解決できない問題が発見され、ドイツのリーマンによって「非ユークリッド幾何学」と称される多次元幾何学が確立され、これによって曲面上の幾何学を多次元に拡張した学説がひろく認められ、応用されて今日にいたっています。

リーマンの専門は、複素関数論でした。

「フェルマーの最終定理」をめぐる数論界の動きもまた、歴史の動きそのものを如実に示しています。数学上の闘いの歴史です。

そこに格闘した多くの数学者が苦労の果てに証明し、そして失敗し、また証明に挑戦しては挫折する、そうした繰り返しが数論界に実りある歴史を今日残してくれています。そんななかで、しばしば失敗の枝葉からおもいもよらない別のヒントを得ることが数多くありました。

あの威厳をもって世界の数論界に君臨していたピュタゴラスですら、「ピュタゴラスの定理」に、ある条件を加えるだけで、つまり「2乗」ではなく、「3乗」以上に変えるだけで、解が得られないことが証明されたわけです。ピュタゴラスの時代から2500年を経て、やっと解決されたわけです。

そもそもピュタゴラスが教団をつくったとき、その子弟のひとりが「ピュタゴラスの定理」に疑問をもち、「2乗」にすると解が求められるのに「3乗」にすると解が求められないのはどうしてなのかと、ピュタゴラスに質問しています。彼のいうことを認めると、「ピュタゴラスの定理」そのものが根底から崩壊することをピュタゴラスは知っていたフシがあり、子弟を処刑してしまいます。

子弟の名前は思い出しませんが、もし彼が生き長らえていたなら、ひょっとするとピュタゴラス以上の別の仕事をやったかも知れません。惜しいことです。

ピュタゴラス教団は、才能豊かな門弟たちに恵まれ、古代ギリシャの数学を飛躍的に伸ばしました。ピュタゴラスの説を継ぐ「ピュタゴラス学派」と呼ばれる学徒によって、ピュタゴラス亡き後、教団は3世紀半ほど存続しましたが、学徒にフィロラオス・アルキタスの名が見られるだけで、その後これといった瞠目すべき業績をあげることがありませんでした。

そのうちに、クレオパトラの支援を得て、しばらくは図書館内で教学に情熱を燃やす時代をつくりますが、古代ギリシャ数学はここで終焉を迎えることになります。以来、ギリシャ数学は14世紀のイタリア・ルネサンス時代を迎えるまで、途絶えました。