砂川で恋の性と会う。1




札幌で、墓地の丘の上を見て、ぼくは真っ青な空をながめた。

雲ひとつない快晴である。おばさんも、

「ゆきちゃんかい? 来てくれたんだね。りっぱになって、……」といっているように見えた。しばらくぶりに訪れたおばさんの墓。おばさんが亡くなったのは、昭和45年。おばさんには子供がいなかったので、ぼくがまるで、彼女の子供のように思えたのだろう。いろいろとめんどうをみてくれた。ありがたくおもい、おばさんには感謝している。大学進学、そして留学と、おばさんはさまざまな援助をしてくれた。

彼女が、北竜町のやわらの家に訪れるときは、いつも鉛筆を3ダースお土産に持ってきてくれた。兄弟3人分のHBの鉛筆。ときどき色鉛筆だったりした。死んだ弟の昭夫は、まだおっぱいを吸っていた。ナターシャが昭夫を背負って、ご飯の支度をしてくれていた。

墓地の丘の美しさに見とれていたら、孝志はきいた。

「兄貴、これからどこかに行くのかい?」

「そうさな、……時間はまだある。……そうだ! 砂川へ行ってみるよ」

「砂川? だれかいるのかい?」

「いるよ。……中学生のころの、初恋の女性だよ」

「兄貴! やめときなよ。……いまさら会っても、……」

「いや、そうじゃなくてさ、いろいろあって。クラス会に一度も参加していなくてさ、悪いから、ちょっと顔だけでも見せてくるよ」

「それなら、いいけど、……でも、砂川へは連れて行けないなあ」という。

「電車で行くから、なんていうことないよ。小一時間も、あれば着くだろう」

「特急なら、37、8分だろう。……じゃ、行ってきなよ。……でも、その人、びっくりするよ。中学生の女の子のイメージを期待しても、兄貴、それはムリだよ。……」

「いや、彼女はあまり驚かないよ。電話はときどきしているし、こっちの写真も送ってるからね、……砂川に着いたら電話するよ。彼女は美容師で、まだ働いているよ」

「兄貴らしいな、ははははっ」といって孝志は笑った。

孝志と札幌駅で別れ、L特急に飛び乗って砂川へと向かった。車内で、外の景色を見ながら弁当を食べた。考え事をしていたら、あっという間に着いた。

それからバスに乗り、350円区間を走った。

どこも、晩秋の田園のなかだ。

ところがバスの隣りのシートにいた女性に道を尋ねると、

「あの美容院なら知ってます。コスモス美容室は、すぐ分かります。街には美容院は2軒しかありませんから。その1軒です。じき見えてきますから、教えてあげますよ」という。

15分ぐらい走ると、その美容院の看板が見えてきた。

「ほら、ここです」と彼女はいった。

間口の狭い玄関が見え、カツラをかぶった人形が数体ショーウインドーに並んでいるのが見えた。

「ここです。バスはこの先でUターンをして戻りますから、そこで降りると、反対側にその店があります。店の前が、ちょうどバス停なんです。じゃあ、お気をつけて、……」と彼女はいった。土地の人のあったかい親切に感謝した。

着いたところは、上砂川町1条1丁目というところで、そこにはもともとJRの駅があり、むかしは繁華街だった。いまはさびれて、商店が歯抜け状態になって、駅前のロータリーをぐるっとまわって、バスは停まった。

人通りもぐーんと少なく、民家のトタン葺ぶきの屋根々々が、すっかり錆びた色を見せ、あちこち家が崩れかかり、一部は、屋根のトタンが剥がれ落ちている家があった。ネコが、だれもいない道を悠々と横切った。どういえばいいか、駅舎はあるものの、もう列車は通らず、たちまち街も斜陽になってしまったゴーストタウンのような気配がしていた。

着いたときは、午後になっていた。日はまだ高い。

「こんにちは、……」

と声をかけて店のなかに入った。客が2人ほどいた。

「いらっしゃいませ。東京からお見えになった方ですか? お待ちしておりました。先生は、いま、手がはなせないので、こちらにどうぞ」という。たぶん先生、――Т律子、律ちゃんの弟子なのだろう。まだ修行中の20代の女性に見えた。応接室のようなところに通されて、少し待った。お茶が出た。灰皿が目についた。

「たばこ、吸ってもいいでしょうか?」ときいてみた。

「どうぞ、どうぞ。……先生も吸いますから」と彼女はいった。そして店で使っているらしいおしぼりが出た。それで手と顔を拭いた。かまうもんか、とおもった。

中学時代の片思いの人、Т律子さんはここ、空知郡上砂川町で「コスモス美容室」を経営している。

「ヨーコちゃん、おしぼり差し上げて!」という律ちゃん声が聞こえた。

「もう、使っていただいていまーす」と、彼女は答えている。

「たばこでも、吸っててくださいね、田中さーん。あと少しして、終わりますからね、……」と律ちゃんが鏡に向かっていう。鏡越しに挨拶を交わす。

「どうぞ、おかまいなく」

女性週刊誌が置いてあったので、パラパラッとめくった。皇族の写真などが載っていた。そこは応接兼ダイニング・キッチンというつくりになっていた。階段があった。まさか、ここに住んでいるわけではあるまいとおもった。自宅は違うところにある。

そうか! 弟子たちの住まいになっているのかも知れないとおもった。

やがて律ちゃんがあらわれた。ウェーブがかかった縮毛、それに茶髪だ。ブルーの前掛けに、細身の白いスラックス。パーマネントに使う液体の匂いがぷーんとした。

「田中さん、しばらくでした。お元気そうね。……あなた、コーヒーのほうがいいんじゃないの?」という。

「もちろん、コーヒーのほうがいいですよ、ははははっ」

「電話とおなじね? あなたの声」

「なんですか?」

「スーツ、お似合いね」という。

「いれてあげるわね、コーヒー」といって、律ちゃんはキッチンのほうへ行った。その足取りは軽やかで、しゃんとしている。そしてコーヒーがあらわれる。

「かたじけない」

「はははっ、かたじけない? 面目次第もござらぬっていってるようね? 時代劇の見すぎかしら?」

「ご無沙汰で、面目次第もござらぬ。47年ぶりの再会」

コーヒーを飲みながら挨拶を交わした。

「まずは、お互いにご無沙汰をしてしまったわね。……」

「特急に飛び乗ったので、何も持ってこなかったんだ。面目次第もござらぬ、……あとで、草加煎餅でも送るから」

「そんなのいいわよ。会えただけでも嬉しいわ。さっきお電話いただいたとき、嬉しかったわ。ほんと! このあいだ、小松さんが来てくれたわ」

「小松茂樹かい?」

「そうよ。彼、元気よ。札幌まで来たからって、わざわざここまで来てくれたのよ。田中さんとおんなじね。……クラス会に、一度も出たことない人なの」

「彼は、何してるの?」

「弁護士よ。……東京で。……まだ仕事をつづけるっていってたわよ。彼はひとり息子なのに、やわらの呉服屋を継がなかったのよ」

「ふーん。……彼はむかしから優秀だからな、おれと違ってさ!」

「でも、田中さんてさ、むかしから、クラスで人気あったじゃない。3年間、お互いに学級委員をやってたってこと、忘れてた。ごめんなさいね。……どうしても、あなたのこと思い出さなかったのよ。田中さんて、別人だとおもってた。だって、田中さんていう人、4人ぐらいいたじゃない?」

「あれは、みんなおれの親戚だよ」

「そうなのよね? あなたの初恋の人、このあいだのクラス会に出席してくれたわよ。K幸子さん。……ほら、転校してきた子よ」

「おぼえてますよ。ぼくは彼女のこと、忘れていませんよ。律ちゃんも書道やってたから知ってるとおもうけど、Kさんは書道がうまくてね、そこに惚れまして、……」

「そうよね。字がじょうずな子だったわね。いまだって、わたしなんかより、ずっと美人よ。クラス会にあつまった女性のなかで、いちばん美人に見えたわ。彼女、遅く結婚したので、子供はまだ小さいの」

「ほう」

「あなたのこと、好きだったんじゃないの? 彼女、美人なのに、結婚が遅かったから、……たしか、30過ぎてからよ、結婚したのは。35かしら?」

「そうなの。……おれは、律ちゃんが好きだったけど、相手にされなくて、……」

「そんなことないわよ」

「でも、失礼だけど、いっていい?」

「いいわよ、なんでも!」

「よく痩せましたね。……さっき、見違えちゃった」

「むかしは、いちばん太ってたわね。あれから東京に出て修行したとき、先生にいわれたのよ。もっとスリムになりなさいって。……それで、2年半ぐらいで、いまの体重になったのよ」

「へぇぇ! そうなのかい。律ちゃんのふくらんだおっぱいが揺れるたびに、くらくらしてたよ。おれだけじゃないよ。みんな、くらくらしてた」

「ははははっ。……小松くんにもいわれた。りっぱな胸はどこへ行ったのかいって。ははははっ、……、わたしもコーヒー飲もうかしら」といって、キッチンのほうに駆けていった。そして、すぐ戻ってきた。だれかに頼んだのだろう。

「ほんとだね。おっぱいは、いったい、どこへ隠してるんだい」

「痩せると、まず胸から痩せるわね。みるみる胸がなくなったわ、ほら!」といって胸を見せた。セーターの上から、ラベンダー畠のなだらかな丘が見えたみたいだった。

「クラス会には先生出席したの?」

「高橋先生が来てくださったわ」

「え? 高橋隆先生? おれたちの3年生のときの担任の先生だな。おれ、先生に恥ずかしいところ、見られてるんですよ」

「何、見られたの?」

「いってもいいかな。……律ちゃんが黒板拭きをしてたら、スカートがずり上がってさ、太腿が見えてしまって、おれ、我慢できなくなったよ。それを先生に見られてしまったんですよ。するとね、先生はいったよ。田中、そんなとこ、見るな! ……ははははっ、おれはまだ中学生だけど、ヒゲが生えていたんですよ」

「で、どうしたの?」

「そりゃあ、トイレに駆け込んでさあ、……」

「もういいわ。その先はいわないで。……」

「そういえば、Kさんには、雪道でおしっこを飛ばしているところ、見られちゃった」

「わたしも見たわよ。いいえ、べつの男子生徒のよ」

「ぼくは、Kさん大きなおならの音を聞いてしまった」

 律ちゃんは、あきれた顔を見せた。

「田中さんて、しゃべらない子だったわね? そうじゃなかった? いま、しゃべるようになったのね」

「いま、ぼくはおしゃべりを楽しんでいますよ」