娘への手紙。1 蒸気機関車がターンして。
きょうは暑かった。朝からかんかん照りになって、街ゆく人びとは憂鬱そうに歩いている。女性たちは日傘をさしている。たいてい黒いやつだ。紫外線を避けているのだろう。
きのうからひらめいているイメージを文章にしている。詩みたいなものだ。雨竜沼へいったときの話だ。小説のなかに夏の雨竜沼が出てくる。おもい出というやつは、だれでも星の数ほど持っている。ふだんはぜんぜんおもい出さないのに、何かのひょうしに突然おもい出すっていうことがある。暑いときに、冬のおもい出をおもい出すっていうのは、乙なものだ。
――冬、中学校の校門を出てから、道のわきでおしっこをしていたときのことだ。道の両脇にうずたかく積もった雪のうえに、おしっこを飛ばしていた。
すると、女の子たちの話し声が聞こえて、校門から出てくるのがわかった。バツが悪くなって、反対側に振った。すると、こっちに向かって歩いてくる女の子の視線があった。Kさんという書道部でいつも顔を合わしている同級生じゃないか。だが、おしっこは急には止められない。彼女はびっくりしたみたいにお父さんのほうを見ていた。全部見られちゃったんだよ。
それから冬が終わりごろに、Kさんはどこかに転校していった。もともと転校生だった。
それから20年ぐらいたって、札幌で、こんなことがあった。
松下電器のショウルームの、Sさんという女の子と、白石区の松下電工のショールームまでいっしょに出かけることになり、彼女と車に同乗したときのことだ。車はお父さんが運転していた。彼女は助手席に座って、何かおしゃべりしていた。そのとき、彼女はくしゃみが出そうになって、それをこらえたんだよ。くしゃみはこらえるものじゃない、出せばいいのに、Sさんはこらえたのだ。
そのとき彼女のお尻から巨大な音響が飛びだした。ショールームに勤務する女の子というのは、どこもよりすぐったきれいな女性たちばかりだ。Sさんは、入社したばかりのころで、ずいぶん若かった。お父さんは45歳ぐらいのころ。
その音は隠しようもない。
彼女はお父さんの肩にもたれて、それまでの緊張感がいっぺんに吹き飛んだ感じになった。彼女は何をいったのか、もう忘れている。
それ以来、松下電器のショールームにいくと、黙って好きなコーヒーをそっといれてくれる。これも無言のあいさつなのだ。にこっと笑ってコーヒーをお父さんの前に置くんだ。
ああ、彼女はあいさつしてるんだな、とおもった。
「あのことは、だれにもいわないよ、安心しなさい」というような顔で向き合うんだよ。何もないけれど、とつぜんぐっと親しくなったというような心持ちがしてくる。事実、親しくなった。そのときのおならの臭いはぜんぜんなかった。彼女は急いでパワーウインドウを開けたのを覚えている。そのときも真冬だった。
♪
先日、友人と笑ったことだが、小説のなかに、こんなふうなくだらない話だけれど、いかにも臭ってきそうなおもい出なんかを挿入すると、いいかもしれないというんだよ。経験をおもい出すってかんたんなことじゃない。60年生きてきて、60年分のおもい出を、ことごとくおもい出すことなんてできない。
――たとえばシャープペンシルは、むかしからあった。
大阪の早河電気という会社が開発した商品だ。やがてその会社はそれで大きくなり、「シャープ」というようになった。で、鉛筆の芯は、先のほうから挿入することになっていた。うしろから挿入するなんてやったことがなかったから、お父さんはずっと、先の細く尖った穴から苦労して入れていた。時代がいつの間に変わったのかしらない。
社員に新しい鉛筆を数本用意して持たせたのに、使おうとしないやつがひとりいた。そいつに訊いたら、「鉛筆削りがないから、使えない」というのだ。
ナイフがあるだろう、というと、
ナイフで切ったことがないというんだ。学校でも教えないそうだ。
お父さんは、小学校へいくまでにナイフの扱い方ぐらいはもう覚えていた。小学校にはじめて登校したとき、名前を書かされた。自分の名前を漢字で書いたのは、お父さんぐらいなものだろう。書けたのは名前だけだった。
勉強はできなかったけれど、柳の小枝を切ってきて、それをナイフで削り、先を鋭利にしたり、鞍馬天狗が使う日本刀を作ったり、そんなことはわけなくできた。自分ができたことは、人もできるとおもってしまう。小説を書くとき、それで苦労する。年令によって、経験が違うのだ。
むかし鉄道の函館本線の「岩見沢」という駅で、引っ込み線や退避線など、いろいろと入り組んだ線路を見て、遮断機というのを見ておどろいたことがある。じっと見ていても飽きないんだ。
蒸気機関車の先に人が乗っていて小旗を振っている。
駅舎は小さくても、駅構内はずっと広い。機関車は行き止まりまでいくと、巨大な回転盤の上でターンするのだ。「あっ!」とおもわせるような出来事なんだ。お父さんは男だから、そんな光景を眺めるのが好きだ。線路というのをはじめて見たときのお父さんのおもい出だ。
お父さんは中学まで勉強を何もしなかったことはいったけれど、1年生から3年生まで、学級委員をやっていた。
3クラスあったから、学級委員会というのがあり、女子のТ子さんという人とクラスを代表して出席していた。お父さんが勉強できないことは、彼女はとうに知っていた。小学生のころからおなじクラスだったから。Т子さんの前じゃ、別に恥かしいとおもったことはない。
むずかしいことは、全部彼女に振った。
彼女はクラスの人気者だった。お父さんだって、悪ガキたちには人気があった。勉強のできるやつは、あまり人気がなかった。人気のあるやつが学級委員になれのだよ。別に選挙をやるわけじゃない。議長が「田中さんで、いいですか?」というと、「いいでーす」と全員答える。
それで学級委員になっただけのことだ。
「おまえ、字がじょうずなんだから、もうすこし勉強しろ!」と先生にいわれつづけていた。ノートだけはじょうずに書く。先生が黒板に書いたことを全部書き写すだけだ。何もわかっちゃいない。勉強しようとはおもったことなど一度もない。そのうちに、中学1年生の第2学期から、クラスの出席簿を記録するのはお父さんの仕事になった。授業中に出席簿を記録していても、だれも文句はいわない。担任は高橋隆先生だ。「字がじょうず」と褒めてくれた先生だ。
そのうちに学校からの大事な連絡記事を、お父さんがうしろの黒板に書かされるようになる。で、転校してきたばかりのKさんは、その黒板をいつも眺めていた。彼女はお父さんより字がうまい。北竜中学校の書道部で、2段までいったのはKさんだった。書道部の先生は渡辺晋一先生だった。国語の先生で、お父さんのことをまるで勉強のできないやつとおもっていたに違いない。国語なんて、ぜんぜんわからなかったから。
「うまく書けたな。田中、おまえ読んでみろ」先生はそういったのだ。
半紙に書いた毛筆。カメラが部員たちを撮るとき、お父さんだけみんなのまえで字を書いていた。もう3年生になっていて、卒業アルバムを作るというので、全員写真に収まったときのことだ。
まえにも書いたけれど、お父さんは自分で書いた文字をまったく読めなかった。Kさんがそばにいた。Kさんに知られるのがとても恥かしかった。だから、卒業アルバムには、お父さんの顔はちゃんと写っていない。下を向いていたからだ。
そのときの恥ずかしい気持ちは、全員のまえでおならするよりも、もっと恥ずかしい気持ちだった。それで、しかたなく勉強をするようになった。
♪
数年まえ、フレッド・ウルマンという作家が書いた「友情」という本を読んだ。
彼は画家でもあった。
この本は、もっとも下劣な悲劇をテーマにしているのに、郷愁にみちた短調マイナーで書かれていた。形式からいうと「友情」は長編小説(ノヴェル)でもなく、短編小説(ショート・ストーリー)でもない。
イギリスよりヨーロッパ大陸でより高く評価されている芸術形式であるイタリア語でいうと《ノヴェッラ》というやつだ。短編小説はふつう、ある挿話、――たとえば生のちょっとした断片をあつかうものだけれど、《ノヴェッラ》というのは、もうちょっと複雑なもの――長編小説の小型モデルといったところか、――画家のキャンバスの大きさに合わせて物語がちゃんと構成されているという具合のものだ。対向ページに、画家が描いた絵が印刷されている。こういう小説があってたのしいとお父さんはおもう。
いまいった挿話のようにものは、お父さんの長い小説のなかに、ときどき挿入される記憶のしおりみたいなものだ。だれだって、似たような挿話をいくつも持っているものだ。
「彼は、わたしの人生に入ってきて、それから一度も立ち去ることはなかった」という文章ではじまっている。
アメリカの作家フィッツジェラルドという作家の名前は、ビッグネームだけれど、パリでヘミングウェイと会ったとき、彼は悩みをひそかに打ち明けた。男としての、ある部分の道具のサイズについて悩んでいたらしい。悩むくらいだから、サイズが短かったということだろうか。
ミケランジェロのつくった「ダビデ像」でも見たのか、パリの街で男性の裸像を見たのか、――じつはルーブル美術館で男性の裸の彫像が、彼にショックを与えたという話だった。それはおもった以上に大きかったらしいんだ。で、ヘミングウェイはいった。
「あんなふうに下から見上げれば、巨大に見えるものだよ。上からだとだれでも遠近法で小さく見えるんだよ」といって、慰めたという話が伝わっている。
そういえば、フィッツジェラルドの「グレイト・ギャッツビー」という小説は、全体が短調で書かれている。
生涯を決する出来事は、だいたい10歳から20歳ぐらいまでのあいだに経験したことで決まるといわれている。
お父さんの場合も、おなじだ。