きわすれてきた実。

北竜高等学校で……。

 北竜町のあるサイトからの転載です。北竜高校の校歌碑。

英知は、逃れがたく精力の衰えとむすびついているといわれます。

語るのは老人で、それを聞くのは若者です。しかし英知は、長いあいだ正しく維持されてきた人間関係から生まれるのですから、その関係が中断したときは、そのときの感傷だけが、いいようもなくひたひたと押し寄せてきます。

 

また、わたしの悲嘆といえば、置いてきてしまったものがある、

いまとなっては、もうなくなっているに違いない。それは沈黙の真実だよ、

戦争の悲しみ、戦争が滴り落とした悲哀の雫(しずく)だよ。

And of my weeping something had been left,

  Which must die now. I mean the truth untold,

  The pity of war, the pity war distilled.

  (ウィルフレッド・フォン「奇妙な出会い」より

 

詩人ウィルフレッド・フォンは、「置いてきてしまった」「沈黙の真実」というその人の語られないほんとうの物語は、からだの奥底にちゃんと持っているのだといいます。――この年になって、ぼくは北海道に置きわすれてきたものがあって、それをしきりにおもい出そうとしています。あんなに感動した北海道の風景が、いま雨に降られて、ぼんやりと雨のなかに煙っているように見えます。はっきりとおもい出せないのです。

そういうことはしばしばありますよね。近ごろは、そんなことばかり考えています。ふしぎだなあとおもいます。きょう、――つまりきのうのことですが、深瀬基寛という英文学者の大先生の、昭和339月におこなわれた京都大学での定年記念講義という文章を読み、ぼくは昭和33年、なにをしていたのだろうと考えました。

おもいだすのは、北海道・北竜町の「北竜高校」へ進学したころのことです。

それまで、まだ独立したちゃんとした校舎はなくて、中学校に間借りしていました。ぼくが入学したとき、はじめてちゃんとした校舎ができました。

もともとは沼田高校の北竜分校だったのです。

農業人育成を目指して開校された学校です。ですから、ぼくは沼田高校にも縁があったわけです。その年から、ぼくは北竜高校の生徒として通学しながら、日曜日には沼田高校で授業を受けていました。夏には札幌南高校へ通学していました。つまりぼくは同時に、3つの高校へ通っていたわけです。ぼくは欲張って、農業過程コースは北竜高校で、普通課程コースは、沼田高校、札幌南高校でというわけです。

通信教育制度を利用して、ぼくは毎日が勉強でしたが、いずれも費用はおもったよりかからず、父はゆるしてくれました。札幌ではおばの家に間借りし、そこから通学しました。おばは風呂屋をやっていて、大きなつくりの家でした。風呂の釜焚きも手伝いました。毎日風呂にはいり、釜焚き室での勉強は楽しく、ときどき小窓をあけて、洗い場をようすをのぞいたり、お湯の温度の加減をみたりしていました。

おじさんは、燃料の調達でいそがしかったので、ぼくはよろこんで手伝いました。燃料はほとんど廃材です。トラックで廃材を積んできて、それを電動のこぎりで切り、木を燃やします。いまのような設備はありませんでしたから、おじさんはたいへんです。おばさんは番台に座っていなくちゃならないので、とても忙しかったので、

「ゆきちゃんがきてくれて、おお助かりだわよ」といっていました。おばさんの家には子どもはいません。養子にもらわれてきた男の子は、まだ幼くて、なにもさせていませんでした。

釜焚き室はせまいところでしたが、天井は吹き抜けになっていて、上のほうにダンパーがあって、夏の暑い日には、ダンパーからぶら下がっているヒモを引っ張ると、パッとフタが開くようになっていました。小鳥がそこに巣をつくらないように、いつもフタを閉じたり開けたりしていました。

だんだんイメージがわいてきました。

そうです、そのころは、高校の単位をとるために、ぼくは熱を入れて勉強していました。いつも釜焚き室で。

ぼくの部屋は2階にあったのですが、ふたりともいそがしくしていたので、農家の長男坊は、労働することはあたりまえで、こうして手伝うことは、なんともおもっていませんでした。労働しながら勉強することをおぼえ、村に帰っても、父の手伝いをしながら勉強していました。

「おぼえておけ。……キロキロとヘクトでかけたメートルがデシに取られてサンチミリミリ」

父はそんなことをぼくに教えます。

スティーブン・スペンダー(1909-1995)の「夢を孕む耽読者」、この本は深瀬基寛の訳文で読んだのですが、いまぼんやりとおもい出します。「The Creative Element」というタイトルでしたが、彼は「夢を孕む耽読者」というタイトルにしています。それによると、詩ができあがるには、そうとうの元手がかかっているという話が書かれていて、自作を何回も何回も書きなおしているそうです。

この訳本が出てからも、またつくりかえているそうです。その後に出たWB・イェーツの「Variorum原典異文集)」という本のなかで、また変えられているという話が書かれているというのです。定本となったのはいつのことなのかはわかりません。

この詩人の名前スペンダー(Spender)というのは、おもしろいことに「浪費者」と訳せます。その彼がいっているそうです。

「わたしはスペンダーだけれど、浪費者ではない」と。

浪費したくても、大金なんか持っていないといっています。

詩人はどこの国でも、巨万の富にありつけるというのはなさそうです。ぼくは詩を読むことから、学問への挑戦がはじまったといっていいでしょう。ちょっと変わった高校生だったかもしれません。人なみの恋愛もしました。ラブレターにも詩みたいなものを書いて、彼女に送りつけたりしました。自分では何もわかっちゃいないのに、人の詩行をくすねてきて、手紙の文面に貼りつけたようなものでした。

江部乙市にいとこがいて、彼女とはおなじ年齢で、ぼくより頭のいい子でした。彼女の通っている滝川西高校の話を聴いたりしました。家に遊びにきた彼女に、ぼくはよせばいいのに、書いた詩を見られ、「……ああ菩薩、菩薩、気持ちのいい菩薩の境地」なんて書いてあるぼくの秘密の詩を見て、彼女は「これって何?」といいます。ぼくは何もいえませんでした。

はずかしいおもいをしたわけですが、そのころぼくは「菩薩」の意味を、勘違いしていたかもしれません。彼女と分捕り合いになった詩は、もう捨てましたが、ぼくのこころのなかにはまだあります。ぼくは、彼女を好きになっていました。

「おまえ、いとことは、いっしょになれないからな! おぼえておけ!」と父にいわれました。父も「いとこ婚」というのがあることを知らなかったようです。

で、好きな彼女とは、ただ会うだけにして、手もにぎりませんでした。

しかし、ふしぎだ。小学生のころ、彼女とはいっしょに風呂に入っていました。

そんなことをおもい出すと、詩が生まれそうです。

高校では柴田強先生が、ぼくの詩をほめてくれたので、そのころは詩ばかり書いていました。柴田先生はまだお若く、担任の先生でした。学校では国語の先生をなさっていて、島崎藤村がお好きな先生で、お宅におじゃますると、「千曲川のスケッチ」の詩文が短冊様のものに書かれ、壁に貼ってありました。「緑なすはこべはもえず、しくによしなし」と書かれていて、「しくによしなし」がわからなくて教えていただきました。

「まだ草は萌えていなくて、お尻に敷くまでにはなっていないんだよ」という話を聴きました。それからは藤村だ! とおもい、あけても暮れても藤村一辺倒になりました。この先生は、のちに中国にわたり、吉林大学の教授になられました。そんなに偉い先生にぼくらは教わっていたわけです。

校長の武部良吉先生は、詩人でもありました。校歌を作詞されたのも先生でした。いまはもう一部はわすれてしまいましたが、とてもこころに残る詩でした。ぼくらの高校時代は、農場というおおきなフィールドのなかで、稲みたいに伸び、秋の稲みたいにきらきら輝いていたとおもいます。

英知は若い人だけのものではなく、昭和33年を生きた多くの仲間たちとともにあった先輩たち、その交流のなかで育っていったもの、そんふうにおもっています。あのころは、世代格差とか、世代乖離とかいうことは、なにも感じませんでした。ふしぎです。村の大人たちにまじっていっしょに労働したからでしょうか、課外教室もけっこう楽しみました。多くは田植えです。これが農業高校の大事な授業でした。都会では経験できない授業だったとおもいます。