竜町。―最初にネを蒔いた人びと。(改定

なにかしら茫漠としたことを考えるとき、どうも現代人は、現在時制でものごとを考えてしまう。過去への記憶の連鎖が、いま反復と再生をくりかえし、どんどんイメージが遠ざかる。ずいぶんと芝居がかったバーチャル・ヒストリオニックスの幕開けのように。

庭先に転がっている重い石のてっぺんに、だれかが苦労して繰り抜いた大きな穴があって、雨が降るたびに穴が海のように満ちる。そこにサクラの花びらが散って、ぷかぷか浮かんでいるかもしれない。夜が明けると同時に、そこで小鳥がやってきて、水を飲んでいたかもしれない。

ぼくはふと、「先祖返り(atavism)」ということばをおもい出す。

田中源次郎というぼくのじいさんが、北竜村の恵岱別に居をかまえたときのことをおもい出し、父には受け継がれなかったじいさんの形質が、ぼくの眉毛に憎々しくあらわれてきた。70歳をこえるころ、きょくたんにあらわれてきた。ぼくはおもう。時はつながっているのだと。

それは因果的で、ときどき断絶し、非連続性の記憶の欠片みたいだが、あらわれるときは突然にあらわれる。

源次郎じいさん一家は、じゃがいもとトーモロコシを食べていた。ときにはカラス麦をパンにして食べたりしていた。北海道の農家でも、そのころ米はよほどのことがないかぎり、食べられなかった。病気をした者だけが小粥にして食べていた。

吉植圧一郎が団長として北竜村にやってきたころも、食べるものは、じゃがいもばかりだった。運がよければ、トーモロコシにありつけた。米づくりをおこなう農業経営は、全員が、明治29年に設立された合資会社培本社に所属し、生活は給料によってまかなわれた。

クラーク博士の率いる札幌農学校の校訓を順守し、社員家族は、酒もたばこも禁じられた。会社組織にした理由は、全員がこころをひとつにして、出資することが義務づけられ、金のある者は金で出資し、金のない者は労働出資をするというインセンティブの高い組織を目指したからだった。

このような北海道入植者は、北竜村の人びとをのぞいて、どこにもなかった。彼らの星雲の志の高さがしのばれる。北海道から払い下げを受けた50万坪の土地は、培本社の資産として発足した。

その「総則」の第1条には、「本社は培本社と称し同志の社員により成立す」と書かれ、第2条は、「本社は北海道石狩国雨竜郡雨竜村貸下地五十萬坪を開墾し混同農業を経営するを以て目的とす。但し総会の決議を以て補助業として商店又は工場を設けることあるべし」とし、第6条は、「本社資本金は金一萬円とし社員に於て金員又は労力を以て分担出資するものとす」と書かれているのである。

社則はきびしいものだったが、発足まもないころ、札幌農学校から人が視察に訪れたくらいである。視察におとずれた人びとは、恵岱別川を渡る橋がなく、渡し場にはそまつな独木舟があるのみで、農民が舟をあやつって彼らを渡した。作業は、事業計画にそっておこなわれ、週6日働き、日曜日は休んだ。

社長の吉植圧一郎は、若い社員、家族の教育を重視し、毎日1時間の割で、講話をおこなった。一日の作業がおわると、夕食は全員でとり、「反省の時間」をもうけた。開墾がすすみ、事業計画どおりにすすむと、功労のあった者には、事業年度末には褒賞をおこなった。

ラテン語の諺に、「勤勉なる農夫は、その果実を見ることのない木を植える」というのがある。彼らは、文字通りの、強風が吹く川岸には防風林を植え、家の周囲にはりんごの木を植えた。おおきな実りをもたらすのは、夢を抱く若い者たちだけである。

第一次の入植者たちは、人跡未踏の原生林のなかで、まず道をつくり、川には橋をかけ、家を建て、村づくりのインフラ事業からはじめなければならなかった。

まず道をつくることで、モノ、金、人、情報が迅速にすすむことを最優先にした。それは、想像を絶するほどの開拓農民の苦労である。農民らが手にする武器は、馬、のこぎり、斧、スコップの類だけだった。それが彼らの農具のすべてであった。

さらには、用水路や集会所、学校、病院、鉄道にいたるまで、将来の基本プランのデザイン化がおこなわれ、培本社の事業は、文字通りの村づくりの長短期のインフラ事業の必要性に直面した。

そのころは、まだアメリカ農法や、オランダ土木、農具は入っていなかった。アメリカから田畑を耕すプラオが入ってきたのは、ずっとのちのことだった。目指すは50万坪である。気後れするほど壮大な事業だった。雨も降れば雪も降る。北海道の冬をどうやって乗り越えるか。千葉の埜原村(やはらむら)からやってきた人びとにとっては、すべてが初体験だったにちがいない。家畜らを育てるのも、子どもたちを育てるのも、難儀の連続だったろう。

北海道史が語る植民政策は、さまざまな失敗や、やりなおしがおこなわれ、開拓行政は、ときに頓挫の連続だった。農兵である屯田兵のようにはいかなかった。それでも、北竜村の人びとは、自費自賄の志があり、他の移民たちとちがって、特別の行政支援を受けることなく果敢に事業に立ち向かったのである。

そのころの農耕馬は道産子である。まず馬をあつかったことのない者ばかりだったので、プラオをつけて3頭引きの馬を御する技術から学んだ。

そしてカルテペーターと称する種まき機をアメリカから導入し、さまざまな農機具も入れ、アメリカ農法を取り入れると、パワー・マシンの威力で開墾がいっきょにすすんだ。

じゃがいもは、「五升芋(ごしょいも)」といわれ、1株で5升も獲れるようになった。小豆は肥沃な土地柄を証明するほど豊作になり、とくに菜っ葉類、豆類はよくできた。やがて稲、黍(きび)、麦類はゴールドの穂をなびかせ、亜麻の実もよく成長した。

作物が想像以上に獲れ、できすぎを抑えるため、過リン酸石灰をまいて、出荷調整をおこなうほどになった。ほとんど無肥料栽培がつづいたと、資料には書かれている。それにしても、こんなことがずっとつづくとは考えられない。

吉植圧一郎社長は、近い将来を憂慮し、窒素肥料を必要とするときがやってくると考えた。だれもがそうおもった。そして社長は、この機にのぞみ、変に応じて南米のチリまで、「チリ硝石」をもとめて渡航したのである。

彼は国をあてにせず、直輸入を考えていた。

明治30年代だとおもわれる。

このころは、まだ稲作は本格的ではなかった。米は本州からの移入に頼っていた。屯田兵は国から給料が支給されていて、米は自由に食べられたが、開拓農民の口には入らなかった。というより、米はクスリなみに高価な主食だった。彼らの食事は、朝は麦、トーモロコシ、小豆混合食、みそ汁。昼はおなじ。夕食は、じゃかいもと、くず米・黍の混合の小粥、それに野菜の塩煮だった。しょう油、砂糖はあるにはあったが、めったに使わなかった。

ときには川さかなを焼いて摂っていたが、それは特別の日で、赤ん坊が生まれたときなど、祝いの膳として出された。当時の生活を描いた加藤愛夫の小説「開拓」のなかに描写されている食卓は、このようなものだった。それには、ぼたもちの話も出ていくる。

「お砂糖なのよ、これで明日、ぼたもちをつくることになったの」という会話がある。当時の砂糖は、「玉砂糖」といって、土くれのように黒い玉状になったやつだ。ぼくもこの玉砂糖を食べたことがある。キッチンに砂糖箱が置かれ、きびしく管理されていた。それまで、こっそり玉砂糖を食べた者がいて、係りの女性が箱をのぞくと、空っぽになっていた。吉植社長に報告すると、

「これからは、あなたが管理しなさい」という。砂糖など、口に入れたことのない者たちには、とびきりの嗜好品になったらしい。

そのころ、会社では暖房は薪ストーブを使っていたが、一般家庭にはまだなかった。玄関の入口に、大きな炉がしつらえられ、割った薪を焚いて暖をとった。料理の炉釜をかねていた。夏を迎えるころになると、ふきのとうなど、山菜が豊富にとれた。大きな釜で炊くと、ニワトリの餌にもなった。

ストーブがお目見えしたのは大正時代になってからだった。とうぜん電気などない。石油をもやすホヤつきランプがほとんどだった。これも、アメリカから輸入したもので、ガラスやストーブが入ってくると、家にはガラス窓が入り、屋根にはオランダから輸入されたトタンで葺かれた。北海道には瓦職人がいなかったので、多くはトタンで葺かれた。

着るものは、毛織物などはまったくなかった。みんな木綿の着物で、シャツも木綿のネル製のものは農民には上等すぎた。メリヤスもなければ、洋服など論外だった。子供たちは、小学生ならツマゴと呼ばれる藁靴を履き、防寒靴と呼ばれたラシャの靴は、ようやっと大正時代になってから履かれるようになった。寒いときは、みんな赤いゲットーを肩から羽織り、マントがわりにした。女性はカクマキを羽織った。

冬の移動には馬そりを使った。吉植社長はそのころ、滝川から旭川にいたる運送業の経営に乗りだし、培本社の事業として、冬場、農閑期の経営に多角化をおしすすめ、事業収益の拡大をはかった。まだ鉄道がなかったので、運送業が軌道にのると、農産物を輸送することもでき、市場へのデリバリーは一段とすすんだ。

明治32年を皮切りに、寺小屋での学校ではなく、本格的な小学校がつくられ、真竜小学校、碧水小学校、美葉牛教育所、恵岱別の公立教育所、竜西の私立教育所などが開設された。明治43年ごろにはいずれも公立の認可を受けた。

明治24年にヨーロッパ留学から帰朝した伯爵平田東助、子爵品川弥次郎らによって、産業組合組織の必要性を認識し、明治30年に産業組合法が成立すると、北海道における産業組合の創設が説かれ、板谷農場産業組合を皮切りに、北竜村の農業組合が実現にむけて大きくスタートした。創設に尽力したのは北正清だった。272戸の規模をもって創設されたのを機に、どんどんつくられていった。

北海道の農業経営は、このように多難のスタートだったが、吉植圧一郎の描いた「和(埜原)」構想は、実りある世界を実現したのである。――21世紀に入り、すでにこの物語から110年を過ぎだが、1世紀100年という単位は、最も自然でかつ具体的な単位であり、北海道人の開拓精神を培ったのは、最初にタネを蒔いた、このような人びとであったのである。