くの校生のころ。

 高校生のころの自分。


  ぼくが高校生になったのは昭和33年だった。
農家の長男坊が農業過程の高校に通うというのは、ごくあたりまえのことだったが、ぼくはほとんど農業には無関心で、普通過程の高校に通いたかった。それは経済的にゆるされなかったので、せめて通信教育で勉強しようと考えた。仲間たちの多くは、普通過程の沼田高校を受験し、ほとんどの生徒は合格した。

ぼくはそのころ、授業料の安い地元の定時制の「北竜高校」に通い、日曜日には、沼田町の「沼田高校」に通った。夏になると札幌に出て「札幌南高校」に通った。勉強が好きだったのかといえば、そうではない。ぼくはまるで勉強しなかったので、中学生までの成績は下から数えて5番目くらいという、どうしようもない落ちこぼれだった。国語は満足に読めなかったし、英語にいたってはちんぷんかんぷんだった。数学も理科も、どうしようもない成績だった。それで恥ずかしいともおもわなかった。

「おまえは中学を出ると、農業後継者として仕事をしろ」といわれていた。いくどか父といっしょに村の会合に出ることがあった。だが出てみると、そこで話されていることがさっぱりわからず、文書に目を落とすと、これまた文章がぜんぜん読めなかった。これじゃダメだと自分でもわかった。ぼくは高校進学を考えていなかったが、中学校を卒業する3ヶ月ほどまえ、親に進学したいといった。このまま社会人になるのは、そら恐ろしかった。

それが、高校生になって猛烈に勉強をはじめた動機である。仲間たちに追いつくには並大抵のことでは追いつけないだろうとおもった。父はそういう自分のために、自室を用意してくれた。8畳ほどの自分の部屋をつくってもらうと、たくさん本を買い込んでいろいろ読んでいった。

辞典も買った。広辞苑の初版である。例文がたくさん載っている例解国語辞典や英和辞典、漢和辞典などを用意した。ただし読むといっても、もともと文字を読めないのだが、ふしぎなことに、ぼくは詩を書きはじめた。書いた詩を、気まぐれに新聞社に投稿すると、載せてくれた。毎週のように載せてくれた。

 

きょうもまた静寂に夜めぐり来て

床に一日(ひとひ)の疲れ擲(なげう)つ。

 

高校一年生のときだった。

文章は読むばかりでなく、文章を書けば、文字はしぜんに覚えるだろうと考えた。だから読んでは書き、読んでは書きした。そしてその夏ごろ、「たそがれの梟」という100枚ほどの小説を書いた。だが、発表の場がなかったので、自分で同人誌をつくった。「学友文学」という同人誌で、高校生の仲間たちの原稿を募って載せた。それは第2号を出して終刊になったが、どういうわけか、ぼくはフランス革命に興味を持ちはじめ、フランス文学史上における「亡命文学」というものに興味をもった。

シャトーブリアン、ヴィクトール・ユゴーという作家を知るようになった。

そのころ何も知らないぼくが読んでも、筆舌につくせないほどの壮絶な時代が描かれており、勢いぼくはフランスの亡命文学というものにのめり込んでいった。で、その種の文学史の本を見つけては読んでいき、漠然とだが、じわりじわりとぼくのこころがヨーロッパ文学というフィールドに関心を向けはじめた。

北海道のいなかでのんびり勉強などをしているときではないような気持ちになった。

1789年のバスティーユ襲撃にはじまる虐殺の横行は、やがてヴェルサイユ行進へとすすみ、虐殺した近衛兵の首を槍先に掲げ、それを笑いながら男女の群集がひと塊りになって街をのし歩くさまは、革命に揺れるパリのむごたらしい情景になって見えた。

シャトーブリアンはそんなフランスを離れ、逃げるようにしてアメリカに向かったものの、アメリカでも理想化していた新生合衆国の実態に、深い失望と幻滅を覚える。そこでも、西欧の君主国以上に経済的、社会的な不平等が放置され、冷酷非情なエゴイズムが横行していたのである。

そんなことから、シャトーブリアンは、かつてあれほど忌まわしくおもっていた君主制と身分秩序だったが、それ以降、ゆるぎのない絶対王政主義者へと向かい、ヨーロッパへ帰還したのち、亡命貴族の義勇軍に加わり、勇敢に戦った。だが、プロイセン・オーストリア・ロシアの同盟諸国の足なみの乱れもあって、瀕死の状態でイギリスへと逃れる。

ジャコバン独裁時代に兄が処刑され、母や姉も投獄されるありさまだった。

その後ロベスピエール没落を経てナポレオン時代になり、ようやく帰国を果たした。シャトーブリアンは、フランスの無秩序を克服するため当初ナポレオンを担ぎ出そうとしたが、彼の思惑ははずれた。そして、1814年に「ブオナパルトとブルボン王家」を書き、世にブルボン王家の復辟(ふくへき)を訴えたのだった。

彼はブルボン復古王政成立後、王政支持者の中道派として政界に乗りだし、外相・イギリス駐在大使、ローマ駐在大使などを歴任した。外相時代の1823年には、内乱かまびすしいスペインに単独出兵し、当地のブルボン朝政府を再建したが、1830年「七月革命」に遭い、シャルル10世が亡命するとブルボン家への忠誠を守ってすべての公職から身を引いた。そして、1848年の病床で「二月革命」と共和政成立を耳にしながら、その生涯を閉じた。

高校生だったぼくは、文学というのは、作品を出して世に認められるという単純なものではない、ということを知った。「時代をつくるもの」という意識を持つようになった。シャトーブリアンやヴィクトール・ユゴーという作家は、自分の命を賭けて書いていることに、強烈な衝撃を受けた。ユゴーは「シャトーブリアンになるのでなければ、何にもなりたくない」と書いた。23歳という若さで、ユゴーは詩人としてレジオンドヌール勲章(シュヴァリエ、勲爵士)を受けた。

彼らの苦悩は、作品を通して知ることがいちばんだと考え、彼らの小説や詩を読めるだけ読んだ。すると、教科書に書いてある記事は、なんという無味簡素な魅力のないものか、とおもいはじめた。ただ年代記的に羅列しているにすぎない。じっさいに彼らの作品を読んで、その時代を深く知りたいとおもった。

そういうわけで、ぼくは勉強などそっちのけで、読書三昧の日々をすごした。ぼくの部屋は、たちまち本で埋め尽くされた。若いころというのはふしぎなもので、いちど読むと、ほとんど覚えることができた。こんなに一度に脳みそにたたき込んで、迂闊にも漏れ出ることはないのか、と考えた。見たこともない語を読み、それを音読すると、なんでも覚えることができた。覚えたら、その語を使って文章を書いてみた。書いた文章は、めちゃくちゃだった。文語調、散文調入り交ざって、もうすでに死語になっている語も平気で書いていた。ことばは辞典を繰ってしらべることもしたが、例文のない語は、むずかしかった。

高校の仲間たちのなかに、文学に目覚めた男がいた。彼は夏目漱石を読んでいた。ぼくはシャトーブリアンの「キリスト教精髄」やユゴーの「ノートル=ダム・ド・パリ」を読み、一貫して石川啄木と芥川龍之介を読んでいた。そして三島由紀夫の「金閣寺」につき当たり、美とは何か、思想的な分野に興味を持った。

いまその高校は存在しない。昭和53年(1978)年3月をもって閉校した。