150回芥川賞受賞作

山田浩子「」を読んで。

小山田浩子氏。


  たまたま読んだ今回の芥川賞受賞作「穴」について、何か書きたくなった。いろいろな小説があるものだなとおもう。小山田浩子さんの小説「穴」は、転居先で嫁姑とほぼ同居というきわめてベタなありふれた日常の描写からはじまり、夏を演出する蝉が、秋になっても鳴いているというところで、語り手がどんどん怪しく揺れはじめる。日常がいつの間にか、非日常シーンへと切り替わっていく。べつに語り手が切り替わったといっているのではない。語り手は、大真面目にたんたんと描写していくだけである。

そこで、主人公の妻は、川原で奇妙な穴に落ちる。

そのあたりから、現実のシーンから飛翔するかのように、幻想的なシーンへと切り替わる。これもまたけっして幻想なのではないのだが、……。

夫の転勤にともない、夫の実家へ転居した妻が、ひと夏のあいだに体験したふしぎな話として語られている。作中世界の時間設定は、ちょうど盂蘭盆(うらぼん)にあたることから、冥途から死者がこの世に帰ってくると同時に、物語の最後に死者が冥途へと送られる話が描かれており、その間の、非日常的なふしぎな体験が挿入されているという結構をしている。

ぼくはこの小説を読んで、フランスのギョーム・アポリネールの「ヒルデスハイムの薔薇」と、「オノレ・シュブラックの失踪」という小説をおもい出した。そこにも、いいようのない体験が描かれ、「……伝説の薔薇の木は蘇ったわ。でも、『ヒルデスハイムの薔薇』は埋葬されるのね」で終わる前者は、身につまされる。もとよりアポリネール(1880-1918年)は、詩人であるとともに、すぐれた短編作家でもあった。

またカフカの「巣穴」という小説もある。カフカには動物が出てくる小説がけっこう多い。有名なのは1892年に書かれた「変身」だろう。

主人公が虫への変身を夢想するシーンをふくんだ「田舎の婚礼準備」(1907年ごろ)という作品をのぞくと、ほとんど初期の小説は動物物語だったらしい。

それはそれとして、小山田浩子さんの「穴」には、これといった仕掛けはないものの、細部のディテールはきめ細かく、幻想とはいえないまでも、モノにたいして不気味なほど細密に描かれている。

 

わたしは穴に落ちた。脚からきれいに落ち、そのまますとんと穴の底に両脚がついた。/顔のすぐそば、穴の縁でコメツキムシが跳ね出した。跳び上がるたびにぱちっと硬い音がする。細長くて黒い背には浅い縦筋がいくつも走っている。頭部には曲がった触覚が見える。コメツキムシのどこがどう鳴っているのかわからない。私の体はどこも痛くない。穴は胸くらいの高さで、ということは深さが一メートルかそこらはあるのだろう。私の体がすっぽり落ちこんで、体の周囲にはあまり余裕がない。まるで私のためにあつらえた落とし穴のようだった。(348ページ

 

何せ、深い。なぎ倒されたように平らになっている穴の周囲の草の隙間に石やプラスチックのかけらなどが見えた。大きな黒い蟻と小さな蟻が隊列を組んていた。かなりの大行列で、同じ方向に向かって時に二列になり時に混じり合い時に赤いのが黒いのの上になったりして進んでいる。私が持っていた手提げ袋が彼らの真ん中に投げ出されていて、数匹がその上を歩き、大部分は迂回路を形成しようと右往左往していた。/……黒い蟻の何匹かが赤い蟻を咥え、赤い蟻の何匹かが一匹の黒い蟻の脚を噛みちぎった。黒い蟻は硬そうで、赤い蟻は柔らかそうだった。(349ページ

 

このようにつづられ、遠くまでパン・フォーカスに見える風景のなかで、ある一点で蠢(うごめ)く蟻たちの動向をつぶさにみつめる語り手の描写がすごい。その小さな世界の生き物たちが精一杯生きているのだ。

ゴミのような小さな動物たちの生命のふしぎが、穴の縁で目をこらしつつ彼女はながめつづける。

この小説では、そういう「穴」はぼこぼこ、いたるところに出てくる。これは何を意味するのだろう。そういうことは、この小説では大した問題でないかもしれない。「穴」は何かの寓意ではなく、けっして何かに表象され得ないものとして書かれている。これを語ってしまうと、寓話になることを作者はちゃんと心得ており、そういう意味では、カフカの作品とも違うのである。

小説というのは、時間の流れから解放してくれると同時に、日常性からも解放してくれるものである。そういうかぎりにおいては、この「穴」は傑作である。ぼくにはそうおもえる。