W・H・オーデンの「術館」に見るーモア。

 

  寒波押し寄せる海を見てみたい

  新越谷の駅まえに降り立つと、冬の日差しが射していた。

ひょんなことから「村の起源」ということばがよみがえった。村の起源……そうだ、「村の起源」というタイトルはいいなあ、とひとり考えていた。カラスやスズメたちが、木々のあいだにとまっているのが見えた。その正面に30階を超える高層マンションがそびえている。みんな寒さで赤い顔をして、ロシア人のように身をかがめて歩いて行く。
 
「ゴンクールの日記」斎藤一郎訳、岩波文庫、2010年。

  近くの喫茶店で本をひろげ、ぼくはW・H・オーデンの「美術館(Musée des Beaux Arts)」という詩を読んでいて、肝をつぶした。まず訳文を読んでいただく。

 

苦しみのことで間違えたためしはない、

昔の大画家たちは。彼らはその人間的位置を

知り抜いていたのだ。誰かが苦しんでいるときも、

他人はものを食べたり窓を開けたりのろのろ歩いたりする。

老人たちが敬虔に熱烈に奇蹟的な生誕を

待ち焦がれているときも、いつだって

とくにそれを望んでいるわけでもない子供たちが、森のそばの

池でスケートをしているものだ。

巨匠たちは一刻も忘れない、

あの恐ろしい殉死でさえ、まるでどうでもいいことのように

どこかの隅っこ、散らかり放題の場所でひっそり進行することを。

そこでは犬とどもが平気で犬どもの生活を続け、拷問役人の馬が

無心な尻を木にこすりつけていたりする。(川本皓嗣訳

 

ぼくは、こんな詩を読んだことがなかった。読んでいたかも知れないけれど、おもわずスルーしてしまったようだ。あとの3行を原文で書くと、

Anyhow in a corner, some untidy spot

Where the dogs go on with their doggy life and the torturer's horse

Scratches its innocent behind on a tree.

となっている。

おおまじめな人の死なのだが、そのそばでは、馬が無心に尻を木にこすりつけているという件りは、なんともおかしくて、罪深い実感をあたえている。人の葬式に列した人が乗ってきた馬は、そのそばで、飼い葉桶に首を突っ込んで秣(まぐさ)を食べながら、無遠慮に糞を落とす。あるいは、人が川に流され、金きり声をあげて人を呼ぶそばで、犬が棒切れを咥えて、人にじゃれついていたりする。

退屈な詩行を読まされるときは、人の世界観はいっこうに変わらないけれど、語り手の苦しみが満たされる詩行に出会うと、たちまち読み手の世界観=グランドデザインが変化して見える。ひと晩で手足をもぎ取られるような苦痛は、めったに起こらない。けれども、子供や動物たちの世界観は、なんらふだんのままで、勝手なものだ。

批評家は、これを「脱中心化」といっているらしい。

彼らには人の苦痛など、どうでもいいのだ。

W・H・オーデンの「美術館」は、それをいっているのだろうとおもう。さて、この詩はなぜ「美術館」といっているのだろうか。「反ヒーロー」とか「感傷的誤信」とかいう、詩的な自由闊達さの行きつくところだ、とおもってしまう。そうして絵のように語られる全風景は、なにもかもパンフォーカスに写っていて、そのまま額縁に入れられるのである。この凍りつくような詩行に、ぼくは肝をつぶした。

反対に、微笑ましい光景に出会うこともある。

合衆国大統領の就任式に、ロナルド・レーガンのそばにいた馬が、あろうことか、彼の男根を精一杯にふくらませ、ぼーっと突っ立っていた。

これをとらえたテレビ・ネットワークは、全世界に中継され、アイロニーをまじえて報道した。Where the dogs go on with their doggy life and the torturer's horseそこでは犬どもが平気で犬どもの生活を続け、拷問役人の馬が……)というとき、人間には中心的なことであっても、彼らにとっては、他人も同然、人間どものやることにはまるで興味がない。無関心を決め込むのである。

そこに、この詩のインパクトがある、とおもわれる。そしてそれを麗々しくも「美術館」と銘打っているところにおかしみがある。そのおかしみは、詩を読む読み手にしかない。

これは、どうでもいい話なのだけれど、時代が変わっても、人びとの気持ちは変わらない。家族の病気や、死に立ち会うのは痛ましい。骨の髄まで凍りつく猛烈な寒波が押し寄せ、合衆国は零下40度にあるという。取り込み忘れた洗濯物は、がちんがちんに凍りつき、米国の東海岸は北極圏になった。

人びとは外套を着こみ、わが身を抱えるようにして冷気のなか、轍につまずきつつ一歩ごとに足音をたてて、白い息を吐いて歩いて行く。

墓掘り人のハート形のシャベルが、鉄を打つ斧みたいな音をたて、それがおわると、彼は家に帰ってビールを飲む。

ケーブルテレビが映し出す映像は、どこも寒波の冬景色だ。電話は不通。

「ここはロシアか?」と自問してみる。

「ちがうだろう。ここは合衆国だぜ。女衆までそろって尻もちをつき、ひっくり返り、抱いていた赤子を放り投げる始末だぜ! おーい、ビールがないぞ! はやく持ってこい! おれは飲みたいんだ。まだ死んでたまるか!」

そんなうわごとみたいな男の音声が聴こえてくる。

キッチンでは鉄鍋のなかで、何かぐつぐつ煮えだした。スカンクの腸(はらわた)が、爆発したみたいな臭いがする。生肉の錬金術師じゃあるまいし、兎の屍だの、雪をかぶったガチョウの骸(むくろ)だの、いろいろあるが、波打つペティコートみたいなひらひらした寝巻を着てベッドで暖を貪りとっている妻は、もう長いことないだろうと男は考える。この春までもつかどうか。……

墓掘り人を描いた詩を読んだことはないけれど、こんな男を描いた詩はゴマンとある。

 

ビールを一杯引っかけようと、パブに入っていったら、

亭主の奴がこうほざく、「兵隊さんはお断り」。

カウンターの女どもが、死ぬほどげらげら笑うんだ。

店から通りに引き返し、おれは自分にこう言った、

トミーがどうした、トミーがこうした、「トミーはあっちへ行け」だと。

でもいざ鎌倉というときには、「アトキンズさん、ありがとう」だ。(……)

ラディヤード・キプリング「トミー」

 

キプリングは、今世紀に生きるべきだったとおもう。エズラ・パウンドの「詩篇」(The Cantos)よりずっと好きだ。そこでエズラ・パウンドの詩をひとつご紹介してみる。

 

で、やつが入ってきて言うんだ。「やれないよ、

こんな値段じゃ、とてもやれないね」

この前の戦争のとき、ここイギリスでの話だ。

やつは何だか陸軍の飛行機の

タービン用に鉄の塊を作っていた。

検査官が「検査でどれほど撥ねられるんだ」と訊くと、

ジョーが言うには、「不良品なんか一つも出ないよ。うちの……」

すると検査官が「ああそう、それならやれないのも

                   無理はない」

エズラ・パウンド「詩篇」より

 

エズラ・パウンドにはもっといい詩がいくらでもあるのだけれど、これがもっとも彼らしい詩になっているとおもう。

だが、キプリングの詩のほうが粋だ。詩の材料ならいくらでも道に転がっている。けれども、日本人はゴンクールの「日記」に描かれたように、完全無欠な微細なタッチを好む。「日本芸術もまたギリシア芸術と同様に偉大なのだ」といっている(ゴンクール「日記」、1862年1月1日)。

きょうも寒さのなかで、100年以上むかしの詩人たちのアイロニーを噛みしめた。