つよい芳香を放つフランにせられて。

ぼくはサフランという花についてはほとんど知らない。

サフランの名称は、「黄色」を意味するアラビア語の「zafran」からきているようだ。英語にもsaffron yellowという語があり、濃い色をした黄色、つまり「サフラン色」という意味である。

強い芳香を放つ、赤くて長い3つのおしべを持つアヤメ科の多年生球根植物で、これを乾燥すれば、独特の風味を持つハーブになるという。ハーブ料理には必要なアイテムといえるかもしれない。ところが、ジェミー・オリバーのハーブ料理の本には、出てこない。ぼくはこのサフランの料理を賞味したことがない。

ぼくは料理の本もときどき読んでいる。

たとえばアンドレ・シモンさんが書かれたという本。「Anfrë Simon;Tables of Content, London, 1933」が、もっともよく世界的に知られていて、その日の献立と、そのでき具合、あけたワインの味との調和、不調和などが、ほんのささいなことまで語っていて、間然するところがない本なのだけれど、そこにもサフランの話はひとつも出てこない。

アンドレ・L・シモン(1877~1977年)さんといえば、イギリスに帰化した人なので、サイモンさんと呼ぶ人も多い。

Guide to Good Food and Wines, A Concise Encyclopaedia of Gastronomy, Complete and Unabridged.1960」という本は、一冊本で、これほど完備した料理の本はないという評判だ。巻末には詳細な参考文献の一覧表が付されていて、たいへん重宝な本。フランスやイギリスの高級レストランに行くと、かならずこの一冊は置いてあるという。

料理研究家の辻静雄さんは、「日本のレストランの主人は、どうしてこの種の本に興味を示さないのか、訝しく思っている」と書かれている。辻静雄さんの書かれた「フランス料理の学び方」(中公文庫、2009)という本は、「大阪・あべの・辻調理学校」のテキストとして書かれたものだそうだが、じつにテキスト然とした感じではなくて、懇切丁寧な、料理をめぐる知的興味を喚起させる本になっていて、ぼくらでも手に取るように分かる。ぼくの愛読書になっている。

その本にも書かれていない。

ある本によれば、イランにはこのサフランがたくさん栽培されているという。イラン産のサフランは品質のよさで知られ、世界中にハーブとして売られていると書かれている。

「ある本」というのは、2006年に書かれたヤスミン・クラウザーの処女小説「サフラン・キッチン(The Saffron Kitchen)」(小竹由美子訳、新潮クレスト・ブックス、2006)という本である。ヤスミン・クラウザーは、イラン人の母とイギリス人の父を持ち、ふたつの文明をもつ国を行ったり来たりして、2国の異なる文化の狭間で、この小説を書いている。小説のテーマもそこにある。

サフランの球根は、めずらしいものは高値で売買されているようだ。

オランダのチューリップとおなじくらい価値があるというのだろうか。そのむかし、チューリップ・バブルがはじけたとき、一個のチューリップの球根が、1万ギルダーもしたといわれている。当時の1万ギルダーというのは、現在の円に換算すれば、3億円ぐらいになるだろうか。

たかが一個のチューリップの球根が、3億円?

バブルもここにいたっては、人のこころを惑わせ、バブル狂騒のかまびすしい世界をつくった。資本主義経済の最初のバブルの洗礼を受けたのは1637年のオランダだった。サフランは、かつて日本へは、江戸時代に薬として伝わっている。他のハーブとともに。

サフランの話はともかく、小説「サフラン・キッチン」の話をする。

この小説はまことに奇妙な小説である。ぼくにとって奇妙というのは、なにしろ、ぼくはイランについて何も知らないので、40年をへて甦る、はるかな故郷と引き裂かれる恋人へのおもいをつづるこの物語のバックボーンに見え隠れするイランの風物、――たとえばこのサフランの挿話や、その他ぼくの知らない習慣について、まったくの予見を裏切る話の展開に、びっくりしている。

ここには、どんな哀しみに出会い、どのような屈辱を受けようとも、人は自分自身を育んだ風土を、生涯、かかとにくっつけて歩くしかないのだ、ということをおもい知らされる。

イランの風土から立ちのぼる匂いや、色、音……、あらゆるものの記憶が描かれている。それを描く作者のことばが、沈黙する砂塵となって土臭くて、しかもあたたかく吹き渡っていく。ぼくは、このとても甘美な文章に、堪能することができた。

ぼくをびっくりさせた小説が、もうひとつある。

 

子供は小春日和(こはるびより)の10月上旬の晩、激闘のうちに宿ったのである。終日、暑い陽光が空低く輝き、人や物の上に琥珀色(こはくいろ)の睡気(ねむけ)を落としていた。そのまま夜になったが、しだいに温かく、けだるい闇が下りてきた。まだ咲き残るすいかずらの香りが、寝室の窓辺に漂ってきた。

 (リン・シャロン・シュオーツ「激闘」より

 

これは、リン・シャロン・シュオーツの「激闘(Rough Strife)」と題された短編(計算すると、400字詰めで57枚程度)の一部である。この作品で彼女は、1979年度のO・ヘンリー賞を受賞している。集英社の「世界の文学Ⅱ」(1989年版)に、フィッツジェラルド、ヘミングウェイ、ヘンリー・ミラーらとともに収められている。

いかにも無駄のない、引き締まった文章で、みごとな文章。

「子供は小春日和の10月上旬の晩、激闘のうちに宿ったのである」という文章に度肝どぎもを抜く。

――ぼくが、母の胎内に宿ったのは、北海道のいなかの薪(まき)小屋で、父がヴァイオリンを弾いて、母を呼び寄せたときだったという。母は父の弾くヴァイオリンの音色にうっとりし、南方の戦地に出征した男との約束を忘れて、父の胸に抱かれた日のことだった。去っていった者は、じきに忘れ去られる。

ぼくが母の胎内に入ったことを知った父は、周囲の者たちの説得で、すばやい婚礼の日取りがととのえられ、恵岱別の本家の1室があたえられ、そこでふたりは夫婦になった。それが、昭和16年の暮れである。

日本はじきに太平洋戦争をしかけた。1941年12月7日(日本時間8日)、日本海軍は、オアフ島のパールハーバーを奇襲攻撃して太平洋戦争の火ブタが切られた。ぼくは、まだほんの5ヶ月の胎児だった。父母の婚姻は、昭和17年2月に届けられ、ぼくは、その年の4月27日に生まれている。

後年、――といっても、1985年ごろのことだが、父は長い自叙伝を書いている。父の若かりし時代をいろいろつづったものであるが、それが完成したのは、平成4年ごろだったとおもう。

札幌へ帰ったおりに、主要な部分をコピーして、持ち帰った記憶がある。

それによると、いよいよ戦争がはじまり、父たちの結婚は、村人たちの手によって早々にまとめられていったように書かれている。何事も急いだ時代だったようだ。

父の書いた農業日誌は膨大をきわめ、戦後、中国戦地から帰ってきてからつづった日誌であるが、押入れのなかに何10冊もあった。それには、日々の出来事が詳細につづられていた。そのころ、北竜町が町史を編纂するさいに、大いに参考になったという。

「北竜町史」()にも、父田中員夫の絵と文章が記載されている。母は、父とめぐり会って、どんなに幸せであったろうかとおもう。戦争が終わり、母と約束を取り交わした男は、南方へ飛ばされていったまま、そこで戦死した。

 

彼は唇と湿った裸の肩にキスをして、お別れにタオルに包んだお尻をきゅっと握ると、出かけていった。夫が廊下を歩いていくのが見えた。アイヴァンは大柄だった。その巨大な骨格と、鉄の棒でも入っているようにこわばった脚に、ずっと魅()かれてきた。

でも、今ではその姿にやや狼狽(ろうばい)しながら、アイヴァンが大柄なこわばった体の赤ん坊の親にならねばいいが、と思った。

若さの盛りを過ぎた女の傷つきやすい自己陶酔(とうすい)に浸りながら、彼女の細いウェストと豊満な乳房を、うっとりと眺めた。

とくに骨の見える肩のあたりが脆(もろ)くて気をそそるようで好きだった。もっともそんな風情はじきに消えて丸味を帯びるのだろう。どんなふうに変わるかという好奇心に駆られて、友達の顔で見覚えのある妊婦の容貌を、わが顔に探した。面に出るのはそれとわかる変化というよりも、透けて見えてくるような傷つきやすさだった。

リン・シャロン・シュオーツ「激闘」より

 

文章のディテールに神経がいきとどき、描写がひじょうにたくみである。こういう文章を読むと、また別の小説を書いてみたくなる。――しかし、たんなることばよりも、じっさいの出来事に出会って慰められることのほうが大きい。じっさいの出来事は、人のこころを動かす。

小説を読んで感動するというのは、自分の身に起こったかつての出来事といろいろ重なっておもい出すからだろう。自分の過去など、混沌(こんとん)そのものだ。茫洋(ぼうよう)として、おもい出そうとしても、すべてすかんで見える。