賀敦子さんと本のなかでり合って。
  お若いころの須賀敦子さん。
  きょうもいい天気になり、ちょっと外出をした。

ぼくは出かけるとき、リュックサックをかついで出かける。本を入れることもできれば、おにぎりを入れることもでき、スケッチブックにB4の鉛筆、万年筆、ノートブック、原稿用紙、カメラなどを入れ、気軽な気分で出かける。
 「須賀敦子のトリエステと記憶の町」(河出書房新社、2002
 
  きょうは須賀敦子さんの思い出を語った岡本太郎さん(
イタリア文学の専門家。東京大学大学院で、当の須賀敦子さんから学んだ人)の「須賀敦子のトリエステと記憶の町」(河出書房新社、2002)という本を持って出かけた。

ぼくは須賀敦子さんの本をいろいろ読んできた。いちどもお目にかかったことはないのだけれど、この人の文章を読んで、いつも、こんな文章を書きたいなあとおもっていた。けれども、いちども実現することはできなかった。水にたとえれば清澄な、空にたとえれば澄み渡った、どこにも濁りのない文章で、味わい深い日本語に移し替えることのできた翻訳家。そういうイメージがある。だから彼女の訳した詩文も、信用できるとおもっている。たとえば、こんな文章だ。

 

やがて結婚した相手は、無類のサバ好きだった。しかし、彼は私にその偉大さの秘密をすこしも説明することなしに、ただ、その詩集をつぎつぎと手わたしてくれた。そして、サバの名といっしょにトリエステという地名が、私のなかで、よいワインのように熟れていった。(須賀敦子「ミラノ 霧の風景」より

 

「結婚した相手」というのは、イタリア人のジュゼッペ・リッカ氏。1961年、彼女が32歳のときに結婚している。

イタリアのトリエステは、ヴェネチアの東150キロにあり、長靴型のイタリア半島のふくらはぎのつけ根部分に位置している。特急列車に乗っても停車駅が多くて2時間ほどかかるという。この町から海をながめると、イタリア本土は海の向こう側に見えるという、おかしな感覚に襲われるそうだ。
 夫ジュゼッペ・リッカ氏と。

   ここは、第一次世界大戦までオーストリア=ハンガリー帝国の統治下にあった街で、人口23万人ほどで、北海道の小樽のような町に似ているだろうか。アドリア海に面した港町である。ぼくは行ったことはないけれど、なんだかすてきな町らしい。

「須賀敦子全集」(8)の第5巻に載っているイタリアの詩人ウンベルト・サバの詩集は、彼女が翻訳している。さっきの本をひろげると、トリエステの町を撮った写真がいろいろ載っている。凪いだ海もあれば、石づくりの道や家々もあって、たのしそうだ。

 

トリエステには冬、ボーラという北風が吹く。夫はその風のことを、なぜかなつかしそうに話した。瞬間風速何十メートルというような突風が海から吹きあげてくるので、坂道には手すりがついていて、風の日は、吹きとばされないように、それにつかまって歩くのだという。

「きみなんか、ひとたまりもない。吹っとばされるよ」と夫はおかしそうに言った。 (須賀敦子「ミラノ 霧の風景」より

 

「ボーラ」というのは、季節風のことで、この町にかぎらず、アドリア海の北側に面した海岸では、風速30メートル以上の風がいつも吹きあれているという。この町で生まれた詩人サバにあやかって「ウンベルト・サーバ書店」という名前の書店があると書かれている。古書店だ。ふつうサーバといわれているそうだけれど、彼女はサバと書いている。たとえばミラーノを日本流にミラノというふうに。

そんな写真集みたいな本を見ていると、その町のことはなにも知らないけれど、須賀敦子さんが愛した町として、ぼくまでがなんだかなつかしく見えてくる。彼女はこんな海を見ていたのか、とおもって。――

翻訳家としての須賀敦子さんもすてきだけれど、文章家しての彼女も好きだ。しかし、彼女がはじめて作家活動を開始したのは、おそろしく遅い。関川夏央によれば、日本オリベッティの広報誌に「ミラノ 霧の風景」を連載したのは、1985年、彼女が56歳のときだったと書かれている。これが本になって刊行されたのは1990年で、彼女は61歳になっていた。そして1998年3月須賀敦子さんは69年の生涯を終えた。

そのとき、須賀敦子さんは5冊の本を書かれていた。

彼女が亡くなってからも、これらの本は「エッセイ」と呼ばれたが、これはみんな小説だった。記憶を掘り起こして一人称で書く彼女の文章スタイルから、多くの人はエッセイと呼んだけれど、彼女の文章はご覧いただくように、エッセイ風に見えてしまう。ぼくはこのような文章が好きだ。

ぼくはイタリア語を勉強しているけれど、ほとんどまだ読めない。読めないけれど、彼女の翻訳文はとても魅力的だ。そんなことが、なぜおまえに分かるのか、といぶかる向きもあるかもしれない。ここでひとつお目にかけたいとおもう。完全な、きれいな日本語になっている見本を。――アントニオ・タブッキという作家の書いた「島とクジラと女をめぐる断章」(青土社、1995年)の翻訳文の一部である。

 

Lei mi rideva e mi lasciava intendere la ragione di quella sua vita, e mi diceva : aspetta ancora un po' e ce ne abbremo insieme, devi fidarti di me, di piú non posso dirti.  

ある人が訳した文章は、

彼女はあんな暮らしのわけなど自分でもわかるでしょという感じで笑うと、私にいった。もうちょっと待ってから、いっしょに出ましょ、私を信じてくれなくちゃ、いえるのはそれだけ。

須賀敦子さん訳した文章は、

女は笑って、どうしてそんな暮らしをしているのかを話してくれなかった。もう少し待って。そしたら、ふたりでどこかに行ってしまいましょう。あたしのことを信じて。

 

須賀敦子さんの訳文がすぐれていることは一目瞭然。

ぼくは彼女の訳文をとおして、イタリアの詩人たちの詩を読んだ。たとえばサンドロ・ペンナの詩篇「人生は…ある目覚めを思い出すこと」を読んでみる。

 

人生は……夜明けの列車の中の哀しい

目覚めを思い出すこと。おぼつかない外の

光を見たこと。壊れた肉体を刺す

刺す空気の、酸っぱい童貞の憂鬱を感じたこと。

 

こんな調子である。須賀敦子さんは、日本語への翻訳だけでなく、日本文学のイタリア語への翻訳も多く手掛けた。谷崎潤一郎の「春琴抄」、「蘆刈」、井上靖の「猟銃」、「闘牛」、庄野潤三の「夕べの雲」など。

そんなことを考えていると、ぼくはいつの間にかコーヒーを飲んでいて、この岡本太郎氏の本を読んでいた。 その店を出ると、なんだか芳醇な気分になった。そして詩人になったような気持ちになり、ペダルをこいで道々を走る草加の街に、ゆうげの灯りがともっているのが見えた。