んていうこともない日がはじまる。

  Sさん、63歳。
  さっき、Kさんが事務所にやってきた。2時間ほどおしゃべりした。

彼は昭和23年、北海道剣淵町(人口は3500人)に生まれ、旭川の高校を出て、ながらく営林署関係の役所の仕事をし、コスモ石油のビジネスサポート㈱に入り、今年60歳の定年を迎えたという。どう見ても60歳には見えない。

団塊の世代のトップを走りぬいてきた企業戦士である。石油を売る仕事に精を出して、25年間はたらいたという。

定年を迎えて、奥さまと娘さんは沖縄にはやばやと引越し、もう暮らしているという。奥さまは、東京生まれで、北海道の旭川勤務を2年ほどやったことがあり、北海道は寒くて嫌だといい、たまたま旅行に出かけた沖縄がことのほか気に入り、住み着いてしまったという。

「そりゃあ、そうですよね。東京じゃ、雪なんかめったに降りませんからね、……そういう暮らしになれている神さんですから、沖縄に行けば、そりゃあ、北海道の比じゃありませんね。あそこは南国ですから、あたたかいし、女房はとっても気に入りましてね」という。

「こっちは、北海道の寒さがむしろなつかしいくらいに考えていたんですが、あんな暮らしはいやだって、女ふたりからいわれましてね、参りましたよ。もうひとりは、娘ですよ。定年になったら、ぼくは北海道の暮らしを夢見ていましたからね。山菜をとったり、畑で何かつくったり、……。田中さんのところでは、奥さまは室蘭出身ですか? おふたりとも、息が合っていいですね」という。

「わたしは北海道の雪には慣れていても、沖縄の蛇には慣れていませんしね。ははははっ……神さんが気に入ったところは、ほんと、なんにもないところなんですよ。ほんと、なんにもないんです。……病院もないし、コンビニエンスストアもない。駅から歩いて帰る道々は真っ暗で、……、ほんと! どこが気に入ったんでしょうかね?」といっている。

「あたたかいでしょう?」

「そりゃあ、あたたかいですよ。海の幸が豊富ですしね、……そこに家を建てたいっていうんですけど、そんなことしたら、破産しちゃいますよ」という。

Kさんはスーツ姿で、いまでもサラリーマンという格好をしている。ネクタイもしているし、ヨーコのあこがれるスタイルだ。

――いまは、沖縄のある建物の2階に賃貸で住んでいるらしい。その建物も古いけれど、安いらしい。

「これからは、年金暮らしの毎日がはじまります。……勤務ですか? ゆっくり考えたいとおもっていますがね。……沖縄じゃ、何もないでしょう」という。

「北海道の北竜ですか、いいところですね。わたしらは一度ひまわりを見るために入ったことがあります。うねった畑があって、地平線まで、ずっと、ひまわりが一面に咲いていましてね、鳥が鳴いて、森があって、いかにも北海道の、風景って感じましたよ」という。

「ほう、そうですか。そこは《ゴッホの丘》というんですが、村はひまわり栽培に方向転換して、もう35年ぐらいになりますか。ひまわりは、わが村のシンボルになっています。……ほんと、なんにもないところですが、ぼくのあこがれの地です」

「奥さま、北海道に住みたいって、いいませんか?」

「いいませんね。……先日、八雲町の250坪の土地を無料で提供するという記事を読みましたが、ヨーコは、住みたいとはいいませんでしたね」

「奥さまは、何か目標があるのでしょうね。……」

「越谷に住みたいとはいっていましたが、……彼女は、映画を観たり、舞台劇を観たりするのが好きなようですから、都会から出る気にならないのかも知れません」

「奥さまは都会派ですね。お見かけしたところ、知的な感じがしましたもの。……」

「ははははっ、……ぼくはどこでもいいですけど、なるべくなら、喫茶店があって、大きな本屋があって、欲をいえば、映画館もあって、いつでも好きなことができるところならいいですね。……埼玉県なら、どこでもいいとおもっています」

「喫茶店がお好きですか?」

「はい。ぼくはコーヒーが好きで、ひとりコーヒーを飲みながら、本を読んだり、小説の構想を考えたりするのが好きなんです。原稿用紙なんかひろげちゃって、詩を書いたり……」

「ああ、そうおっしゃっていましたね。田中さんも知的な方なんですね。ぼくは、本も読みませんし、テレビも観ませんし、映画にも興味がなくて、……なんていうんでしょうか、旅行が好きですね。旅行と山菜取り。まあ、そんなところですかね」という。

おしゃべりしていたら、時間になった。さっきまで、これまで書いた日記の抜粋をまとめていた。だれに読んでもらうわけでもなく、1冊の本にまとめたくなった。これがベースになった小説のようなものをちょっと考えているところだ。

 きのうОさんの奥さまからいただいた健康補助食品《パワーG》をひさしぶりに飲んでみた。ヨーコも飲んだ。――そんなことを忘れて、いつも眠ってしまう。

「きのう、あれ飲んだのに、お父さんたら、ちっとも反応しないんだから、……」

「ああ、忘れてた。ヨーコはどうだった?」

「そんなこと、きかないで。……」

ヨーコは一瞬情けない顔をしてから、「あれは、効くのね……」といった。

どういうふうに効くのか、きいてもヨーコは何もいわなかった。からだが熱くなるといっていた。

今朝、Sさんは元気よく警備の研修を受けるためにマンションを出ていった。

「きょうは、眠りませんよ、ははははっ」といって、夏帽子をかぶり、ぼくに挨拶しながら、にこにこしてマンションを出ていった。

この人は、さいきん彼女ができたらしい。彼は63歳だ。彼女は48歳だという。おなじ警備員をしているそうだ。職域が違うのでめったに顔を合わすこともないのだが、草加に住む彼女の引っ越しを手伝って以来、ときどき会っているという話だった。

「所帯をもつなんて考えちゃいませんよ。ただ、いっしょに住んで、ルームシェアして、酒を飲むときなんか、相手がいるといいですからねぇ、……」といっている。

「好きなら、いっしょになっても、いいんじゃありませんか?」

「それはそうだけど、籍を入れたりすると、この先めんどうでね」といっている。

どうも、Sさんの考えに彼女のほうも共鳴しはじめた、というところらしい。

「いってらっしゃーい!」

「きょうも、がんばるぞ!」といって、Sさんは片腕をポンとあげた。その後ろ姿がとてもよかった。