ことば・ゴスってだろう?

仏教では言葉をひじょうに大切にします。「身・口・意」という人間の3つのはたらきが、つねに最も密接に関連しています。もしくは一体であるといわれます。心に思うこと、それが言葉になって出る。それはそのまま体に現われる、と見なします。

だから心で思っていることは、おのずから言葉になって口から出て表現され、それがさらに体で実現されるといい、この「身(からだ)・口(ことば)・意(こころ)」の3つのはたらきを業(ごう)として一括してあつかわれます。

ギリシャ語では言葉をロゴス(Logos)といい、このロゴスをギリシャ人はきわめて重要視していました。

この考えはギリシャ人やインド人を含むヨーロッパ人はもとよりのこと、アーリア人全体の考え方ではなかったかと思われます。ギリシャでは、ロゴスは、言葉・理性という意味を持ちます。

古代ギリシャ哲学・スコラ哲学では、世界の万物を支配する宇宙理性を指すといわれ、言葉をとおして表わされる理性的な活動。つまり言語や思想、教説など全般を指していう場合が多いわけです。

アーリア人の一部がインドに入ってきて最初につくった作品が「リグ・ヴェーダ」(Rg veda)です。このテキストには宇宙の万物の最高原理がいくつか掲げられているといいます。そのなかにヴァーチュ(ことば)について触れており、これがギリシャのロゴスに相当するものであろうといわれています。

「リグ・ヴェーダ」(「世界の名著」中央公論社)のなかに「ヴァーチュ(ことば)は万物にあまねく存在していて、いっさいを支配する」という意味の詩が出ています。これはキリスト教の「ヨハネによる福音書」の冒頭にある「始めにロゴス(ことば)があった。ロゴスは神と共にあった。ロゴスは神であった」という記事と類似しています。

これによって、ロゴスというものに対してギリシャ人、ローマ人はひじょうに信頼を持って接していたことが分かります。キリスト教でいうロゴスは、言葉一般ではなく、イエスの語った神の言葉を指しています。

アーリア人(ローマ人)がキリスト教を受け入れる際に、このロゴスを取り込みました。マタイとマルコ、ルカという3つの福音書には、ユダヤ思想が全面に滲みでています。

とくに「新約聖書」でも、後ろに置かれている「ヨハネによる福音書」は、アーリア人の考え方が現われていると専門家たちはいいます。この「ヨハネによる福音書」は、先の3人の福音書よりも数10年も後に書かれたもので、おそらく紀元100年前後ではないかといわれているものですが、その時代においてさえ、ギリシャ思想が濃厚に反映されています。「始めにロゴスありき」がその代表的なフレーズです。

ところで、ロゴスで思い出したことがあります。

余談ですがそれについて若干述べてみます。というのは、文豪ゲーテが書いた「ファウスト」のことですが、これは2部からなる戯曲で、1部は1808年、2部は1832年に完成しましたが、ストーリーはファウスト博士が悪魔メフィストフェレスと魂を賭けた契約をし、世界を遍歴するという、ご存知の物語です。

老人になったファウスト博士は、暗い書斎のなかで、「ロゴス」という言葉をドイツ語にどう翻訳すべきかを考えます。

最初は「ことば(Wort)」と訳しますが、それに満足せず、つぎに「意味(Sinn)」、そのつぎに「力(Kraft)」と訳してみても、どうも落ち着かないのです。最後に「行為(Tat)」と訳してみて、やっと納得します。ロゴス=行為。そこへ突然メフィストフェレスが現われて「行為」がはじまります。

――自分は哲学もやった。法学もやった。医学もやった。あらずもがなの神学もやった。すべて汗牛充棟、懸命にやった。――と、このように呟くファウスト博士は、ロゴスを訳し終えたところで、ある決断をします。

ファウスト博士と少女マルガレーテとの恋愛を、いよいよ実行(行為)に移すことを決断し、そのとおり実行します。それがマルガレーテの身の破滅を招くという物語です。

漢訳した多くの人びともまた、サンスクリット語の原典を読んで、ファウスト博士のような煩悶を覚えたであろうことは容易に想像できます。サンスクリット語でいう「プラジュニャプティ」という語は、漢訳では「ことば」ではありますが、それだけでは不完全、不充分であり、「知らせるために、それに対応した概念を一応つくりあげたもの」という内容を持っているといいます。

そのような理由で、このサンスクリット語の漢訳語として「施設(せせつ)」あるいは「仮名(けみょう)」という字を当てています。翻訳者の苦心の跡がしのばれます。サンスクリット語の単語「ことば」には、数かぎりなく意味があると、言葉の概念自体のなかに既に取り込んでいるというのですから、恐れ入ります。

シェイクスピアの「ハムレット」には、「弱きもの、汝の名は女なり」という台詞があります。母親がこれを聞くと、きっと「女は弱い」と聞くであろうと、ハムレットが独白する場面があります。ハムレットは「女は弱い」といったのではなく、弱きものに名前がないので、女と命名しようという意味で、母親が誤解することを狙って巧妙に仕組まれた台詞になっている部分です。

シェイクスピアもまた、言葉には格別な関心を抱いていたようです。

ついでに、シェイクスピアの「ソネット」第146番をはじめ、いくつかの文章を紹介すれば、人間についてこういっています。

 

Poor soul, the center of my sinful earth……(わが罪深き地球の中心たる哀れなる魂よ……シェイクスピア

This bed thy is, these walls thy sphere.この寝床はおまえの中心であり、四つの壁はおまえの天球層だ。J・ダン

 The moral law lies at the centre, and radiates to the circumference,道徳律は自然の中心に位置し、円周にまで放射状に及ぶ。R・エマーソン

 

――というように、ヨーロッパ・アメリカ文学に描かれた文学作品における人間は、何かの中心につねにあることを強調しています。

それらの多くは、サンスクリット語ではないけれど、さまざまな言葉に囲まれた囲いのなかにあります。言葉は、あるときは太陽のように燦々と降り注ぎ、あるときは地中から滾々と涌き出てくる言葉の渦のなかにある、そのように読めます。

日本の自然観と違って、そこに人間が同居する、同棲するという位置づけでは決してないのです。この違いはどこからくるのでしょう。

「オックスフォード英語辞典」(OED)にこんな文章が載っています。

「辞書人(homo lexicograohicus)はヒトの中の、青銅の腸をもった(chalcen-terous)亜種である」と。腸の強さを試すような難事業に立ち向かった人びとという意味です。

文化的にまったく異なるものを移しかえる翻訳事業というのは、このような意志の強い人びとの気の遠くなるような年月と才能をかけ、遂行されていったのだと思います。仏教思想もまた、何も知らない人びとに布教していくのには、翻訳事業とおなじように、まさに青銅の腸を必要としたであろうことが分かります。