流俳人のごさ。
 
  俳句 もいいなあと、ときどきおもうことがあります。ひょんなことから、亡くなられた野澤節子さんの句をおもい出しました。

 

冬の日や臥して見あぐる琴の丈

春昼の指とどまれば琴も止む

 

彼女の句は多くの人に愛されて、その死を惜しまれました。1995年7月号の「文藝春秋」に、野澤節子さんの死を悼む句が載っています。

死は忽とさくら蒼ざめゐたるかな    (松山市 泉 頌子)

花冷の琴を遺して逝かれけり     (多摩市 安達隆吉)

ぼくは中学生から高校生のころに俳句をつくっていました。それ以来、詩を書くことはあっても、俳句をつくったことがなくて、もっぱら読むばかりです。北海道・北竜町には俳句作家がたくさんいて、中学生のころ、そういう大人たちの句を読んで、真似をして書いたりしていました。

葬られるまで馬の尻さらされて    (北竜町 中村耕人)

後頭をもたぬ豚にて愛さるる     (北竜町 中村耕人)

ぼくは中村耕人氏とは一面識もありませんが、村のどこかで会っていたかもしれません。いま覚えているのは、この2句だけですが、中学生のぼくに強烈な印象を与えました。これは「無季雑語」といって、季語がありませんが、北海道の人ならわかります。冬です。どちらも雪の上でおこなわれます。夏場に馬が亡くなると、業者に処分してもらいますが、冬場は、人が亡くなっても、遠ければ火葬場まで運ばず、雪の上で荼毘にふします。

学問を終えたる途の冬木立    (北竜中学3年 田中幸光)

馬の背にカバンくくりて丘に立つ (北竜中学3年 田中幸光)

大人たちの句を読んで、俳句というのは、こんなふうにつくるものなのか、とおもいました。中学生の国語の本に載っている句とずいぶん趣きが違っています。馬の死に出会ったり、豚の屠畜に出会ったりしていたからでしょう。北海道では当時は、ごく見慣れた風景ですが、作家は違うなあとおもったものです。描写がすぐれています。

先の「文藝春秋」に、黛まどかさんの文章が載っています。彼女が俳句に興味をもったのは、たまたま書店で、田辺聖子さんの小説「花衣ぬぐやまつわる……わが愛の杉田久女」(集英社、1987)の主人公が、俳人杉田久女であったことから、久女の足跡をたどる旅番組に、レポーターとして出演し、それが縁で、俳句の世界に魅せられていったのだそうです。ОLさんをしていたころと書かれているので、彼女は銀行員だったころ、というわけですね。

この人はその後、女優になり、NHKの大河ドラマでもお目にかかっていました。その方が俳人になられたという話は知っていましたが、彼女の句は、一度も読んだことがありません。杉田久女の句にすっかり魅せられたわけですが、ぼくも杉田久女の妖艶な句に魅せられたひとりです。

彼女の存在をはじめて知ったのは、松本清張さんの「菊枕」を読んでからです。

彼女は明治23年に官吏だった父の郷里、鹿児島で生まれています。明治41年に御茶水高女を卒業し、翌年に画家の杉田宇内と結婚。夫が小倉中学校の図画の教師になって赴任したため、小倉に住みます。大正5年の秋ごろ、「ホトトギス」や「曲水」に俳句を投稿し、高浜虚子に認められ、長谷川かな女とともに、女流俳人として世にデビューしました。

すばらしいデビューでしたね。

そしてぼくは、ははーん、とおもいました。

松本清張さんの小説に、杉田久女が登場するのがふしぎでした。作家は、稀代の読書家です。俳句をよく読んでいます。読んではいるのですが、なぜ杉田久女を描く気になったのか、よくわかりませんでした。いま、そのわけがわかったような気がします。彼女と清張さんをむすびつけたものは、小倉という地名と、これからのべる久女の壮絶な懊悩だったとおもいます。

高浜虚子に師事した久女は、やがて虚子によって破門されます。

破門の原因は、久女の精神的な変調だったとのべられています。「新潮日本文学小辞典」(新潮社、昭和43年)によれば精神分裂症と書かれています。

彼女は、虚子の門下の女流俳人たちが、華やかにデビューし、名声をほしいままにしていくのがまばゆいばかりに映る。久女はおもいます。自分だけは、虚子の恩顧が薄いからだとおもい、ひとり悩みます。

彼女は虚子に手紙を書く。

昭和9年から14年までの6年間に、230通におよぶ手紙を書いたというのです。ちょっと読んでみたくなります。昭和10年に「ホトトギス」を除名されてからは句作を断念し、それからは入院生活となり、昭和21年1月、数え年57歳で、この世を去りました。

 

花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ

菊干すや東籬(とうり)の菊を摘みそへて

白妙の菊の枕をぬひ上げし

ぬひあげて菊の枕のかほるなり

足袋つぐやノラともならず教師妻

(こだま)して山時鳥(やまほととぎす)ほしいまま

 

この「谺して山時鳥ほしいまま」は、昭和5年に風景院賞を受賞しています。彼女のいちばんあぶらの乗ったころの句です。

菊枕をすると、菊酒とおなじように、この枕で寝ると邪気を払い、延命効果があるといわれ、陶淵明の「澄懐録」という詩にも、菊がからだにいいと歌われているそうで、菊女は師のために菊枕をつくって上京します。なんとも甲斐甲斐しい句であり、松本清張さんはそこから取って「菊枕」というタイトルにしたのでしょう。

小説では、久女は「ぬい」という名で出てきます。

色白で背が高いと書かれています。高浜虚子は宮萩栴堂(せんどう)という名で登場しています。

清張さんは、小説では久女の句を、こうのべています。「ぬいの句は、華麗、奔放と称され、後年評家によると、《奔放な詩魂、縦横なる詩才を駆って光炎を放った。その句は一言をもっていえば、古代趣味であり、浪漫派であり、万葉趣味である》と」。

小説の最後は、こう書かれています。

 

――昭和3年か4年の秋であった。ぬいは布で作った嚢(ふくろ)をもってしきりと出歩いた。帰ってくると嚢の花でも干すと、凋んで縮まる。それを香りがぬけぬように別な布嚢に入れ、さらに花を摘んできては干した。何をするのだと圭助()がきくと、「先生に差しあげる菊枕です」と言った。

その菊の花がいっぱい詰まった枕は長さ一尺二寸ばかりで、普通の枕の上に重ねて頭を載せるのだと説明した。

ぬいは昭和十九年、圭助につれられてある精神病院にはいった。はじめは、俳句を作らねばならぬなどと口走り、しきりと退院をせがんだが、その後は、終日、ひとりで口の中で何か呟いていた。ある日、圭助が面会に行くと、非常によろこび、「あなたに菊枕を作っておきました」と言って、布の嚢をさしだした。時は夏であったから、菊は変だと思い、圭助が内部を覗くと、朝顔の花が凋んでいっぱいはいっていた。看護婦がぬいにせがまれて摘んできたのである。

圭助は涙が出た。狂ってはじめて自分の胸にかえったのかと思った。

※松本清張「或る《小倉日記》伝」(新潮文庫)に「菊枕」が収録されています。

 

ぼくはどうも、芭蕉や一茶の句にも魅了されてはいますが、このような俳句を読むと、女の情念がねばりつくように詠われていて、彼女たちの命を感じてしまいます。「すごい!」のひと言です。