ィンセント・ヴァン・ッホは2人いた。

 ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ。

   2007年に出た伊集院静の「美の旅人」(
上下2巻・小学館)はおもしろい。

なまじっかの絵の解説記事より、ずっとおもしろい。その「美」の「旅人」という語に惹かれた。

ぼくが絵を描いたという体験は、ずっとずっとむかしの高校生のころだった。あれからほとんど絵を描いていなかった。描こうなんて思わなかった。

いろいろな展覧会を見ているうちに、絵のおもしろさに取り憑かれるようになった。絵を見ることのおもしろさを発見した。やがてそれが嵩(こう)じて、描くことのおもしろさへとのめりこんでいった。ゴッホみたいなものだろうか? たぶんに、日本画家の高橋俊景先生の影響がおおきい。

 
  ゴッホも、人からすすめられて絵を描きはじめた。

「あなたも描いてみれば、……」

最初、ヨーコにそんなことをいわれて、しぶしぶ展覧会に付き合っていた。それでおもい出した。ヴィンセント・ヴァン・ゴッホのことだった。――高校生のときに読んだゴッホの生涯。ゴッホの手紙。オランダの故郷の墓には、3つおなじ墓標がならんでいる。「ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ」という名前の墓が2つある。

ぼくがゴッホに興味を持ったのは、そのことと、彼の手紙文(岩波文庫)だった。ゴッホという人物に最初に触れたのは、彼のすばらしい文章だった。

ぼくは、北海道のいなかのことだから、だれにも相談することなく、気ままに絵を描いていた。そのときに知ったゴッホの絵に、なにしろ、強烈なものを感じた。

あの「ひまわり」は忘れない。

ふるさとの北竜町の花に制定された「ひまわり」である。町には「ゴッホの丘」と名づけられた広いひまわり畑がある。観光客がその畑をながめる。あらためてゴッホの絵を見詰めなおし、そのたびに、感情惻々とした感慨に打たれる。

 昭和62年ごろ、嶋守優子さんという北海道の人材派遣会社社長あてに書いた手紙の写しが出てきた。ぼくは、ゴッホのことを書いている。

死産だった長男のヴィンセント・ヴァン・ゴッホ。長男の死を悼んで次男にもヴィンセントと名づけた。それが悲劇のはじまりだった。

そして、ゴッホの死の翌年に死んだ弟のティオの墓と3つならんでいる。だれにも認められなくても、ひたすら絵を描きつづけたゴッホである。

絵のじょうずヘタは関係ない。情熱をもってひたすら絵を描くのである。――この「情熱」ということばは、ゴッホのために存在するような語だなあとおもう。ゴッホのように情熱だけで描いた画家はそう多くないだろう。むかし、画家は注文を受けて絵を描いている。ルノワールにしても、ピカソにしても、レンブラントにしても、ゴッホのような情熱で描いたとはおもえない。

なぜなら、右にあげた3人には、多くの駄作がある。しかしゴッホには駄作というものがない。どの絵にもほとばしる情熱だけで描かれている、……とおもう。

たとえば北斎は、75歳以前に描いたものは、「とるに足りないもの」と自分で決め付けている。彼にとって、「富岳三十六景」は駄作と決め付けているのである。北斎の情熱は、75歳から火がついた。

画家の成功とは、いったい何だろう?

日本の美術界を概観すると、日展を頂点にしておよそ500にのぼる団体展があるといわれている。さいきんは、貸し画廊というのも多くなり、デパート展や新興画廊も増え、むかしよりはるかに画家にとってチャンスが広がったように見える。

老舗画廊というと、われわれ一般人にはなかなか中に入れないという、名状しがたい、しかつめらしい独特の雰囲気を持っている。

「ここにあるのは、おまえたちには買えない絵ばかりだぞ!」といわんばかりの画廊がある。街を歩く一般人を相手にしない画廊である。

美術家だけを相手にした画廊。――いわば、一般衆生を相手にしないお寺みたいなものだろうか。もとより、そこは画商が開いた画廊である。ここで美術家たちが《交換会》と称して、絵の売買をしている。そういう画廊がある。

こういう画商のもつ画廊もあれば、ただ場所を提供している画廊もある。近年は東京都内だけでも500以上もあるというけれど、このたび、麻布十番の画廊をしらべたロッキーの話では、「麻布十番には、たった1つしかないんですよ」という。

どういうわけか、麻布十番には画廊がないそうだ。

そこで、ロッキーは住宅を建てるとき、1、2階をギャラリーに開放する考えを披露してくれた。設計図面らしきものもできているらしい。それはいい考えである。あちこちにある商売としての画廊だけじゃなく、学生たちによるグループ展なども手軽に催すことのできる画廊をつくりたいという。

もちろん多くの画廊には、そうした無名作家の個展から大家の新作発表展までいろいろある。専門家の話によれば、画廊とひと口にいっても、有名な画廊では、だれにでも個展を開くことがきるというわけじゃない。画廊としての「格」というものがあって、それにふさわしい画家を選んで企画展をおこなったりしているらしい。

これに対して、貸し画廊は、お金さえ支払えば、だれにでも開ける。

さて、ここで考えたいのは、画家にとって成功というのは、どういうことなのだろう? ということだ。――スポーツには記録というものが存在する。成功の影には記録が物をいう。しかし、美術界にはそういうたぐいの記録はない。美術の世界では、何をもって社会的な評価を受けたといえるのだろうか? 人が大勢きてくれたという来店数のことなのだろうか? あるいは、作品がよく売れたから成功といえるのだろうか?

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展覧会を開催するときには、画家であれ、画商であれ、まず新聞や雑誌などにいい批評が書かれることを期待する。それはとうぜんだけれど、新聞や雑誌が取り上げる批評には限界がある。作品がメディアによって高く評価されたからといって、かならずしも売れるという保証はない。

ヨーロッパやアメリカの画廊と違って、わが国では、――池田満寿夫はかつて、こんなことをいっている。――大部分の画廊は、会期が決められ、個展は1週間や10日間のみじかい期間で、会場も狭く、はじめから観客動員できるような機能を持っていないというのである。

少なくとも、池田満寿夫の場合は、画廊での個展は、はじめからかぎられた愛好者か、専門家たちのために発表するというべつの目的がちゃんとあり、一般人向けになっていないという。

批評もよくて、絵も売れ、観客動員も多かったという3拍子そろえばもちろんいうことはない。しかし、それが画家にとっての成功と、はたしていえるのだろうか? という彼はいっている。

当の池田満寿夫自身にしてから、このような個展は、めったにやらなかった。個展にたいして、多くを期待していないからだろう。

かつて、批評には一言ものぼらず、観客数も少なく、それでいて絵だけは全部売れたということがあったという。

それをもって、成功したという考えはないと彼は言明している。池田満寿夫の場合、銀座の画廊で、3週間個展を開いても、せいぜい数100人の動員しかなかったという。

これがデパートの企画展なら、1週間で1万人を超える動員数があり、それがあたりまえなのだが、そうでなくて、画家ひとりの個展となれば、動員数はかぎられるという。しかし、美術の世界では、一定のコレクターを持っていれば、じゅうぶんにやっていける世界であると池田満寿夫はいい切る。

しかし、彼にも苦しいときがあった。

ビエンナーレであれ、トリエンナーレであれ、美術界には世界のコンクール展というのがある。いずれもコンペティション方式を取っている。

昭和53年、第2回東京国際版画ビエンナーレ展で、池田満寿夫は文部大臣賞を受賞した。その後、彼としては自信をもってのぞんだ銀座での個展は、来る日も来る日も、お客は10数人という、なんともわびしい閑散としたもので、新聞批評子からは、かんぜんに無視された。

その後、売れ残った版画を、パリ青年ビエンナーレ展に出品し、優秀賞をもらって、いくぶんかは鬱憤晴らしができたようだけれど、日本の批評家からちゃんと批評されるようになったのは、それら外国の賞をもらってからだったと告白している。

やはり国際賞というものを取らないと、日本でのまっとうな評価にありつけなかったと述懐しているのである。池田満寿夫は、日本ではデビューを果せなかったが、ニューヨークという大舞台で活躍し、ニューヨークで本格的なデビューを飾った。

ニューヨーク・タイムズ紙で大々的に賞賛され、しかも同時に開いていたAAA画廊という有名画廊での個展出品作がぜんぶ売れるという快挙をあげた。

画廊の場合は、観客動員数よりも、コレクター数のほうが重要になると池田満寿夫は力説していた。一流画廊のしきいの高いのは、そのせいだろうと述べている。